南直哉「仏教入門」
著者は、最初にこの本は一般的な入門書ではなく、個人的見解に着色され、偏向極まりない視点から書かれたとことわる。仏教入門というより、著者がこけまで各処で述べてきた仏教解釈を全体的にまとめたという、いわば著者の仏教解釈の入門になっている。
そもそも「宗教」とはいったい何なのであろうか。最初に著者はこの問いにダメ出しをする。あまりに多様で言葉で説明しきれない。そこで視点を変えて、人は宗教に何を求めるのかを考える。まず考えられるのが現世利益だ。もうひとつは人に存在理由を与えてくれるというもの。著者は後者とくに、存在の根拠への不安に注目する。
では宗教を信じるというときの「信じる」とはどういうことか。この信じるということの意味を問うことは仏教に対する姿勢を明らかにすることになる。そもそも、疑いを持たない人は信じることはできない。疑いがないなら、理解したり了解することで終わってしまう。しかし、その理解ということの根底には信じているということがある。1+1=2を理解しているといっても、とうしてそうなるのか説明できない。当たり前として理解している。つまり、理解するとは疑うことを忘れたまま信じていることでしかない。これに対して、「確信する」というのは、「疑い」があることを自覚した上で、「疑う」か、第三者に対して自分なりに説明しようとすることで「疑い」を否定しようとする。あるいは確信もなく、盲目的に信じることもある。著者はこれ以外に「信じる」こととして、「疑い」を当然の前提として、それを否定も排除もせず、疑いを受容して信じるという。これは信じるというより賭けるというもの。著者は、この「賭ける」という姿勢で仏教に対しているという。
というわけで、著者は自らの存在根拠への不安をテーマに、それにアプローチする方法として仏教に賭けた。著者は、その先駆者として仏教の創始者ゴーダマ・ブッダに共感する。そこで、中心的に語られるのは、ブッダは言語によって、本来は言い得ぬ何かが「言葉にできない」超越的な真実として実体化してしまうことを錯視だとして忌避したということだ。私見によれば、現象学のエポケーに親近したものとすると理解しやすい。
そういう仏教の捉え方は、お寺でお経を唱えるとか、現代社会での不安や心の拠り所を仏教に求めるとかいった一般的な見解とか、体系的な仏教思想といったものとは一線を画する。
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