無料ブログはココログ

« 立岩真也「私的所有論」(4)~第3章 批判はどこまで | トップページ | 南直哉「仏教入門」 »

2024年6月16日 (日)

立岩真也「私的所有論」(5)~第4章 他者

 著者が批判しようとしているのは主体による制御を所有の根拠にする議論と、自己による制御から出発する発想である。ちょしゃは、ここで、制御できることに価値があるという発想を転換させ、むしろ制御できず、また制御しないことの方に価値がある、ということを言おうとする。
 私が制御できないもの、精確には私が制御しないものを、著者は「他者」と呼ぶ。この「他者」とは、私との違いで規定されるのではない。ただ、私が制御しないものとして在るものだ。私の存在は、私が作り出し制御するものではなく、私のもとにあるもの、私が在ることを、奪うことはしない、奪ってはならない、そう思われている。他者が他者として、つまり私ではないものとして生きているときに、その生命、その者のもとにあるものは尊重されなければならない。それは、人は、決定しないこと、制御しないことを肯定したのだ。他者が存在し、他者の決定しない方が私にとってよいのだという感覚を持っている。自己が制御しないことに積極的な価値を認める、あるいは私達の価値によって測ることをしないことに積極的な価値を認める。
 これは「制御できない」ものを制御すべきではないと言っているわけではない。自己によって制御不可能である他者が存在するから、私は他者を世界を享受する。制御でき敵も制御しないことにおいて、他者は享受される存在として存在する。世界が私にとって制御可能であるとしたら、それは私と同じであり、退屈なものとなる。それは欲望の対象とはならないだろう。私が届かない他者が在るということを受け容れる、あるいは肯定する感覚が、人にはある。それゆえ、私が選択し行ったことが私を指し示し私の価値を表示すという社会のシステムを信用しない感覚がある。他者を意のままにすることを欲望しながら、他者の存在を尊重する感覚がある。この欲望がありながら、それを抑制しようとする感覚がある。
 さらに、この「他者」はいわゆる他人に限らず、自分の精神に、あるいは身体に訪れるものも含まれる。私の身体も私にとって他者であり得る。私が思いのままに操れるものが私にとって大切なものではなく、私が操らないもの、私に在るもの、私に訪れるものの中に、私にとって大切なものがある。それゆえに、それを奪われることに抵抗する。例えば、身体は道具として、本人によってしか動かすことはできない。しかし。その処分権は本人にはない。また、結果は本人のものではない。身体は、本人にとっては必要不可欠な道具であり、それを奪うことはできない。それを奪うことは本人の存在を否定することになる。その一方で身体は感受されるものであり、本人自身にとって他者でもある。
 私たちは私による世界の制御不可能性の上で、何かをしたりしなかったりするのであり、そこでどれほどか私の意のままに私と私の周囲とがなることから確かに快楽を得ている。しかし、その不可能性がすべて可能になった時には、私たちにとっての快楽も終わると言える。このような感覚や快楽は基本的な感覚、倫理である。、これがないと、基本的なよい/わるいについての判断を導くことが論理的にできない。そのような゜価値を私たちは持っており、失うことはない。人は操作しない部分を残しておこうとする。それは人間に対する操作が進展していく間にも、あるいはその語にも残るはずだ。それはまったく素朴な理由から出、他者が在ることは快楽だと考えからである。
 その上でしかし、当然のことだが、仮に他者を「制御しない」ようにしようと思うとして、具体的にはまだ何も言ったことにはならない。私たちは世界を制御することへの抵抗感と世界や他者を手段として使う(制御する)、それら両方を使い分けている。後者があって交換や分配が成立している。例えば、贈与では、私自らが自らのもとにあるものを他者のために譲渡するのでだから、このとき自らのもとにあり他者に贈与しようとするものは、その目的の他の手段としてはならないのであれば、他者のために自らのものを手段として贈与できないことになる。そこで、何をその者のもとに残し、何を移動させることができるのかという問いが生じる。その基準は何なのか。それは誰が決めるのか。
