南直哉「超越と実存─「無常」をめぐる仏教史」(6)~第4章 竜樹と無着・世親の思想
ブッダの後の仏教が、ブッダが避けた方向に進み始めたことに対して、もともとのブッダの方向に戻れと主張する人々が現われる。竜樹である。彼はブッダ以来の無常・無我・無記・縁起そして空のアイデアを言語の問題として捉え直した。
ブッダの教説、常に・不変で・それ自体で存在する実体の否定を、竜樹は言語批判という上座部の要素分割主義的理解とは別次元の手法を用いて、徹底的に行った。「無い」ということを証明することはできない。「無い」ことは、「ある」ことを原理的に証明できないことを示すか、「ある」と判断すると矛盾が生じることを指摘するしかない。たとえば、過去・現在・未来を貫通する「自己」それ自体は、昨日の自己と今日の自己と明日の自己の同一性を原理的に証明できない。またそれが「存在する」というなら、その判断はいつ、どこで誰がしたのかという問いが解決しない矛盾として残る。このような問い方は、あくまで「無い」ではなく「あるとは言えない」と主張しているにすぎない。「無い」ことの論証はできない。「無い」ことの主張は「有るとも言えず、無いともいえない」という有無の判断をもろとも無効化する方法で行うしかない。これがブッダの無記の論理である。竜樹は形而上学的な問いに対する無記を人間の認識一般にまで適用範囲を拡大した。我々は認識を言語によって行う。この言語というが、そもそも形而上学的に作動するものだからだ。そして、我々が使用する言語が正しく世界を認識していると考えるには、文字や音声による言葉の意味するものが、個々の事物や現象の在り方を規定する「実体」や「本質」なのだと断定しなければならない。そして、そのような言語の使用、つまり認識には、その正しさを保証する根拠がある、ということになるだろう。そうするとこれは、一方に「実体」的対象世界があり、他方にそれ自体で成立している認識主体がある、という形而上学的二元論のアイデアになる。竜樹は、このパラダイムを根源的な言語批判で撤廃する。そして、我々が通常理解している「自己」と「世界」が言語の作用による錯覚であり、実は無常で無我や空なのだと。竜樹は言う。唯識思想は、この竜樹のアイデアが源となり、存在を認識するのではなく認識が存在を生成するという無着や世親らによって成立した。しかし、このように精緻に理論化するとは、竜樹が批判する言語化することでもあるという危険を孕んでいた。唯識思想は、この竜樹のアイデアが源となり、存在を認識するのではなく認識が存在を生成するという無着や世親らによって成立した。
唯識思想は、言語を言語で批判する結果、言語の埒外の領域を括り出し、これを「言語を超えた真理」と言い切ってしまえば、それはまさに形而上学的実体を呼び込むことになる。この危険を回避するには、言語化が必然的に引き起こす実体視に対して、禅定で確保された実存の視座から、言語による批判を不断に続ける以外にない。その徒労の切なさに耐えるしかない。歴史的には、インドではヒンドゥー教の侵蝕をうけ、仏教は衰退していった。
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