立岩真也「私的所有論」
文庫本だけど本文が800ページ、注を含めると1000ページ近くなるため、見た目は立方体。下手なハードカバーより重い。よくまあ、こんなの文庫本にすると思ったら価格を抑えるためだという。しかし、この本は何度も繰り返し読み返すことを要求するようなところがあり、文庫本では、すぐにボロボロになってしまいそう。実際、膨大な分量だけでなく、読み易いものではない。読んでいて、もうちょっと整理しろよ、と愚痴をこぼしたくなることもしばしば。でも、それだけ著者は考えているのを、そのままストレートに表出しているともいえる。これは、取り上げていることが一筋縄ではいかない、スッキリとできないもので、それをそのまま出しているし、著者はそれに直面して、行きつ戻りつし、立ち止まり、またある時は場面を変えたりしている(実際、読んでいて、前に述べたところを読み返してから、またもどって読み直すところがたびたびある。そのたびに、その前に読んだところの捉え方が変わってしまうので、読んでいるうちに全体の筋が分からなくなる)。それが、そのまま記されているようなところがある。この中で、こうだと断言していない(できない)ので、読んでいて、結論はどうなんだ、と請求したくなるが、現実にこの問題に直面した時に、一義的に結論を出せず、その場で逡巡しながら決断せざるをえないのを、そのまま読んでいる読者にも、自分で考えろ、と投げかけているところがある。
本書のタイトルは「私的所有論」だが、中心的に述べられているのは「自己決定」についてだ。「自分のことは、他人に決められるのではなく、自分で決めるのが当たり前だ」といえば、直観的にそれはそうだという気がするが、よく考えてみると、そうしたスローガンを叫ぶだけでは片づかない問題がいくらでもある。ある人の自己決定と他の人の自己決定とが抵触する場合にはどうすべきか、自己決定が自己責任と表裏一体だとしたら、それはむしろ本人にとって辛いことになる。例えば、身体障害者が外出したいと思っても、他者の手を借りなければならない、そのとき自己責任と自己決定が遊離する。また、母胎の中絶について、自分のことは自分で決めるのが当たり前と言い得るか。そこで私的所有。自分のものは自分でどうしようと自分の勝手だ。決定と所有は切り離せないというわけ。しかし、この原理はそれ以上根拠づけることはできない、そうであるべきだという信念であり、規範命題にすぎない。それで、自分が作ったもの、自分が制御するものを自分のものであるということは必ずしも正当化されないとする。自分で制御できると所有すること、そして決定することの境い目(例えば、身体障害者が自分の身体を完全には制御できないだろう、だけど身体は自身のものである)を、そこで著者は探っていく。それが本書の作業であろう。
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