立岩真也「私的所有論」(2)~第1章 私的所有という主題
第1章は総論として、本書の基本的姿勢と、議論の基本的方向性を概観する。
近代的な意味での所有権というのは、単に所持する権利ではなく処分権であるという。あるものを所有することと、その物をどのように扱う(例えば、売却する、廃棄する)こととは同じものである。
この決めるということに関して、話題は「自己決定」にとぶ。自己決定とは「自分のことは自分で決める」ということだ。ふつう、この「自分のこと」ば自明とされている。本書は、その「自分のこと」とは何かを問う。そこで私的所有が考察されるべきものとしてあらわれる。決めるということは所有することでもあるからだ。私的所有とは私が所有することである。その限りでは、私の身体も私が所有するといえる。それなら、私は私の身体を自由に処分することができると言い切ることができるのか。そのことが、所有というものを逆照射することになる。端的には、所有=処分ということに対して、私は私の身体を自由に処分することができるかということは反証になりうる。例えば、中絶、安楽死など、本人の意志だけで許されるのか。
もし、身体が自身のものであるなら、身体を自由に処分したり譲渡したりすることが許されることになる。仮に、この私の所有しているパソコンを譲渡するのと同じように、身体を自身が所有しているというのなら、相手との間で合意が成立すれば、身体を譲渡することについて、誰も強制されてはおらず、不利益にもならない。しかし、それに対して抵抗がでてくる。その反対は、この自己所有=自己決定という論理の外からくるという。それは、中絶や安楽死の議論は実際そうである。つまりそれは、「私が作りだし私が制御するものが私のものであり、私を表示するものであり、そのような行いを行うことが人が人でありも人であることの価値である」という近代社会の基本的な原則とされているものとは別の価値観で反対が述べられるのだ。ただしそれは、すべて肯定か否定かの選択ではなく、あるものについては自己所有・自己決定を認めるか、すべてについてはそう思ってはいないという認められるものとそうでないものとを分けるという考え方だ。そこで、問題となるのは両者の境界をどこで引くかということ。
これらを、そもそも論ではなく、具体的な現実の場面に即して考えていくというのが本書の立場だという。
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