南直哉「超越と実存─「無常」をめぐる仏教史」(5)~第3章 法華経、浄土経典、密教経典の思想
『法華経』はブッタとその教えの絶対性を主張する。絶対性とは、普遍性(誰でも真理を悟って成仏できるという)と永遠性(ブッダの教えは歴史を超越して無限の過去から未来へと存在する)である。ところで、絶対性は、人間に理解可能な言語で表現されたり証明されたりことが、原理的にない。そこで、一神教はしばしば奇跡のエピソードを持ち出して、それを小委しようとする。『法華経』では、奇跡のかわりに「火宅」のような比喩話を持ち出す。この『法華経』の転回は、上座部が教説の前提とする歴史的実存としてのゴーダマ・ブッダを超越的理念的存在に転換して、修行者や信者に開放したことである。そして、修行して成仏するという基本パターンに法華経を信じる者は成仏できる授記というサポートを加えた。
『浄土経典』は、法華経の場合のサポートを超え、極楽浄土という世界を主宰する現存の阿弥陀如来が教えを信じて浄土に生まれたい「往生」を願う衆生を招き入れ、人間世界の苦境の中では実践困難な修業の便宜を図って、最終的には浄土で成仏させる。その要件として南無阿弥陀仏をとなえる念仏により、救済の普遍性という一神教的世界が成立する。
密教は、7世紀ごろヒンドゥー教の勃興に対抗して成立した。その対抗の方法はヒンドゥー教の源流であるヴェーダ聖典の利用だった。つり、ヴェーダ聖典の核心は宇宙における超越的原理的存在であるブラフマンと自己存在の内在的根拠であるアートマンの一致を目的とすることである。密教は、この梵我一致を大日如来と修行者との一致に置き換えたのだ。したがって、密教は思想のパラダイムが仏教とは異質なのだ。密教の言葉、「真言」はそれ自体としてある。つまり、言語が単なる記号ではなく、それ自体が実体的な力を持つ。これは、もともとの仏教が言語による現象は錯覚だという考え方とは別物だ。
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