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2024年6月29日 (土)

南直哉「仏教入門」(5)~第4章 空と縁起

 1世紀ごろから大乗と呼ばれる仏教運動において、独特なアイデアが「空」である。大乗以前の部派仏教は、時間を実体視し、存在するものを要素に分解してこれを実体と考え、その集合で無常と無我を説明した。これに対して、「空」の思想は、要素であろうが部品であろうか、一切の実体を排して、無常と無我のアイデアを徹底する。この立場を、言語作用に焦点を当てて理論化したのが竜樹である。
 竜樹は『中論』において、言語批判を用いて空の思想の理論的解明がなされる。事物がそれ自体で存在することの否定を、仮にそれ自体で存在するかのように考えたとき、どんな矛盾が生じるかを論証することによって行う。例えば、「結果」として規定される事物が、「結果」それ自体として存在するなら、もう「原因」は不要である。「結果」とされる事物がないなら、そもそも「原因」は原因にならない。このような実体視は言語の作用である。例えば、「薪が燃えている」と言い表される事実において、薪と火が同一ならば、薪は常に燃えていなければならない。薪と火が異なって別ならば、薪は決して燃えず、火は消えることなく燃え続けることになる。不合理が起こるのは、燃えている事実を、言語によって「薪」と「火」と「燃えている」という概念に分割して実体視した上で、それらの結合で事実を把握しようとするからである。結合が成り立つたには、事物が成り立つためには、事物に差異がなければならず、それと同時に同一になれなければならない。この矛盾が、言語の作用において不可避なのだ。
 このような『中論』の議論から読み出すことができる縁起の考え方は、縁起の縁って起こる、すなわち関係から生起するの「縁」「関係」の実質を、我々の具体的な行為だとする。例えば、因果律は、事物の在り方を決める原理ではなく、思考の方法(道具)である。つまり、生活の現場で道具を使うとは、何かを目的に、それを実現する手段を駆使することである。この手段-目的の実践的関係が、事物の在り方を理解する存在論的な関係に適用されれば、これが原因-結果関係になるであろう。それがさらに概念同士の関係付けとして使われれば、理由-結論の論理関係になる。ということは、因果律はその根本に道具的思考がある。つまり、特定の欲望や意志に基づいてある対象を目的とし、これを操作し・支配する行為において現実化する。使わない道具が道具でないように、因果律は、操作と支配の意志と行為がない限り、無用であり、存在しない。
 主体と行為の関係も同じである。「歩いている彼が歩かない」というのは、彼がそのとき歩くという行為以外においては実存しないからである。歩く行為において彼であり得ているのに、さらにその上に歩くことなどない。同時に、歩く彼がいないところに、「歩く」行為はない。「彼が歩く」という認識は、徒歩移動という実存的事実から、その関係項として、言語が「彼」と「歩く」の概念を抉り出し、その結合によって成立している。すなわち、行為としての関係が存在を規定する。それが「縁起」のアイデアである。
 「生きる」という行為も同じで、「生きる」という行為が起動するとき、それはたしかに「私が生きる」という事態でしか現実化しない。しかし、それは同時に、すでに「生きる私」が実存していることを意味する。それは好意的な関係のシステムとして、一挙に現実化する。個々にそれ自体で存在するように認識されているものは、所詮はこのシステムにおける関係項として構成されるものだ。

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