南直哉「仏教入門」(4)~第3章 縁起と因果
一切の存在は無常で無我だとすると、無常で無我なまま、いかに一切は存在するのか、問われた時、その説明に持ち出されるのが、「縁起」と「因果」である。
普通、我々は原因があるという言い方をするが、それはあたかも「原因」というものが、それ自体で存在しているかまように考えている。因果律それ自体が、普遍的かつ実体的な原理のようにこの世に存在し、その原因とされたものが自動的に何らかの力を発揮して、結果となる事態を自動的に引き起こすと理解している。しかし、因果律はそれ自体で実在する原理ではなく、思考の道具である。だから、それ自体では存在するものではなく、何らかの目的に使われてはじめて意味を持つ。因果律は、後に結果とされる事態に直面して、その後原因が発見されたり、特定されたりものだ。だから、原因は「ある」のではなく「認識される」のだ。要するに「結果」とされる事態を操作する目的のたにどうするかという思考の道具に過ぎない。原因と結果と認識されるものは、膨大な因果の連鎖や条件が錯綜する事態から、一部を恣意的に切り取ったものなのだ。だから、因果律で事態を説明できたからといって、それが真実になるわけではない。
このような考え方に基づいて、縁起、ここでは十二支縁起や四諦について著者の解釈が述べられる。
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