南直哉「超越と実存─「無常」をめぐる仏教史」(3)~第1章 ゴータマ・ブッダ
序章でいうように形而上学の超越的真理ではなく、現実の人間のあり方、つまり実存を「無常」「無我」として捉えたブッダの思想が、次第に超越的真理となっていく経緯をみていく。つまり、最初に著者が仏教徒それ以外と区別していた仏教が次第にそれ以外にすり寄っていくプロセスをのべているのが本書の大部分である。それ以外ではない仏教は創始者であるゴーダマ・ブッダの思想である。
仏教の経典には、ブッタの「悟り」について、その内容は語られていない。というのも、ブッダは言葉にできないような根拠のない何か分からないものを追求しようとしたのだろうし、それを語ることには意味がない、語ることができないのだった。それについて、著者は推測する。ブッダは、人が苦しむのを目の当たりにして、そこから考え始めた。その苦しむというのは、人間には「自己」というものがあるからだ。自己は「私がいる」「私である」と認識する実存と、それを承認する他者が共同で仮設している存在様式だ。動物には、この自己がないから苦しい感じることはない。人は自己を持つ。それは、古代以来インド思想では自己を実体化しアートマン(我)と呼んだ。ブッダは、その自己というあり方に疑問を持った。自己が存在根拠を持つ実体と考えることを否定した。これが後の仏教の中心的教説となる無常とか無我という言葉の核心的意味である。自己という実存様式は、具体的には自意識として現象化する。そして自意識の現実様態は私とは私である説明できる事態、つまり言語機能である。自己の実存は自意識的実存であり、言語内存在なのだ。この自意識と言語機能が、無常、無我であるはずの自己を、それ自体に根拠を持つ実体と錯覚させるのである。「机」と呼ばれる個々の物体は千差万別だが、それらはすべて「机」である。言い換えると、「机である」と認識されたものが「机」であるということになる。このことは、個々の物体には「机である」と認識させる何かから内在していて、それを「自己」が認識する、という理屈を作っている。これとまったく同じ理屈が、「私がいる」という認識、つまり自己認識にも作用している。時と場所が異なっても同じ「私」がいるのは、その同一性を保証する根拠があるからであり、その根拠こそが真の私であると言いたいわけだ。およそ存在するものは無常であり、何ものも存在するものはそれ自体を根拠づけない(我ではない)にもかかわらず、「我である」と錯覚することが苦しみの原因なのだ。
しかし、「我である」は錯覚であり、無常とか無我といって、そんなものは「ない」と言ってしまうことは、「ない」というものがあるということになってしまう。だから言葉でかたることはできない。語りえない、語ることに意味がないのだ。
« 南直哉「超越と実存─「無常」をめぐる仏教史」(2)~序章 問いの在りか | トップページ | 南直哉「超越と実存─「無常」をめぐる仏教史」(4)~第2章 アビダルマ、般若経典、華厳経典の思想 »
「書籍・雑誌」カテゴリの記事
- 清水博「生命知としての場の論理─柳生新陰流に見る共創の理」(3)~Ⅱ.剣の理と場所の理(2024.09.24)
- 清水博「生命知としての場の論理─柳生新陰流に見る共創の理」(2)~Ⅰ.場所とは何か(2024.09.23)
- 清水博「生命知としての場の論理─柳生新陰流に見る共創の理」(2024.09.18)
- 渡邉雅子「「論理的思考」の社会的構築─フランスの思考表現スタイルと言葉の教育」(4)~終章 フランス社会の<論理>の構築─ディセルタシオンが導く思考表現スタイル(2024.09.04)
- 渡邉雅子「「論理的思考」の社会的構築─フランスの思考表現スタイルと言葉の教育」(3)~第2章 哲学のディセルタシオンと哲学教育(2024.09.03)
« 南直哉「超越と実存─「無常」をめぐる仏教史」(2)~序章 問いの在りか | トップページ | 南直哉「超越と実存─「無常」をめぐる仏教史」(4)~第2章 アビダルマ、般若経典、華厳経典の思想 »
コメント