無料ブログはココログ

« 2024年6月 | トップページ | 2024年8月 »

2024年7月

2024年7月31日 (水)

マルクス・ガブリエル「なぜ世界は存在しないのか」(3)~Ⅰこれはそもそも何なのか、この世界とは?

 世界全体とは何か、は哲学の基本問題であるという。その世界全体とは何なのかということのイメージについて、著者は『チャパーエフと空虚』というロシアの小説を例としてあげている。我々が生きている地は地球にあり、地球は宇宙にあると追求していくと、それらを包摂している領域は、それについて考えている我々の思考の中にしかない。とすれば、我々の思考は、ところで宇宙が我々の思考の中にしかないのであれば、我々の思考は宇宙の中にあるのではないことになる。そこで袋小路に陥る。
 そこで考え直すと、私が居るところ、例えば居間あるいは宇宙、これらを対象領域と呼ぶが、居間と宇宙は同じ対象利用粋には属してはいない。対象領域とは特定の種類の諸対象を包摂する領域のことで、そのそれぞれには対象と関係づける規則が定まっている。数多くの対象領域が存在し、日常的に対象領域を区別している。私たちの居るところとして、居間は宇宙の中に在るのかというは、そうではない。宇宙というのは自然科学の対象領域、物理学の対象領域で、全体ではない。全体の一部、数ある限定領域のひとつであり、その意味では居間と並立している。居間も宇宙も世界全体の存在論的な限定領域のひとつにすぎない。
 宇宙と世界とは区別される。その区別は宇宙と居間との区別とは異なる。宇宙と世界とは並存するものではない。世界とは成立していることがらの総体だからである。宇宙に居間がある世界に存在している。ことがら=事実とは何かについて「真」であると言える何らかのことだ。仮に事実が存在せず物だけが存在すると仮定してみよう。その場合、物について真であると言えることは存在しないことになる。逆に何も存在しない場合を考えてみると、物は存在しなくても、何も存在しないという事実は成立するから、存在していることになる。したがって、事実のない世界はあり得ない。これに対して物のない世界はあり得る。例えば、夢の世界には、時間的・空間的な拡がりを持った物は存在しない。これらのことから、世界とはひとつの全体をなす連関であるということ、事実の総体であるということ。
 本書は、ここからもう一歩進むという。物・対象・事実だけでなく対象領域も存在している。そこで、世界は、すべての領域の領域、すべての対象領域を包摂する対象領域でもある。すべての事実がたんに同等に並び立っているわけではなく、事実の地盤は様々な対象領域に分けられている。事実の地盤には様々な構造があり、様々な領域、様々な存在論的な限定領域に分けられる。例えば、美術の領域と化学の領域とでは包摂される事実が異なる。また、これが極端になると、対象領域はたんなる話の領域ではないか、つまり、人間の認識欲求と誤謬の表現ではないかと。近代では、多くの対象が実体のない話の領域であるとして抹消されてきた、それが存在論的還元と呼ぶ。
 ここで示されているのは、多様な対象領域のいっさいを、容易に唯一の対象領域へと存在論的に還元することはできないということ。それは、現実の複雑さや人間の認識形式の複雑さを考慮していない。事実は存在せず、解釈だけが存在するという構築主義は、その容易さへの逃げだ。その根本的な間違いは、事実それ自体を認識するのは難しいことではない、ということに気付いていないことだという。構築論は認識のプロセスを云々するが、それは認識されるものとは区別される。つまり、事実が存在するかという問題にとって、その事実をどの程度まで認識できるのかという問題は関係がないのだ。
 以上のことを踏まえて、世界とは何かという問いに答えると、世界とは物の総体でも事実の総体でもなく、存在するすべての領域がそのなかに現われてくる領域のことだ。存在するすべての利用粋は、世界に含まれている。

2024年7月30日 (火)

マルクス・ガブリエル「なぜ世界は存在しないのか」(2)~哲学を新たに考える

 本書の基本的な出発点はふたつ。すなわち、世界は存在しないということと新しい実在論。形而上学は世界全体についての理論を展開しようとする試みだが、そこで説明しようとしているのは、私たちにとって世界がどのように現われるかではなく、現実に世界がどのように存在しているかということ。このように問いの立て方をしたことによって、形而上学は世界を発明した。「世界」とは、現実に成立していることがらの総体、つまり現実それ自体だ。ここで注意すべきは、そこからは私たち人間が抹消されているということだ。だから、現実に事物がどのように存在しているのかを確かめるためには、認識のプロセスに人間が加えた作為のいっさいを取り除かなければならないことになる。これを徹底したのが構築主義という考え方で、典型的なのはカントで、彼の主張は、それ自体として存在しているような世界は私たちには認識できない、認識されるものは何らかの仕方で人間の作為を加えられているほかない、というもの。これは、世界それ自体は、私たちに対して現われているものとは違った存在ということになる。
 これに対して、本書はそれ自体として存在しているような世界を私たちは認識していると主張する。これが新しい実在論ということだ。形而上学や構築主義は現実から観察者を外して離れた位置から一面的に単純化してみる。これに対して、新しい実在論では、現実は観察がいるので、観察者は現実の中で見ようとする。そこでは、現実にいかにして観察者が存在し得るのかが説明されなくてはならないことになる。それが存在論ということになる、と本書は主張する。
 一方、そうであるなら、その中に私たちがいなくて、観察の対象となるが、そのまま認識できないという世界というものは、あっても意味がないということになる。だから存在しない。私たちの日常の経験を見れば、そのような事物の総体、つまりすべてを包摂する世界など存在していない。あるのは、それぞれの対象領域、いわば個々の小世界が並存している。これは、全体としての統一された世界は存在しない、ということに至る。

2024年7月29日 (月)

マルクス・ガブリエル「なぜ世界は存在しないのか」

11113_20240729231601  8年前に読んだ本の再読。
 「世界は存在しない」というというタイトルは、著者本人は挑発的だろう思ったのだろうな、と思う。ここでいう「世界」とは、空間とか時間といったことに近い。例えば、私の前のテーブルに皿に盛ったリンゴを描こうとすると、平面の紙に描くことになるので、実物そのものがそこに表わされるわけではない。われわれは、そのように実際の物をそのまま捉えることができず、この例の紙のようなフィルターを通して、はじめて認識できる。それが「世界」ということになる。私たちは、近代以降、それを当たり前のこととして受け取ってきた。これが形而上学といわれるものだ。しかし、いわゆるポストモダン思想は、それに異を唱えた。皿に盛ったリンゴを表わすのには神に描くだけでなく、ホロスコープで3次元的に描くことができたりするので、フィルターは唯一ではない、様々なフィルター、つまり「世界」が、人それぞれあるのだというのだ。
 著者は、これらをひっくるめて「世界」というフィルターを通すというのは、実際の物ではなく、紙とかホログラムで描かれた表現を見ているだけで、それが在るということになっていると批判する。そんな実際の物から目を背けるようなことをしてしまうのは「世界」というフィルターがあるからだ。だから、そんなものは存在しないと言った方がいいというのが本書の趣意なのだろうと思う。
 そういう主張は、それもありかと思う。では、テーブルに皿に盛ったリンゴが実際に在るとして、「世界」はないとして、それがどこに在るのかというと、「対象領域」という概念を持ち出す。それは世界ではないと著者は力説するのだが、読んでいる私には、たしかに全く同じとは言えないかもしれないが、「世界」という概念を手直しすれば足りると思えてしまう。著者の別の著作を読んでいないのだが、私には、従来の「世界」を否定しようというアイデアが先走って、もともとの存在とはどのようなことで、どのように捉えるかが後回しにされて、よく見たら中身は従来のものと大して変わっていないのではないかと思ってしまった。

 

2024年7月28日 (日)