 私たちの現実において、いくつかのものは既に特定の人とのかかわりを持っている。「Aがxを行う」のをBが取って代わることはできない。そこに規範的な境界はないけれど、AやBにくっついて存在する領域が、AにもBにも関わらない領域とともにある。しかし、Aがxを行うという事実を認めることと、その行為の結果をその者が取得する権利があることとは別のことである。xをAが獲得したから、xはAのものであるとは言えないが、Aが行為を介してxを獲得したこと自体を否定したわけではない。また、xがAのもとに置かれるのは、xがAのもとにあるということがAがあることの一部をなしているとき。このことから、そうでなければ、xはAのもとから離れてもよいわけだ。Aのものではない。Aが作った生産物はAがいなくても存在することができる。A自身もxを譲渡する用意のあるものとして生産する。AにとってAが在ることから切り放すことができるものを、Aは手段として、制御の対象とする。また、そういうものの多くを別の人は使うことができる。他者が他者であることを保存したまま移動させることができる。
 これらのことから、何をその者のもとに残し、何を移動させることができるのかの基準は、、当人つまりAから切り離すことができないもの、Aから切り離すことによってそのものの存在が失われるようなものであるかどうか、である。Bのものになることによって、Bによって制御する、制御し尽くすことによって、そのもののAにとっての意味、そして私たちにとってAの意味が失われてしまうようなAのもとにあるaを、Bは制御してはならない。それはAのもとに置かれなければならない。そこにBが介入すること、aを奪うこと、aの譲渡を求めることをしない。一方、Aは、この状態から自らを解き放つことはできない。Aの在り方を譲渡しようとしないものとして、譲渡しようのないものとして、引き受けている。この時、xはAにとって他者としてAにある。Bにとって、このようにAがあるということはAが他者としてあるということである。
 それはAがそれを領有しているからではない。Aのもとに置かれるものaであるとは、aとは独立の存在であるAがaを所有していることではない。領有というときには、領有されるものは領有する者とは別に存在する。それは、事実として制御できるかどうか、与えられたものなのかねといったことは本質的な問題ではない。具体的に挙げられるのは、性や子をもつことなどの経験自体への自由は奪われてならない。すべての具板的な場合についてあれかこれかを判断できるものではない。しかし直接に知ることはできないにしても、試すことはできる。事実、それらを自らのもとから切り離すこと、他者に譲渡することができず、それを私のもとに置こうとする場合にだけ、私のもとに置かれることを認めることである。
 そこで、自己決定である。まずは、当人が決められるならば当人に委ねるべきだとされる。相手を尊重することの一部に自己決定がある以上、他者であることの尊重と自己決定の尊重は矛盾しないし、自己決定は尊重されるからである。この自己決定、何について自己決定できるのかは、前章の自己決定権とは異なる。生産者=労働者の権利の範疇に収まるものではない。そのように決めたと言えば決めたことであると言えることの中に、制御しないことが含まれるのであり、制御すること自体を価値とするのではないし、制御できることに権利が発生するのだと捉えることもしない。
 その一方、自分で決定して、決定したことを自分でやるなら、それが誰にも迷惑をかけないなら、誰も困らない。これに対して、例えば身体障碍者の場合、その人は決定できるが、その決定の実行は他人が行う。その他人には負担という不利益が課されることになる。この場合、自己決定は実現されるとは限らない。このような場合に限らず、何かを提供する側と受け取る側の利益が対立するのはよくあることである。とはいえ、いちがいに自己決定を受け容れることが不利益だとも言い切れない。それは決定がどういう方向を向いたものか、どういう内容の決定であるかによる。あるいは決定に関わる責任といった面倒を決定者に帰属させることで心理的負担を取り除くことができる。決定をめぐる決定は、このような背景のもとに行われている。自己決定としてなされることのすべてを、自己決定だから認める、と単純には言い切れないわけだ。例えば、代理出産を依頼する側が自己決定をして依頼する。代理母の側も自己決定して依頼に応じる。ここに著者は、、むしろ当人の自己決定も含めて問題があるという。Aがa(それは他の者が手段とすることを望まないものかもしれない)を手段として扱うことができ、それを譲渡してBからbを得ようとする時、それを認める。だがなお抵抗がある。例えば借金に追われて自殺が選ばれる、あるいは腎臓を提供する。性を提供する。たしかにその人はそれを選択し、自己決定した。腎臓よりお金を優位においた。死ぬ方がよかった。この事実を否定する必要はない。自殺だったら、生命という私たちの大抵が大切にしているものが天秤の片方に乗っているからこれは大変だと思うかもしれない。しかし、天秤に乗るものの大切さの大きさが基本的に重大な問題なのではない。お金よりも腎臓や性の方が大切なもののはずだというのではない。大切さは状況相関的に決まる。
