南直哉「超越と実存─「無常」をめぐる仏教史」(4)~第2章 アビダルマ、般若経典、華厳経典の思想
前章で見たブッダの悟りについて、何も語られていないのだから、ブッダ以後の人にとっては、彼の後を追って悟りをめざしても、どうしたらいいか分からないし、仮に悟ったとしても、それが本当に悟りであるかどうか分からない。悟りとは、いってみれば、実体(アートマン)として存在しないものを、存在すると錯誤ことの自覚であり、この錯誤が言語機能による「迷わせる不当な思惟」から生起すると認識することである。この自覚と認識は、「私がある」という事実から生じる決定的問題、例えば「私とは何か」、に決して正しい答えを与えない。正しい答え、つまり真理は、それ自体として不変でなければならない。無常や無我でありえないのだ。しかし、この解消しがたい問いに、「私」という様式で実存する存在者=人間は耐えられない。だから答えを出そうとする。ゴーダマ・ブッダが亡くなると、間もなく、その試みが始まる。ある存在に実体はない。しかし、その存在には根拠がある。この矛盾した考え方を解決する場合、神だの霊魂だの持ち出すことなく用意できる最も単純な答えは、その存在自体には実体がないとしても、別の何かが集合して、あたかもそれが実体としてあるかのように見えているという考え方だ。つまり、超越的な根拠を外部に設定するということを始める。そのような考え方は形而上学と呼んでもいい。
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