川北稔「砂糖の世界史」(7)~第8章 奴隷と砂糖をめぐる政治

 19世紀初めのイギリスは、産業革命に成功し、世界経済の覇者となりはじめていた。この時期、食生活に大きな変化が起こる。産業革命による都市の発展により、穀物に関する世論が生産者である地主を保護する立場から、都市労働者などの消費者を保護する方向に転換していった。つまり、従来の穀物法は、穀物の値段が下がり過ぎると地主が困るので最低価格を保障するものだったのが、穀物価格が高騰すると消費者である労働者を雇っている工場経営者が賃金を上げなければならなくなるので、穀物価格を抑えるために廃止されてしまう。それに伴い、イギリスは穀物をヨーロッパ大陸やアメリカから安価に輸入するようになっていった。
 一方、砂糖は西インド諸島のプランテーションで生産されていたが、その価格にたいして消費者からの値下げ圧力が強まる。砂糖の生産者はイギリスで強い発言力を持っていたため、イギリスは保護政策をとっていた。そのため、当初は、値下げに応じようとはしなかった。そこで、まず奴隷貿易への批判から着手され、19世紀には奴隷貿易が廃止される。これにより、西インド諸島のプランテーションは崩壊し、政府の保護政策も止められる。結果的には自由貿易の政策ということになった。言い換えれば、世界システムを利用して、安価な朝食を確保することができた。

2024年7月26日 (金)

川北稔「砂糖の世界史」(6)~第7章 イギリス風の朝食と「お茶の休み」─労働者のお茶

 イギリス人の食事においては、砂糖は食品として大きな意味を持っている。今では、平均してカロリーの15%から20%を砂糖から摂っている。例えば、食事の最後に砂糖をたっぷり使ったスウィーツというお菓子を食べるのが普通だし、紅茶に砂糖をたっぷり入れて飲む人が多い。砂糖は、有力なカロリー源として、「イギリス風朝食」の基本となり、産業革命時代のイギリス人の生活の基礎となった。イギリス人は、中世以来1日2食で、朝食は食べなかった。1日3食となったのは17世紀中ごろと言われている。
 産業革命により、イギリス人の多くが都市に住むようになる。それまでの、農村の生活は共有地の山林などで自由にたきぎをとり、家畜を飼うことができた。この人々が都市住民となる。都市の労働者の住宅は、狭くて汚く、調理のできる台所もなかった。農村のように燃料を無料で調達できない。お金がなければ、暖房も煮炊きもできない。また、工場労働は時間を厳格に守る規則正しい生活リズムを強要される。そんななかで、自宅でパンを焼いたりスープを調理するといった朝食の準備はできなくなる。そこで、準備が簡単で腹持ちがいい朝食がもとめられた。それに応えたのが「イギリス風朝食」だった。砂糖いう入り紅茶は、カフェインが目が覚めるし、カロリーを補給できた。街のパン屋で買った冷たいパンに、温かい紅茶により温かい食事に変えることができた。
 一方、砂糖入りの紅茶は、地球の両端から持ち込まれた二つの食品を合わせたもので、世界商業の中心であるイギリスだから可能になったものだ。イギリス国内の農業で生産される穀物より、奴隷のつくる砂糖の方が安上がりになった。世界は一つになり、イギリスがその中心になり、都市労働者をはじめとして、農民の生活も、世界貿易なしには成り立たなくなっていた。
 砂糖いう入り紅茶は、19世紀には、ジェントルマン階級のステイタス・シンボルの意味と、工場労働者に代表される民衆の生活のシンボルとしての意味も持つようになっていた。

2024年7月25日 (木)

川北稔「砂糖の世界史」(5)~第6章 「砂糖のあるところに奴隷あり」

 砂糖やタバコのような植民地で得られる「世界商品」の取引は、莫大な収入になり、多くの利益をもたらしたので、イギリスやフランスは、18世紀を通じてその覇権を奪い合って、断続的に戦争を繰り返した。植民地戦争ともよばれる、その戦争の主な目的はアメリカとインドの植民地の確保だったが、スペイン領の南アメリカに奴隷を供給する権利をめぐる争いも重要な意味を持っていた。スペインは南アメリカに広い領土をもっていたが、アフリカに拠点がないため自前で奴隷を確保できず、砂糖の生産ができなかった。そこで、スペインは奴隷の買付契約を外国と結ぶことにした。奴隷貿易をやっている諸国は、この契約を採ろうと必死になっていたのだった。18世紀のヨーロッパに戦争が頻発した理由のひとつがここにある。7年戦争でイギリスはフラン位に勝利し、1763年のバリ条約で、世界の貿易の支配権を握った。イギリスの商人たちは、奴隷貿易で稼ぎ、奴隷の作った砂糖の取引で稼ぎ、砂糖プランテーションへのイギリス製品の輸出でも稼いだ。

2024年7月24日 (水)

川北稔「砂糖の世界史」(4)~第3章 砂糖と茶の遭遇

 16世紀から17世紀にブラジルやカリブ海の島々で「砂糖革命」と呼ばれるほど砂糖の生産が拡大し、大量の砂糖がヨーロッパに持ち込まれるようになった。その結果、砂糖を消費することの意味が大きく変わったのだった。以前は、砂糖は食品というより薬品として用いられ、権力者や富裕層が自身の権勢や財産を見せびらかすためのシンボルとして使われていた。
 砂糖が大量に消費されたのは、薬品や高価なぜいたく品としてではなかった。そこには、18世紀アジアからもたらされた茶の普及と関係がある。茶も当初は薬品として扱われていたが、17世紀後半にコーヒー・ハウスが貴族やジェントルマンの公債の場として流行し、そこで紅茶が飲まれたことで、薬から社交の場の飲み物となった。このとき、紅茶に砂糖を入れるという飲み方が生まれたと無言われている。ただし、この時点では一般の人々には高価で上流階級かぎりのものであった。17世紀では、紅茶も砂糖も高価で貴重な薬品であり、病気でもないにそんなにものを口にするのは、貴族のような高貴な身分か金持ちが見栄を張ってのことで、茶や砂糖はステイタス・シンボルだった。そして、商人たちは自らの財力を見せびらかしていた。貴族たちは体面をたもつために商人以上のぜいたくを見せる必要があった。そこで、紅茶に砂糖を入れれば二重の効果が期待できるので、文句なしのステイタス・シンボルになった。イギリスではお茶を飲むことは王室で行われている上品な習慣ということになり、貴族たちがそれをまねて茶会が定着する。この二つの動きが重なって、砂糖入りの紅茶は、非の打ちどころのないステイタス・シンボルとなった。この後、紅茶も砂糖も輸入が拡大し、コーヒー・ハウスを中心に消費が拡大する。すると、高価だった紅茶や砂糖も一般の人々の手の届くものとなり、上流階級をまねて、紅茶を飲むように普及した。
 砂糖の輸入量は。カリブ海で砂糖革命が起こったため激増した。しかし、その砂糖革命が可能になったのは、アフリカから大量の奴隷の供給、つまり奴隷貿易が大規模に展開されたからでもある。また、東インド会社の方針変更により中国からの茶の輸入が激増してことも原因のひとつである。

2024年7月23日 (火)