 私たちは、結局のところAの行いを止めることはできなくとも、これらが悲惨なことだと考えるし、Bのすることを非道だと感じる。このような悲惨さの感覚、非道だという感覚はどこから来ているのか。その人は、その人が在ることと切り離せないもの、在る時にはついてまわるものを切り離さなければならない。手段として扱うことができないものを手段としなければならない。手段として扱うことができない両方を天秤にかけ、比較しなければならない。その一方を失うことによって初めて他方を得ることができる。αにあるものとαにあるものを比較しどちらかを失わなければならない。あるいは、αにあるものを自らに置くためのβを得るために、αにあるものを譲渡しなければならない。当の者の同意があっても、その者があるものを譲渡することが私たちにとって無残なことだと映るのは、制御の対象として想定していないものが、制御されるもの、比較されるものの範疇に織り込まれる場合、そこで他者の他者性が剥奪されてしまう場合ではないか。他者が他者であること、自らが他者であることが尊重されるべきだという感覚は、そしてそこに生ずる快楽を得ようとする感覚は、これらを無残なことだと考える。このような場に人を置くべきでないと感じる。そしてそこから利益を得ることを卑怯なことだと感じる。そのような状況をBが、それがBにとってやむにやまれぬものであっても、利用すること。さらにBが、自分の中の何かを変えることなく(自分から切り離すことのできるbを譲渡することによって)aを得る、あるいはAにこのようなあり方をとらせること自体を目的とすること(この時、BはAを支配している)。このような場合に、たしかにBはAを自らの欲望によって制御したのであり、Aが自らに受領されるものとしてあるものをあえて制御し譲渡し失うことによってはじめてbを得ることができるのだとすれば、Bのなすことは不当なのである。他者を認める、あるいは他者から快楽を得ようとする感覚は、これらに対して抵抗する。
 では「抵抗する」として、規範的には何が主張されるのか。次のように著者は言う。譲渡しがたいものを譲渡せざるを得ないという決定をしないことを大切なことだし考え、自己決定を含めたその人のありようが大切なことだと考えるのであれば、決定すること(そして決定しないということを決定すること)も含めて生きることができる条件があることが前提になる。つまり私的所有権としての自己決定権を否定し、両者を切り離すことが必要になる。私的所有の原理の内部では、私の行える行いだけについて私が決定できるのであり、私の持ち物と交換して得られるものによって行わせることが認められるのだが、ここで主張されるのは、そういうことではなく、私があること、そしてその一部である私の自己決定を端的に認めさせることである。その自己決定の困難は生きるための、そして自己決定するための資源が十分でないことに関わる。自己所有と自己決定を等価とする誤解は、この点を考慮せず、自らの働きによって得たものや与えられたものだけが決定の対象となるから、自らの働きによって十分なだけを得られない者の決定を阻害することになる。例えば、身体障害者が自分でできず他者の力を借りなければならないことについては、自己決定できないことになってしまう。稼げず金のない人は病気になって死んでもよいということになる。
 そこで、自己決定のために人が得ることのできる範囲は、人並みに生きられるだけのもの(それは身体等々の状況によって変わる)であると著者は言う。ただし、具体的にどれだけのものになるかは、一義的に決めることはできない。一人一人の具体的な決定を具体的に実現していくかが考えるべきことだという。
 以上が、本書の中心的な主張と、続く諸章では具体的な場面での議論が考察される。

« 立岩真也「私的所有論」(4)~第3章 批判はどこまで | トップページ | 南直哉「仏教入門」 »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 立岩真也「私的所有論」(4)~第3章 批判はどこまで | トップページ | 南直哉「仏教入門」 »