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2024年6月27日 (木)

南直哉「仏教入門」(3)~第2章 苦、無常、無我

 仏教の自己と世界についての基本的な認識として、次のようなことが延べられる。
 「一切の形成されたものは無常である(諸行無常)」と明らかな智慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。「一切の形成されたものは苦しみである(一切皆苦)」と明らかな智慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。「一切の事物は我ならざるものである(諸法非我)」と明らかな智慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
 ブッダは老・病・死を嫌い、その嫌悪が若さ・健康・生存を驕る態度に由来することを問題視した。そのような嫌悪と驕りが可能なのは、人が若さ・健康・生存から老・病・死への移り変わりを認識できるからだ。その場合、変化が認識できるのは、変化しない何ものかについてである。老・病・死を嫌悪するためには、若くて健康で生きているときから一貫して変わらない「自分」というものが設定されていなければならない。人は変わらない「自分」を想定しているから、老・病・死を嫌悪できる。ならば、そういう「自分」を持たないなら、嫌悪などということは起こらないはずである。
 そういう自分を「私」と呼んでいる。「私」という言葉は名前の代替物である。名前とは他人と人間関係における位置を意味する。我々は、他人から名前を与えられ、その名前で繰り返し呼ばれ、呼ばれながら様々に扱われて、その相手との関係を徐々に理解する。その結果、多様な関係の結節点として自己という実存を理解する。するとこうなる、「私」と称する実存の名前はもちろん、肉体も他人に出来する。「私」の根拠は私にない。もし、人間と称する実存が、他者との関係の特定の結節点としての記憶をなくすか、他者にもその関係を承認されないか、あるいはその両方であれば、「私」は直ちに断絶し、崩壊する。「私」であることを根拠づけるものである、常に同一でそれ自体として存在するものは、「私」や様々な名前などの言語によって設定されたフィクションに過ぎない。このことは、「私」以外のすべてにも言えることだ。ある「机」が「机である」根拠はその物体そのものにはない。机として使われるから、その物体は「机」になる。この世の誰もが机として使わない机は「机」ではない。我々のその物体に対する行為の仕方。すなわち関わり方が「机」であることを生成しているのであり、「机」という語は、その関係の形式を意味する。
 そのような観点から「一切の形成されたものは無常である」という一節は、「あるものが何であるかは、そのものとは別のものとの関係からり生成される、それはそれ自体に根拠があって、そのようなものであるわけではない。関係の仕方が変化すれば、それはそのようなものではなくなる。」と言い換えることができる。
 ところが、言語は、そのような無常なものを、あたかも常に同一でそれ自体で存在するかのように錯覚させる。そのため、人間関係の結節点に過ぎず、記憶と他者からの承認を失えば即座に断絶するはずの「私」を、常に同一でそれ自体存在するもののごとく錯覚させてしまう。そこではじめて、「老・病・死」の変化を嫌悪し忌避できることになる。
 そこで、「一切の形成されたものは苦しみである」という一節は、「無常なものが苦しいのは、この錯覚のゆえで、同一のではありえないものを同一だと思い込んで扱うとき、あるいは同一であり続けることを欲望するとき、それが苦しみの原因となる」という意味になる。
 事物は言語によって構成され、概念化され、そういうものとして認識されたもののことである。したがって、その事物の内部にその事物がその事物である根拠はない。だから、「一切の事物は我ならざるものである」という一節は、我々の認識能力の範囲内に「我」がないということを意味し、同時にその埒外に「我」が存在し得ることを示唆する。我々の認識能力の及ばない埒外の領域における存在の有無については、認識能力が及ばないのだから知ることができない。そのため、事実上「我」はないも同然である。結局のところ、私が私である根拠もなく、およそ存在するものが、そのように存在する根拠はない、という身も蓋もない認識に至ることになる。
 そこで、時に我々が発する「本当の自分とは何か」という問いは、私が私である根拠への欲望の現われということができる。この欲望こそ、言語内存在とも言うべき人間の、根源的かつ強烈な欲望である。その欲望の根底には、記憶と他者の承認でかろうじて維持されている自己という存在の不安がある。したがって、不安というのは記憶も承認も必要としない何ものかを、根拠として欲望することになる。この欲望は死と誕生の不安と直結している。この生死の不安の正体は、それが分からない、分かりえないということである。分かれば不安はなくなるはずで、この場合の「分かる」は、実際は、分かったことが操作できることだ。つまり、生まれてくる理由と死の正体が分かれば、相応の対策がとれるに違いないと思うことができる。つまり、思ったように生まれて、思ったように死ねれば、生死の不安はほぼ解消される。これは、要するに、自己決定で生まれて、自己決定で死ぬことを意味する。しかし、実際にはそんなことはできない。そこで両端は諦めて、生きて自己でいる間だけ、思ったように自己決定し続けることで、自己がそれ自体で存在するかのように錯覚できる。「思う、ゆえに在り」というデカルトの言葉は、そういう意味である。こうして、「所有」という行為が「ある事物の処置を思うとおりに決定する」ことを意味することから、所有が自己の存在を根拠づけることになる。これが、近代以降の資本主義が造形する人間の基本的な在り方である。
 しかし、これは錯覚であり、「本当の自分」とは、「本当の自分」を欲望し続けて裏切られ続ける、実存の裂け目であり、破綻した構造である。無常とはそのことなのだ。

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