 川北稔「砂糖の世界史」(3)~第2章 カリブ海と砂糖

 カリブ海の島々に対して、ヨーロッパ人は金銀の採掘のために利用しかしなかったために、荒廃した。その後、サトウキビのための広大なプランテーションが開発され、現地の食料さえ北アメリカから輸入するなどモノカルチャーの社会となっていった。現地人は消滅し、アフリカから連れてこられた黒人奴隷が人口の大部分を占めた。島の支配者となった白人は少数で、プランテーションの所有者は本国に帰ってしまい、白人の監督に現場を任せるようになった。このように社会は一変してしまった。その結果、プランテーションのひろがった地域のほとんどは、現在に至るまで開発途上国のままだ。それは、プランテーションが社会や経済の発展を押し曲げ、偏らせてしまったためだ。プランテーションは、大量の、安価な、そしてしばしば奴隷のように強制的にはタラ為される労働力を用いて、世界市場向けの大量生産を行う。サトウキビの栽培だけでなく、取り入れてから短時間で、それを砕き、原液となるジュースを搾り出すのが勝負で、その如何により収穫量が大きく変わる。この取り入れ後の工程には大変な労力と規律を要した。なお、当時のヨーロッパの職人たちは遅刻など常習で、時間通りに働くことは難しかった。そして、プランテーションで絞り出されたジュースは、煮詰められてーた状態でヨーロッパの本国に送られ、さらに精製して純白の砂糖にする工程はイギリスの工場で行われた。
 ヨーロッパ人は「世界商品」となった砂糖が目的で、大金を投じてプランテーションを作った。そこで働かせる労働力としてアフリカ人の奴隷を導入した。だから、奴隷貿易と砂糖の輸入貿易とは関係があった。例えば、イギリスのリヴァプールを出港した奴隷貿易船は、奴隷と交換するための鉄砲、ガラス、綿織物を縦鼻していた。そして、獲得した奴隷をアメリカやカリブ海で売り、代わりに砂糖を獲得して、リヴァプールの戻るのだった。これが「三画貿易」と呼ばれるものである。これにより、ヨーロッパは莫大な利益を実現し、港町と商人の経済が急速に発展した。一方、三角貿易は、アフリカには悲惨な影響をもたらした。働き盛りの青年を中心に多数の人々が連れ去られ、発展の力を削がれてしまった。

2024年7月22日 (月)

 川北稔「砂糖の世界史」(2)~第1章 ヨーロッパの砂糖はどこからきたのか

 ヨーロッパ人が最初に砂糖のことを知ったのは、紀元前4世紀のアレキサンダー大王の東方遠征だったと言われる。そして、砂糖の生産がヨーロッパに伝わったのか、それよりずっと後の8世紀ごろのイスラム世界の広がり伴って、伝えられたのだった。サトウキビの栽培には、適度の雨量と温度が必要なうえ、その栽培によって土壌の肥料分が消耗して土地が荒れるため、次々と新鮮な土地を求めて、栽培地を移動させなければならない農作物だった。また、サトウキビの下降、製糖は、重労働であるばかりか、規則正しい集団作業を必要とした。この二つの特徴は、砂糖の生産についてまわることになる。
 ヨーロッパ人が、砂糖のことを詳しく知るようになるのは、11世紀の十字軍によってイスラム世界との交易の筋道ができるようになったためだった。それまで、甘味といえば蜂蜜しか知らなかったところに、砂糖の強烈な甘さと純白さは、何か神秘的なものに見えた。さらに、非常な高価であったことも神秘性を高めることになった。そのため、砂糖は、ごく限られた上流階級のあいだで、薬品や権威の象徴となっていった。
 サトウキビもそうだが、ジャガイモやトウモロコシ、トマト、タバコあるいは茶はヨーロッパ以外の地域から来たものだ。薬品も、食糧も、建築資材も、燃料も、ほとんどすべてのものが動物か植物のいずれかを素材としていた時代、金銀に次いで動植物を求めて、ヨーロッパ人は世界各地に出かけた。それが大航海時代だと著者は言う。一般的な、キリスト教の布教などよりは、こちらが主目的であった。新しい土地で見つけた有用に植物は、本国に持ち帰ったり、気候の適した土地に移し替えたのだった。サトウキビの栽培地は、イスラムでは東地中海の島で栽培していたが、15世紀にはポルトガル領の大西洋の島々に移り、コロンブスの新大陸発見によりブラジルに移っていった。そして、覇権がスペイン・ポルトガルからイギリスに移ると、サトウキビの栽培地はイギリス領のカリブ海の島々へと移った。

2024年7月21日 (日)

 川北稔「砂糖の世界史」

11113_20240721232501  10年前に読んだ本の再読。砂糖というひとつの商品を通じて、近代の世界史を見ていこうという試み。原料であるサトウキビの栽培や砂糖の精製には、労働力として奴隷が調達され、イギリス、アフリカ、アメリカで三角貿易が出来上がっていき、その成立のために植民地獲得の競争、つまりは戦争が頻発するという世界史のシステム的なつながりが浮き上がる。一方、それが下層の民衆の生活に直結していたという。読んでいると、歴史とは、ワクワクするほど面白いと思えてくる。
 砂糖は世界中の誰からも好まれる食品であり、近代初期の世界で広く取引された、いわゆる「世界商品」の代表的なものである。
「世界商品」とは何か。著者は毛織物と綿織物の違いを例にして説明する。寒冷で牧羊の盛んだったヨーロッパでは中世から毛織物が主流だったが、アジアやアフリカに来るようになって、さかんに毛織物を売り込んだが、温暖なインドやアフリカでは分厚い毛織物は売れず、薄くて、洗濯がしやすく、鮮やかな色のプリントができる綿織物が、逆にヨーロッパに輸出された。このようにヨーロッパでしか通用しなかった毛織物と違って、綿織物は「世界商品」だった。
 この「世界商品」を独占できれば大きな利益をあげることができる。16世紀以降の世界史は、「世界商品」をどの国が独占するかという競争の歴史として展開してきたという側面がある。
 砂糖についても、16世紀から19世紀にかけて、世界中の政治経済のリーダーたちは、砂糖の生産をいかにして握るか、その流通ルートをどのようにして押さえるかに知恵を絞ったのだった。ブラジルやカリブの島々には、砂糖生産のためにプラテーションの大農場がつくられた。プランテーションでは、サトウキビの栽培とその加工に集中し、それ以外の活動は一切顧みられなかった。例えば穀物のような食糧は清算されず輸入に頼ったのである。このプランテーションにはヨーロッパの、ときにイギリスの資本が注ぎ込まれ、多数のアフリカの黒人が奴隷として送り込まれて強制的に労働させられた。

 

2024年7月19日 (金)

西山松之助「芸─秘伝伝授の世界」(4)~第3章 秘伝の相伝

 17世紀において、古代以来のさまざまな芸能の分野に芸道文化社会が成立し、それら諸芸の各分野に、それぞれの芸の「型」というものが定着し、その「型」を演じる実技の実演法と、その「型」の美的哲学的理論を体系化した秘伝が成立した。これらは秘伝書あるいは文字化できない口伝として、一人だけ跡を継ぐ一子相伝というかたちで秘伝として成立した。また、このような秘伝書は伝授をするための証明書というものになった。そして、この秘伝の相伝は江戸後期には大きく発展する。それが家元制度の成立である。一子相伝により、完全相伝というすべてのものを相伝するという形から、家元を頂点する多くの段階のひな壇式の序列をもつ相伝の体系に変容した。すなわち、伝授の体系が初歩の人から、少し収斂を積んだ人、技がかなり発達した人、そしてあらゆることに上達し修業を卒業しそうな人というかたちで、初伝、中伝、奥伝そして皆伝という伝授の段階的体系が出来上がった。
 戦国時代から天下統一をした豊臣秀吉や徳川家康のような天下人の権威をそれぞれの芸道の分野でも、家元が擬するようにして芸の権威化が進められた。そこで秘伝の相伝伝授が、単に芸を遊びとして行うことを越えて、属性の日常の生活の序列のうえでは段階的に上下の差別で格付けをされているのが、そういう俗世の差別世界の中で他の人々よりも上位に進展して、その上位の世界に上昇転化することらよって、日常の下位の下層身分を解消し、自己解放する。つまり、身分制の枠内にあって、その枠をなくすることに大きく役立っていくという役割を果たした。
そこから、次第に形式化し、秘伝の持つ社会的役割あるいは伝受料の経済的な役割が強くなり、芸道において身分の上昇を図るために、意図的に経済的なもので買い求められるという弊害も現われる。
 これには家元制度と密接にかかわっている。一子相伝といえども、実質的には家元の家人が代々相伝を受け、家元が実質的には免許状の発行権限を独占し、家元の高弟たちは弟子をとって教えたり、指導することはできても、免許状を発行することはできない。伝授は家元しかできないというような制度化されて行った。つまり、高弟たちは弟子に教える教授権のみを与えられ、家元家芸の拡大再生産機関となっていった。つまり、家元の直弟子、また弟子、そのまた弟子というような何段階もの重層的な構造ができ、その末端には非常に多くの文化人口が存在していた。これは、庶民にとっては、文化的に身分を上昇転化し、世俗を断絶し、家元により権威づけられる高度な文化社会で文化人としての地位を獲得できることになる。

