立岩真也「私的所有論」(3)~第2章 私的所有の無根拠と根拠
この章では私的所有を正当化する論理が二つ紹介され、
それぞれ検証されます。その前に、正当化とはどういうことかの内容として、私の身体が私のもとにあること、私が身体のもとにあること、また意のままに私が身体を使えること、これらの事実と、その身体を他者に使用させず、私の意のまま動かしてよい、処分してもよいというルールとは次元が異なることで、その二つをいかに結びつけるか、ということだ。
そのひとつは近代的な規範による正当化だ。その規範の特徴として、次の三点があげられる。第一に個人単位に財に対する権利が配分されていること。、第二に、配分されたものについて独占的で自由な処分が認められること、第三に、その権利は、ある者が実際にあるものを所持している、利用しているといった具体性から離れていることだ。実際の場面で、これらがすべて成立するとは必ずしも言えない。では、その正当化とは端的どういうことかというと、典型的なものがジョン・ロックによるものだが、自己労働→自己所有という図式である。端的に言うと、Aがaを作ったゆえに、aはAのものどなる、ということだ。このとき身体は出発となる。つまり、私が自分の身体で作ったものだから、それは私が自由に処分していいというわけだ。著者は、これを自己制御→自己所有と図式化している。これに対する批判として、はたしてAがaをつくったと全面的に言えないということがある。例えば作るための原材料はどこからか拾ってきたとしたら、それはAが作ったとは言えない。自分の身体は自分が作り出したのではないから、これでは自分のものとは言えないことになってしまう。そしてさらに、仮に、自分で作ったり、制御できとしても、それが所有していることになる根拠は、どこにもない。だから、Aがaを作ったゆえに、aはAのものどなるというのは根拠ではなく、これ以上遡れないという出発点なのだ。「結局のところ、『自分が作ったものを自分のものにしたい」」と言っているにすぎない、と指摘される。
それは、次のように図式化できる。自分に内蔵するものを基点とし、それに起因する結果が自分のものとして取得され、その取得したものが自らを示す。それが「私」という主体に因果の開始点、判断・決定の基点を認める。私が第一のものであり、それ以外のものは、その外側に在って私に制御されるものである。これは近代の社会のなかで作動するメカニズムであり、人々の意識の土台になっている。
著者がこの原理を疑うのは、この原理から、「自己決定能力をもつことが『人格』であることの要件とされる。能力に応じた配分が正当とされる。自己決定なら、合意があれば、全てが許容されることになる」、という三つの「帰結」がもたらされるからである。ここで想定されているのは、能力が相対的に劣る人、自己決定能力がないとされる人々である。それに対して、本書の問いを駆動するのは、「こうした帰結を受け入れられないという感覚」である。
もうひとつの正当化は、帰結主義的な正当化である。つまり、「私のものは私のもの」という私的所有の観念はそれ以上の根拠づけできないのだから、いったんそれを是として、そのことから帰結する結果のメリットの大きさから正当なものと認めようというもの。要するに、人は、誰も自分に得るものがなければ働かない、だから生産者が取得する方が生産性の維持向上にとって「有利」だ、という議論である。人は、自身が得られるものを予期しながら、自己にとって有利になるような行為を行おうとする。自分の行為の活用は自身によって為されている、人は自らの行為を制御することができる、というのがその前提となる。これは、その身体・力能がどこからきたのか、それが本来その者のものかどうかということとは別のことである。そこに能力主義が現われる。身体と精神、その力能の行使の自己所有が有利であり、自己の利得を増やすことになるという。これは次のような構造になっている。①その人AにAの資源aⅰ(能力・身体…)があり、それは他者Bに移すことができない。②そのある部分について、Aだけがそれを使うか使わないか、行為を実行するかどうかを決めることができる。他方、Bは直接的に決めることはできない。③さらにaⅰのあるものについてAだけがそれを増やしたり増やさなかったりすることができ、Bは直接的にそれをすることができない。④Aにはaⅰを行うことと成果bをえることについて欲求の関数がある。
Aはbをできるだけ多く、しかしaⅰをできるだけ少なくしたい。
これに対してaⅰを必要とするBは⑤対価を支払うというかたちでAの関数に働きかけるとことによって、aⅰを使いⅰを提供することを促す。
次に、有利さとはどのような有利さなのかについては、①②③④が充たされている場合、第一にそのものが本人のもとにだけあるものであること、第二に当人だけが出し惜しみできる、それを行うかどうかの選択ができること。第三に、当人が自らの資源を管理し、増やすことができることである。
ここで、この自由にできる資源の差が能力の違いということになる。そして、問題は手持ちの資源が平均以下の全体の判断の人たちにとっては、このシステムは不利益にものとなる。また、各自が能力と関係なく均等に利益を配分されるようなら全体の意欲が失われ、生産が増えないということだ。しかし。現実に人の欲望の関数を認め、他者の行為の取得の欲望を認めるなら、①②の条件が成立している限りにおいて能力主義を阻止することは現実には困難だ。あるいは、、たまたま体が、あるいは頭がうまく働かないように生まれてきた者、つまり障害者であるような人は、こうした社会では生きられないことになる。
ただし、このようなことはシステムを管理する者がいないと維持できない。いわゆる「共有地の悲劇」である。仮に、労働の成果を私有させることが効果的であるとしても、農地や工場といった生産インフラは①を満たすものではない。資源を゜所有していても、その配分は別問題。これらについては、頻繁に所有権を移すことはよろしくない(効率的ではない)。人は自身の身体の所有を移すことはできない。つまり、自らの生産物の私的所有について、その効能による正当化は、あるものをその人しか使えない、例えばその人しかその人自身の身体を動かせないという事実に依拠しているということであり、その条件を満たさないものについては、共有により私有が有効であるとしても、それをどのように配分すべきは関係ないということである。
その土台となり、自由主義と対置される平等や公平という考え方である。これが正当性に対する批判として機能してきた。著者は功利主義的な資源の配分では正当性を得られないという。例えば、社会の幸福の増進に有益な人間のために無益な人間を犠牲にしていいのかという問題が付きまとう。
この章をまとめると、私の作ったものは私のものであるという言明は、まず一つの信念として存在し、その理由は何かと問われるとそれ以上言うことがない。何か言おうとすると、その効果・意義を言うことになる。限定された範囲、私だけが行い、私だけが作ることのできるものについては、私的所有の有効性を言うことはたしかにできた。しかし、私が作った、あるいは私に与えられた私の能力の移動可能性を前提するなら、今度はそれを私のもとに置くことが正当化されない。例えば、身体の自己所有は正当化されない。この前提をさらに根拠づけようとすると、それを根拠づける者は何もないので、身体は自己のものだと言えなくなる。このことは、自己の身体が他者によって奪われてはならないという感覚もまた正当化されないことを意味する。しんーかし、これは私たちの感覚に反する。私は身体に対する侵害を認めない。つまり、身体に対する自己決定を言う。これは私的所有全般を肯定しない人でも、同じ主張をするだろう。そこで、処分権としての所有と身体の自己所有との間に差がある。そこで、第3章では、身体の譲渡や使用に対する抵抗について言われていることを検討する。
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