2024年7月18日 (木)

西山松之助「芸─秘伝伝授の世界」(3)~第2章 芸道の系譜

 日本の芸道には大きく分類して三つの流れがある。第一は、平安時代以来の貴族社会、上流社会に成立した遊芸の流れ、第二は、武家の世界に成立した武芸の流れ、そして第三は、江戸時代の町人文化で成立した大衆芸能の流れである。
 第一の遊芸の流れは、平安時代の貴族の遊び、雅楽や舞楽、歌合、連歌、香合などといった人々が相互に実演者であり鑑賞者であるという創造のプロセスと鑑賞のプロセスが同居しているという特徴がある。茶道や香道、連歌も、この流れに含まれる。貴族の文化の伝統としての遊芸の世界というものは、複数の、何人かの集団の芸として生まれたのであるが、このようなパターンに包含しきれないが、貴族に準ずるような寺院、神社は上流社会の文化生活のなかに成立してきた。その下の寺院建築の宮大工、木挽、仏師、画工、写経生の高度な技芸の伝統が成立した。これらは長い時代にわたって伝えられてきたもので、きわめて高度な発達を遂げていた。これらは、貴族文化社会や有力な武家の世界などで保持存続され、発展してきた。このような文化社会のなかの芸の伝統というものは、今日の芸術家としての個人の創造活動というよりは、貴族、寺院、武士のような権力者のもとに隷属していた専門の技芸者たちが、権力者の命令に従い生産していた。彼らの命令や要求はきわめて厳しいものであり、生活のすべての保証がなされていたなかで、作り出されたものは厳しい要求や命令に応えたものであった。この人たちは名もなき職人だが、注文者の突飛な発想に応えて奇想天外なものや、神業のような優れたものを結果として残したのだった。
 第二の流れは武芸の流れは、江戸時代の幕藩体制社会が成立した寛永年間、新興武家貴族の必須教養として武芸が成立した。この武芸の世界は260年にわたる江戸時代の太平の世で、平和武芸は多くの流派を分派していったことが特色になっている。その理由として次のようなことが考えられる。①武術の諸流は実力者が次の実力者へ印可の伝授を完全に相伝していたこと、②各藩は、他藩に対し排他的かつ対立的な封鎖社会を構成し、武力について藩の秘密とされ、藩内かぎりとされていたこと、③他の茶道のように藩という国境を越えた全国的な展開がなく、武術の諸流を集約統一することができなかったこと、④長い平和の時代が続き、武芸の実力を確かめる機会を得られず、優れた流派が残り、劣った流派が廃れるといったことがなかったこと、などが考えられる。
 第三の流れが江戸時代の町人文化で成立した大衆芸能の流れである。もともと大衆芸能の芸人たち、例えば、白拍子、傀儡、太平記読みなど、は一般社会からは疎外され特殊な生業者として、専門的な芸能人というあり方で芸を伝えてきた。この人々は寺社や大名などをパトロンとして、その庇護のもとで芸能を専業としてきた。それが江戸耳朶になると広汎な大衆芸能のジャンルを生み出した。これは遊芸とは違って、専門の芸人が芸を演じて、大衆が見るという一方的なものであった。この大衆芸能は江戸時代に大発展する。それは、京・大坂・江戸という三大都市の発達をはじめ、各地に都市が大きく発展して、庶民文化が著しい発展を遂げたことによる。
 以上の三つの系譜をもつ多様な芸道が、江戸時代には盛んに行われた。それが日本の文化の特色の一つだと言える。古代以来の長い伝統を持つものがあり、中世以来の系譜を持つものがあり、そして江戸時代に新しく創造されたものがあるというように、互いに並行して行われ、古いものが滅びないままに今日まで続いている。このような文化のあり方、存在様態というものが、日本の芸道の大きな特徴である。
このような芸道は、それぞれに専門の人たちによって行われるもの、あるいは遊芸のように専門出ない人々が寄って行うもの、その指導的地位に立つ家があり、武芸の場合は世襲的に流派の芸を伝承してきたのであり、大衆芸能のまた、家というものが芸を伝えていく核となって、今日まで続いている。江戸時代は、これらが全盛をきわめた。そういう家の芸というところに日本の芸道というものが成立してきたと考えられる。

2024年7月17日 (水)

西山松之助「芸─秘伝伝授の世界」(2)~第1章 芸道の成立

 芸とは、我々の体の色々な感覚を使って見たり聞いたり味わったり、演じたりということによって文化価値を創造するという働き、あるいは活動である。芸が芸として成り立つのは、すること、演じること、つくるものは具体的なものそのものではなくて、そうではない虚なるものつくることによって、現実の実なるものより一層ものそのものであるという虚をつくることがある。例えば、近松門左衛門のことばに「虚実皮膜の間に芸の真実というものがある」、つまり虚と実、皮と膜という、虚でも実でもない、人間の表皮、あるいは膜でない、なにか分からないけれども、ものそのものでないところに芸の真実がある。その真実なるものこそ、生のものでなく、そこに実在する実なるものよりも一層実なるものとしてあるものなのあるものなのであって、それをそうあらしめるものが芸というものである。芸の本性・本体・本質というのはこのように見てよい。芭蕉の「風雅」や世阿弥の「花」も同じようなことを言っている。このように見てくると、芸というのは物そのものではないもので、物そのものを如実に表現する。あるいは演じるという場合の芸というものが考えられる。この芸は織物であるとか染物であるとか、あるいはいろいろな写真を組み合わせたデザインといったような、すべての世界において考えられるものであって、生なもの、現実に存在する花というものをいかに否定して、ものそのものよりもさらに典型的なのであるという実なるものを虚において表現するかというのが芸の秘密であるということができる。前記の芸は物を演じるとか、作り出す場合の芸であるが、芸はそれだけに限らず、すぐれたものを作り出したもの鑑定するとか、鑑賞するという芸もある。これらを合わせると、芸の世界は、われわれの感覚をきわめて微妙な働きにおいてつくりあげられた文化であると言える。
 芸は我々が生なるものの中から、生なるもの以上の実なるもの、本当のもの作り出す。これは、一人一人の個性が作り出すので、人により違った表現となる。そこで、いかに表現するかについて型というものが成立する。それが日本の芸の特色となっている。型とは、いわば、時間的・空間的に間というものを切断し、それを定着させて、形を与えたものだと言える。「間」とは無限に広がる時間や空間を切り取る節目のようなもので、それを内から見れば一定の広がり(時間・空間)となる。それが、芸の世界では空間構成の問題、時間の切り方の問題、例えば音楽の拍子であるようなもので、それをどのように掴むかの方法が型ということになる。このように間が定着されて型になるが、実際には歌い方とか弓の引き方とか琴の弾き方、演じ方として現われる。これは規範とか法則性の表われであると同時に、拘束性という面もある。型というものは、芸を学ぶことによる、文化社会が成立してくることによって、成立してきた。それは、芸を多くの人が学ぶという文化社会であり、芸の道、芸道と呼ばれる。
 芸道は、和歌の世界などの先駆的なものが平安・鎌倉時代にあったが、広く展開されるようになるのは室町時代以降だ。古代から中世の社会においては芸道は貴族や上級の武士や地位の高い僧侶といった限られた人たちのものであった。それが次第に時代が下るにつれて、多くの人が芸を修めるようになり、その中で優れた人が芸の領域に到達したいと願うようになる。それにつれて芸道というものが明確な形をとるようになった。つまり、芸道というものが普遍的な形で、理論と哲学という両面を備えて型の論理、その型がいかに間を切ったかという、具体的な芸の実践の方法論という両面が、それぞれの芸の世界に芸道というものを形成させていったと考えられる。例えばいけ花の世界では天文年間の『専応口伝』において立花の芸の理論と美学とその実践の方法が確立したと言われている。世阿弥の能楽も同様だが、ここには密教における宗教儀式の行法や実践形式の影響がある。
 具体例として剣術で考えてみる。日本刀を使用して戦うことは平安・鎌倉を通して成立、確立した。しかし、剣道というものは平安にも鎌倉にも室町の時代にも見出すことはできない。室町時代に、柔や忍を含めた兵法という言葉に集約されて、はじめてひとつの言葉に概念化された。その中の剣術として独立し、それが武芸という形になるのは、ずっと後のことで、それが成立したのは江戸時代になった寛永の頃だと言われている。柳生宗矩の『兵法家伝書』や宮本武蔵の『五輪書』等が書かれてからのことだ。そこで、剣の型、つまり規範・拘束性をもって多くの剣での戦い方を習得する人々の教科書、秘伝書となってく体系が成立していく。戦国時代が終わり、太平の世となり、剣術が兵法という殺しの技から、試合で競うというスポーツのような武芸として変容したためでもある。柳生宗矩という剣豪の剣法・刀法といったものが武芸の剣術という形で、殺し合いをしないで勝負を決することができるというもが成立する。それは、当時の武家社会が、鎌倉・室町時代のような、村の中にいた名主たちが、戦いの際に武士として出陣するという時代から、江戸に幕府ができて将軍が君臨し、全国に城下町がつくられ、その城下に武士たちが集まり、この武士たちが貴族的な特権階級となる。この武家貴族は剣などの技を必須教養として身に着けなければならない。そこで、実践の場の芸から、平和な時代の武芸という教養に変質し展開していく。そこに武芸の芸道の成立の契機がある。
 また、柳生宗矩や宮本武蔵のように流派の創始者は、師をもたず、独りで修業したわけで、独創性をもち個性的であったわけだが、それがその人かぎりで終わらず、流派として他人に引き継がれるためには普遍性があり、武蔵という個人の剣から万人の剣という多くの人を教化するものとなる。それが芸道に内容の面でも変質したからである。

2024年7月16日 (火)

西山松之助「芸─秘伝伝授の世界」

11113_20240716233601  「芸」といっても多種多様だ。歌舞音曲のいわゆる芸能も多様だが、それ以外にも武芸、茶道や俳句といった教養、あるいは建築・工芸や料理といった技能まで。それらを芸道としてまとめられること自体が日本の芸道というものの特徴かもしれない。歴史的にも、歌舞音曲は平安時代に成立したものもあるし、武芸は武士の発生とともに生まれたし、中世から近世にかけて大衆芸能が生まれている、この多様なものが芸道として成立したのは江戸時代になってからだという。例えば、武芸は江戸時代の太平の世となって武術は人殺しの技術から権力者としての武士階級のたしなむべき教養に変質したことにともない体系化、理論化された。そこでキー概念となったのが「型」である。戦国時代までは、実戦の場を踏んで技量を向上したのに対して、武芸では体系化された「型」を習得し、演武や試合の場で披露する。その取得度合は、初伝、中伝、奥伝そして皆伝という伝授の段階的体系を成立させた。この伝授の権限を独占したのが家元として制度化された。武芸は別として、芸道は生け花も茶道も、身分とは関係なく、その実力に応じて家元を頂点としたその芸道社会の階層を上がっていくことができるため、特に町人にとっては身分制度を越えた自己解放が可能となる場を作っていたという。例えば、茶道の実力により町人も武士も関係なく師匠になることができた。このようなことが可能になったのは、平安時代の芸は貴族や上級の僧侶などの一部の限られた範囲に限られていたものが、江戸時代には広く庶民にまで広がり、大規模化と公開性を帯び、それに伴い、関わる人々が多様化したことが、その理由だという。近代以降、家元制度については形式的とか権威主義的とか封建的などと批判されることが多いが、たしかに近世社会では、ある意味で革命的にところがあった。そういう意味あるものであったという指摘は、とても新鮮だった。
 が、芸道というものを概念化して定義することは難しいと思う。実際、著者は豊富な実例を紹介し(その用例の豊かさに関心し、それ自体が本書の魅力と思う)ているが、こういうものだという定義はしきれていない。そのことが論証としての弱いという印象を免れないと思う。それはときに後半の芸の修行は記述というよりは、精神論というか著者の芸への思いを吐露することになってしまっているように見える。それは、この書が書かれた時代の制約かもしれない。今読むと食い足りないところでもある。

 

2024年7月14日 (日)

今野真二「日本語と漢字─正書法がないことばの歴史」(6)~終章 日本語と漢字─歴史をよみなおす

 欧米の言語学では、まず音声言語があって、文字はその音声言語を写した二次的なものだった。語をどのように文字化するという書記論はそこには存在しない。正しい書き方がたった一つだけある言語は、文字化に際して選択肢がない。日本語は正しい書き方がなく、つねに文字化に選択肢がある。欧米的な考え方では、漢字は文字化に使っている記号ということになり、文字が言語そのものに何らかの影響を与えるとは考えない。しかし、日本語の場合は、多くの漢語を借用して日本語の語彙体系ができあがっている。漢語を借用するということは、その借用した漢語を語彙体系内に位置づけるということで、位置づけるためには、和語とどのように結びつけるか、どのように距離をとるかをすり合わせる必要がある。そのためには、漢語の語義をきちんと押さえる必要がある。そうなると、漢字ただの記号ではない。
 そして、表音文字としての仮名が誕生してからも、日本語は表意文字としての漢字を使い続けた。そして、漢字は表意的に使うのが本筋ということになる。仮名が発生した当初は、漢語は漢字で、和語は仮名で、別々に文字化されていた。それが、次第に和語も漢字によって文字化するようになっていった。中国語は具体的で、日本語は抽象的だから、中国語の語義すなわち漢字の字義がみえているとも日本語を漢字で文字化しにくい。日本語を漢字で文字化すると、常名゜少しのずれがある。そこで、ずれのすり合わせのさまざまな試みが行われた。
 漢字による日本語の文字化が進んだ結果、ひとつの漢字列が漢語も和語もあらわすことができるという状態に至る。
 言語を使うのは人間で、人間が言語を使うから言語が存在している。しかし、言語学は観察対象、分析対象を言語そのものに絞ることによって科学として成り立っている。観察対象、分析対象を言語に絞るということは、人間を観察対象・分析対象から排除することである。文字化を例にするならば、なぜそう文字化したのか、は問わないということだ。あたかも言語が自律的に働き、そうなっているように語られる。しかし、そこには、現代の観察者、語り手がいるのだから、その観察者の見方であることを意識する必要がつねにある。本書では、言語を使う人間、言語を観察する人間を意識するようにした。

今野真二「日本語と漢字─正書法がないことばの歴史」(5)~第3章 日本語再発見─ルネサンスとしての江戸時代

 日本語の文字化、すなわち日本語をどのような手段によって文字化するかについて考えた場合、室町時代までは「手書き」、江戸時代からは「手書き」と「印刷」との併用と見ることができる。室町時代までは、歌道の秘伝は歌道の家に口承で、あるいは写本として、相伝されていた。歌道の秘伝は歌道の家に、生け花の秘伝は生け花の家にというように情報はごく限られた範囲に秘匿されていた。そのような秘伝情報の一部は、江戸時代になると印刷出版され、広く公開されるようにんっていった。歌道に関わらない人々が歌道の秘伝にふれることができるようになることで、情報が広くゆきわたり、知の平準化が行われるようになった。
 江戸時代初期に活字による印刷が行われるようになった。しかし、50年ほどで終息してしまう。その後、製版印刷が代わって主流となっていく。活字による印刷は、字と字との間に空白が生じた。これに対して、手書きの場合の仮名が連綿することで文節が見て分かる。この場合、表音文字は1字ではなく、何字かまとまって語を表わすものだった。
 また、手書きは、同じテキストを大量に作ることはできない。基本的に一対一のやり取りを前提にしている。これに対して、印刷は一人の書き手に対して多数の読み手が存在する。この場合、読み手のリテラシーを予想しようとしても、不特定多数だ。そうすると、想定した読み手のリテラシーに合わせた文字化をする必要がある。より多くの読み手を想定するなら、誰にでも読める可能性の高いテキストを作ならければならない。この場合、不特定多数の読み手は書き手と情報を共有していない。多くの情報を共有している読み手に向けてのものであれば、共有されている情報を言語化する必要はない。しかし、不特定多数の読み手を想定するならば、共有されている情報はないことを前提にする。そこでは、わたりやすく情報を盛り込んだ「かきことば」が求められる。古代日本語よりも近代日本語のほうが接続詞や接続助詞を多く使い、論理的に「文」をつないでいるということが指摘されている。「文」を情報と置き換えてもよい。「文」と「文」を書き手がどのようにつなげていこうとしているかは、接続詞や接続助詞がなくても読み手が創造することができる。しかし、接続詞があれば、書き手がどう考えているか、より明確につかむことができる。
 このように印刷そして出版によってテキストが大量に作られることで「かきことば」が変わっていった。
古代日本語の時代である奈良時代・平安時代の情報は中世語の時代である鎌倉時代・室町時代に受け継がれ、手書きテキストに蓄積され、場合によっては秘伝として秘匿されていた。手書きされた、そのような秘伝的なテキストは江戸時代になって、印刷され出版されることによって、ひろく共有されるようになっていった。オープンにされた言語情報は、江戸時代の「はなしことば」「かきことば」を相対化する。それは江戸時代の日本語だけが日本語ではないという具体性に裏付けられた意識と言ってよい。そういう意識を背景にして、江戸時代の国学の『万葉集』や『古事記』の研究が可能となった。日本語の歴史と言うと、日本語が、奈良時代から平安時代へ、平安時代から鎌倉時代へ、というように単線的、直線的につながっていくことをまず想起する。しかし、過去の日本語の観察・分析が、まずは過去につくられた文書(=テキスト)の観察から始まることを考え合わせると、そう文書には必ず書き手が存在する。そして、過去の書き手がつくった文書を現代の日本語話者が観察、分析する維持用、そこにはまた現代日本語話者が介在していることになる。過去の書き手、現代の話者の視線が交錯する中にテキストがあると考えれば、そこに重層的な視線がある。
 江戸時代になって、日本語の文字化が急速に精密になっていった。それは使っている日本語を客観的に捉えることができるようになった。そのような客観的な観察を可能にしたのは、今ここで使われている以外の日本語、例えば古代日本語に触れ、空間を異にする日本語、つまり方言に触れて、相対化することかできたからである。

2024年7月11日 (木)

今野真二「日本語と漢字─正書法がないことばの歴史」(4)~第2章 動きつづける「かきことば」

 『万葉集』で日本語の文字化についてすべてが出揃った。しかし、『万葉集』は韻文でかつ定型をもち、基本的には漢語を使わない特殊なケースと言える。漢語を使う散文を漢字で文字化するには、課題が二つある。漢語は漢字を表意的に使って文字化する。しかし、助詞や助動詞のような日本語独特の言葉は表意的に文字化できない。そこで、表音的な文字化が同居することになる。そうすると両者を区別する必要が生じる。それが一つ。もうひとつは、漢字によって散文を文字化すると、漢字がどこまでも続いてしまい、長い長い漢字列ができあがり、そのままできは文の切れ目がわかりにくくなる。
 中国語文を日本語として読む漢文訓読は奈良時代には行われていたと考えられている。これは、中国語と日本語では語順が異なるので、日本語で読む場合の語順を示し、中国語にはない゜助詞や助動詞を補い、活用語尾などを添えるのが訓読で、訓読に使う符号や文字が訓点と呼ばれる。日本語の「かきことば」は漢文訓読文をもとに成ったと考えられている。そこで必要とされたのが仮名である。
 仮名は9世紀頃には訓点に使う文字として、漢字の一部を省いたものが使われるようになった。一部を省いたり偏のみとしたりするのは、速く書けるということと、漢文の傍らの狭い行間などに書くことができるという必要に応じたものと思われる。これが片仮名になった。当初は片仮名と平仮名の区別はなく混用もされていたという。しかし、『源氏物語』などを見ると平仮名を使って文字化されており、そこから平仮名文字体系の存在が推測でき、他方、平仮名ではない片仮名の文字体系も平仮名に比して存在したと推測できる。『源氏物語』や『竹取物語』では漢語が使われていないわけではないが、多くは使われていないので、漢文訓読文の延長線上にあるとは考えにくい。そう考えると、漢文訓読文につながる文と『源氏物語』のような文という二つの文があったと考えられる。この『源氏物語』のような文のことを「和文」呼ばれる。漢文訓読文につながる文は漢語を使うのだから漢字を片仮名と併せて使う「漢字片仮名交じり表記体」となる。『源氏物語』の文は漢語をあまり使わないので、おもに平仮名で文字化され、少数使われる漢語を漢字で文字化し、それ以外は平仮名を使う「平仮名漢字交じり表記体」をとる。平安時代の頃は、「はなしことば」の内で使われていた漢語は多くはなかったので、そのような「はなしことば」を平仮名で文字化することは自然であったと言える。『源氏物語』の文は「はなしことば」的であるといわれることがある。それは紫式部が『源氏物語』を「はなしことば」的に書こうとしたということではない。そういう見方を採るとするなら、「はなしことば」の向こう側に「かきことば」が存在していなければならない。「かきことば」「はなしことば」二つの言語態が存在していて、二つのうちの「はなしことば」を使って物語を作ったということになる。しかし、『源氏物語』が成立した11世紀には「かきことば」よべるような器は、未だできあがっていなかった。漢文訓読文をもとにした「かきことば」はあったかもしれないが、それは漢語を多用する漢文的なものであったので、『源氏物語』を語ることができるような器ではなかった。
 その後、鎌倉から室町時代にかけて「はなしことば」的な和文と呼ばれる文にも漢語が含まれているようになり、和文の中にも漢字が増えていく。とは言っても、漢文訓読文に接近するということにはならない。それは、和文と漢文訓読文とが合わさったような文で、和漢混淆文と呼ばれる。『太平記』や『平家物語』がその代表と考えられている。『平家物語』は13世紀の半ばころには成立していたと考えられている。様々な写本が残されていて、その表記も様々である。漢字のみで表記された写本もあり、漢字仮名交じりの表記もある。ここでは14~15世紀に成立した延慶本を取り上げているが、漢字仮名交じり文だが、漢字の本行に対して片仮名は訓点が付されている脇に記されていて、そりを振仮名行としている。仮名は両方の行に記されている。『平家物語』には『史記』からの引用文など漢文の引用が少なからずあり、その部分は漢文のまま、あるいは漢文式に文字化されている。日本語を大きく古代語と近代語に分ける場合、古代語は平安時代まで、近代語き江戸時代からということで、鎌倉・室町時代を過渡期である中世語の時代としてみると、この両者の並立もそのあらわれとみられるし、「かきことば」が次第に出来上がっていった時期に当たる。漢語を多く使い、それに伴って漢字を多く使う漢字訓読文と、漢語をあまり使わず、それに伴って仮名を多く使う和文とが混淆して和漢混淆文が形成されていくという視点で見ると、延慶本の文字化は次のように整理できる。
・和語も漢字によって文字化されている。
・しかし、一つの和語に使われる漢字は一つに絞られているのではなく複数ある。
・多く、漢字によって文字化されている語であっても、仮名によって文字化されることがなおある。
 これらは、和漢混淆文が形成されつつあることを示している。しかし、和語を漢字によって文字化するためには、和語の語義と漢語の語義のすりあわせが必要になる。そのようなすりあわせがあるから、たとえば、「アラハス」という和語を「顕」という漢字で文字化したり「現」という漢字で文字化したりすることができる。そして、和語を文字化する漢字が絞られていくということが、この先のストーリーになるわけだが、現代の常用漢字表では一つの漢字に複数の訓を認めることは少ない。それは一つの漢字に訓が一つしかないということは、その訓にあたる和語を漢字によって文字化するに当たって選択できる漢字が一つしかないという唯一表記システムに至る。しかし、ある和語を漢字一字で文字化する。ある和語を文字化することができる漢字は一つとは限らない。また、ひとつの漢字が複数の和語を文字化する。またはその和語を漢字二字で文字化することもできる。中世期は中国語と日本語とのがっぷり四つが深く、広がりをもって、漢字をめぐって複雑かつ重要的な状況が出来上がりつつあった。

2024年7月10日 (水)

今野真二「日本語と漢字─正書法がないことばの歴史」(3)~第1章 すべては『万葉集』にあり

 漢字から仮名が生み出されたのは9世紀末頃とされている。それ以前は、『万葉集』では、私達から見ると「当て字」のような形で漢字が使われていて、日本語表記のために試行錯誤がなされていたという説明がなされることも多い。しかし、著者は、『古事記』『日本書紀』『万葉集』が成立した8世紀の時点で漢字によって日本語を文字化するということがひとつの到達を見ていたという。だから、そこから1世紀あまりという短期間で仮名を成立させることできたのだという。
 漢字によって日本語を文字化するというのは、言葉だけの問題ではない。そのベースには文字社会が広く成立している必要があるという点が見落とされがちだ。8世紀頃では文字を読み書きできる人は限られていた。中国語、漢字についての知識がなければ漢字によって日本語を文字化することはできない。そもそも、無文字社会であった日本に漢字が伝わったとしても、文字というものがなかったのだから、文字として認識されたわけではない。最初は絵か図柄のようなものとして捉えられたらしい。現代で外国人が漢字をデザインとしてプリントしたTシャツを着ているのを見て、時に恥ずかしくないのかと思う熟語を平気で表に出していたりするのと同じだろう。そういう出会いの後、漢字が言語を表わしている文字であるということが分かることがあって、それによってはじめて漢字によって中国語、とくに中国語のかきことばを理解するという段階に入る。漢字を使って日本語を文字化しようとするのは、その後でようやく可能になる。
 『万葉集』は現存最古の歌集とされているが、詞書や左注は漢文で書かれている。収められている歌は短歌であれば、五・七・五という定型をもっているので、その形に合わせて文字化がされる。例えば、“春楊葛山發雲立座妹念”と文字化された歌は“春柳葛城山に立つ雲の立ちても居ても妹をしそ思ふ”と読む。このうち“立座”を“立ちても居ても”を文字化してものとは、すぐには分からない。この歌が五・七・五という定型をもった短歌であるから、そうなっている見当をつけることで“立座”を立ちても居ても”と読むことができる。短歌をこのように文字化すると、どのように日本語を文字化したのかがわかりにくい。それを著者は、漢字によって文字化されている日本語を具体的な日本語に戻す作業を「ヨム」とし、内容を理解する作業を「よむ」として、読むを分けることで、「よめるけどヨメない」と表わす。つまり、具体的な日本語がつかめていない(ヨメない)にもかかわらず、内容をわかる(よむ)。それは漢字が表語文字だからと言える。中国語では漢字1字は中国語の1語と対応している。「楊」であればやなぎ、「雲」であれはくもを表わしている。この「楊」や「雲」を使って文字化しているのだから、その背後にある日本語もやなぎやくもといった語義を持っている可能性が高い。それゆえ、「春楊」は、その漢字列が表わしている語義は春+柳とみなすことができる。中国語を文字化するための文字である漢字によって日本語を文字化するということは、日本語を中国語に翻訳することに限りなく近い。翻訳だから、言いたいことが少しずれてしまうこともあり得る。このような「ずれ」が生じることは認めるしかない。そのずれを調整するために生まれたのが表音文字である仮名であると見ると、その後、漢字が捨てられなかった理由が説明できる。仮名は調性のためのものだから文字化の主役には成れない。漢字がメインシステムで仮名はサブシステムというわけだ。
 奈良時代には中国語の文を訓読することが行われて、平安初期の文書には訓点が記入されているものが見られる。『源氏物語』には「史記」や「白氏文集」の一節が書き下し文での引用がある。書き下されているのだから、それは「かきことば」ということになる。このようにして、漢文訓読と言う翻訳方法から日本語の「かきことば」が生まれてきた。ただし、これは中国語よりであることはやむを得ない。中国語を離れた日本語の「かきことば」は鎌倉時代以降になる。
 こうした中で漢字は日本では表語文字としてではなく、表意文字として機能していくことになる。漢字は、もともと表五文字であるということは、一つの字が一つの語と対応していることで、それと同時に、その語の発音も表わしている。ひとつの語の発音はひとつである。だから、「足」という字に「あし」という発音も「ソク」という発音も対応しているということはあり得ない。音読みと訓読みがあるというは読み手からの見方であると著者は言う。では、書き手の側の見方ではどうなのか。中国語では漢字は表語文字だが、日本語では表語文字として機能していない場合があり、必ずしも漢字1字が1語を表わしていないことが少なくない。たとえば「足」という文字は「満足」は十分なという語義だが、それを知らない人が「満足」を「満」と「足」の分解して、それぞれの字に対応する訓読みをつかって「みたす」「たりる」を使って「みちたりる」と推測することもありうる。このような推測できるように意味を喚起していることを「表意」と呼ぶ。この場合、漢字は表語文字から表意文字になる。日本語を文字化する漢字は表語文字から表意文字になる。
 一般に万葉仮名と呼ばれているのは次のようなケースだ。
  伊蘇可気之 美由流伊気美豆 氏流麻埿尓 左家流安乃婢乃 知良麻久乎思母
 この漢字列は「イソカゲノ ミユルイケミヅ テルマデニ サケルアシビノ チラマクヲシモ」という日本語を文字化したもの。これは短歌という定型詩が31文字の漢字で文字化され、ひとつひとつの漢字がどんな発音を表わしているかがわかればヨメたことになる。このように漢字列をカタカナに移し替えたのがヨメたということになる。これを日本語の語形や語義をふまえながら「磯影の見ゆる池水照るまでに咲ける馬酔木の散るらまく惜しも」という形にできれば、ヨメてよめたことになる。この場合の漢字は字が表わしている語義を離れて音だけを表わしている。このように使われているのを万葉仮名と呼ばれてきた。この万葉仮名というのは片仮名のような文字の呼び名ではなく、仮名のように機能しているという機能の呼び名と考えていい。この場合、漢字が表わしている日本語の音が分からないとヨメない。既に語義から離れているので、意味からヨミを推測することはできない。万葉集には、そういう理由でヨメない歌がある。
 中国語を文字化するものである漢字が表語文字として機能するものなので、漢字を使いながらも表語機能を捨ててしまうのは本筋ではない。したがって、漢字を表音的に使って日本語を文字化するやり方は、いかにヨミやすいといっても、漢字の特殊な使い方なのである。実際に万葉集全体を見れば、漢字を表語的・表意的に使っている例の方が多い。
 また、中国語と日本語とはかなり異なるタイプの言語であるので、日本語にはあるが中国語にはない、という語がある。助詞や助動詞はその代表といってよい。これらは中国語にはないのだから、漢字を表語的に使おうとすると文字化できない。そこで、漢字を表音的に使って文字化する。助詞や助動詞は実体的な語義を持たないといってもいいので、文字化しなくても。前後に置かれている語から、そこにあるであろう助詞・助動詞が分かることもある。定型の和歌は定型に収まるかたちの日本語にあてはめるために助詞や助動詞の推測が可能になる。とはいっても、文字化されていれば推測という手間をかける必要がないため、多くの場合、いわゆる自立語は漢字を表意的に使って文字化し、助詞・助動詞などの付属語は漢字を表音的に使って文字化するということが多くなる。後者を仮名に置き換えれば、現代日本語の文字化の仕方とおなじようなものになる。そう考えると、9世紀末に生み出された仮名は、表音的に使っていた漢字の代わりと捉えることができる。
 このように『万葉集』において、日本語の文字化の基本的なかたちは出揃っていた。漢字を表意的に使うことと表音的に使うことを併用することによって、漢字のみで日本語を文字化することができる段階に至った。しかし同じ漢字を表意的に使ったり表音的に使ったりすると、どこが表意的使用でどこが表音的使用であるかが分かりにくくなる。定型をもつ和歌の場合はまだしも、定型でない散文の場合は分かりにくい。漢字の表意的使用が基調であれば、表音的使用をしている部分がはっきりわかるといい。その表音的使用部分を小書きにしたものが「宣命書き」である。しかし小書きは文字の大小ということもあるので、書き写しているうちに、必ずしも明確ではなくなることもある。そのとき、漢字と視覚的に区別できる文字によって表音部分を文字化すると分かりやすい。そこに使う田の文字体系として仮名が生まれたと考えることができる。その場合、仮名は漢字ではないことが視覚的にはっきりと確認しやすくなければいけない。片仮名は漢字の一部を取り、平仮名は漢字全体を変形させて漢字ではないこと、すなわち漢字とは異なる文字体系であることを視覚的に確保した。

2024年7月 9日 (火)

今野真二「日本語と漢字─正書法がないことばの歴史」(2)~序章 正書法がない言葉の歴史

 サブタイトルにもなっている「正書法がないことば」について、音声言語を文字にする際に1通りしかないというのが正書法があることばということなる。日本語で「こころ」にあたる英語はheartだが、5文字のアルファベットをこの順番に並べなければならず、それ以外は誤りということになる。そのheartという一つだけが正しい。正書法がある言語はアルファベットのような表音文字のみを使用している場合が多い。これに対して、英語のheartにあたる日本語は、「こころ」でも「心」でも「ココロ」でも、場合によっては「精神」にルビをつけてこころと発音できてしまう。このように、日本語を文字化する場合、複数の選択肢がある。つまり、文字化の仕方が一通りではない。それが正書法がないということになる。このような観点から日本語の歴史を見ていこうというのが本書の目的。
 そもそも、正書法という観点を持ってきたのは、著者の「ことば」に対する考え方が前提にある。正書法があるということは文字があるということが前提となる。日本語の文字は外から導入された漢字がルーツなので、もともとは無文字言語だった。だから、文字言語である「かきことば」というのは持たなかった。それが、文字をもったことで「かきことば」がうまれ、それにたいする「はなしことば」が生まれたという。ということは音声言語と「はなしことば」は同じではないのだ。「はなしことば」や「かきことば」には、その言葉を使っている人々に共有されている「かたち」がある。「かたち」は器と言い換えてもいい。その器に入れるのは言語情報で、器に効率よくその言語情報を入れるために、入れる言語情報に合わせて、時間をかけて器をつくりあげていくのだ。とくに「かきことば」を作り上げてゆくのが。文字化というプロセスだ。正書法というのは、その文字化の際の方法を見る考え方だ。
 一方、日本語の歴史を見るということは、日本語と言う言語は歴史を通じて変化してきたということが前提にある。とはいっても、言語全体が変わってしまったら、別の言語になってしまう。したがって、そこには変化していないところがある。しかし、そういうものは歴史では記述されない。本書では、その変化していないこと、つまり、日本語の歴史を通じて一貫していることの側から、日本語の歴史を見ていこうとする。その変わっていないというのが、漢字を使って文字化していること、とくに正書法がないということなのだ。
 実際に、『新選国語辞典』第9版に収録指定ある語を見ると、和語33.2%、漢語49.4%、外来語9.0%、混種語8.4%となっている)。かなり借用語が多いことがわかる(もっとも英語も語彙の60%近くがフランス語、ラテン語からの借用だという指摘もあるという)。漢字と漢語というのは日本語を理解するための大きな鍵になるのだ。

2024年7月 8日 (月)

今野真二「日本語と漢字─正書法がないことばの歴史」

11114_20240708234701  サブタイトルにもなっている「正書法がないことば」について、音声言語を文字にする際に1通りしかないというのが正書法があることばということなる。日本語で「こころ」にあたる英語はheartだが、5文字のアルファベットをこの順番に並べなければならず、それ以外は誤りということになる。そのheartという一つだけが正しい。これに対して、英語のheartにあたる日本語は、「こころ」でも「心」でも「ココロ」でも、場合によっては「精神」にルビをつけてこころと発音できてしまう。このように、日本語を文字化する場合、複数の選択肢がある。つまり、文字化の仕方が一通りではない。それが正書法がないということになる。
 英語を典型とする欧米の言語学では、まず音声言語があって、文字はその音声言語を書き記すものという二次的なものだった。正しい書き方がたった一つだけある言語は、文字化に際して選択肢がない。この場合、文字は表わすだけで言語そのものに何らかの影響を与えるとは考えない。これに対して、日本語は正しい書き方がなく、つねに文字化に選択肢がある。このように、多くの漢語を借用して日本語の語彙体系ができあがっている。漢語を借用するということは、その借用した漢語を語彙体系内に位置づけるということで、位置づけるためには、和語とどのように結びつけるか、どのように距離をとるかをすり合わせる必要がある。そのためには、漢語の語義をきちんと押さえる必要がある。そうなると、漢字ただの記号ではない。
 もともと日本語には文字がなく、中国語の文字である漢字を導入した。この漢字には文字自体に中国語の意味があり、それを日本語で使おうとすると、もともと漢字が持っている中国語の意味とは一致しないズレがあった。そのため、文字化のプロセスで日本語の意味とのすり合わせが生じ、つまり、日本語に影響を与えた。とくに、日本語にはなかった「かきことば」を生み、「かきことば」と対比的に「はなしことば」を派生させた。そのように見ると、日本語はユニークだと思う。

 

2024年7月 2日 (火)

南直哉「仏教入門」(7)~第7章 悟りと涅槃

 悟りや涅槃を考えるうえで決定的な困難は、ゴーダマ・ブッダ本人が、悟ったときや涅槃に入ったときに何が起こったのか、何を経験したのか、何を理解したのか、まともに語っていないことである。だから、ブッダ以外の人が語る悟りの語りは、所詮自分が「悟りだと思ったこと」に過ぎない。だから、このような言説は、いかにその語りが正しいかを認証するのかという技術的な課題がつきまとう。そこで、悟った瞬間に悟ったと分かるというというアクロバティックな論証が行われる。だって、悟ったというのが妄想でないと証明できないからだ。したがって、ブッダ以外ものが悟りを語ると。その内容ではなく、語り口が問題となる。語るものは一様に、本来は言葉で語りえないという枕詞をつける。そして、言っている内容は大同小異で、ほとんど内容がない。
 著者は悟りを名詞としてではなく動詞として捉えるべきだという。そうすれば、目的語を導くだけになる。そこで、悟りを機にブッダが言っていたことの変化に注目する。ままず、悟る以前のブッダの言動を考える。そこで重要と考えられるのは、苦行の放棄、二つの禅定の放棄、そして坐禅・禅定という身体技法のみで悟ったということ。前の二つの放棄は、超越的真理のような形而上学的実体を呼び込むことの忌避を意味する。そして、ブッダが悟った後に騙られたのが十二支縁起であり、その確信は、我々の実存を「苦」とする認識と、その原因の確定と言える。十二支縁起の第一支「無明」、四諦の集諦としての「欲望」がその原因だろう。そのいずれも、言語が構成する「私」、つまり自意識である。
 このように、悟りの前には、特定の何ものかを実体視するような修業を捨て、悟りの後に、「苦」の根本原因として「無明」すなわち言語や自意識の作用を説いたということは、ブッダが悟ったこととは、言語が物事と実体を錯覚させることであり、それが「無明」の意味である。すなわち、無明の発見がブッダの悟りなのだ。
 ブッダが悟りを語らないのは、悟りの世界とは、いうならば対象と精神の二元対峙の枠組みを外した、そういう事態そのものを完全に言語化するのは難しいが、とはいっても沈黙に逃げることはできない。というのも、「言語化できない」と言い切ってしまえば、それは「言語を超えた真理」という超越論とな実体化してしまう。そこで、常に言語化に失敗し続け、それでもなお言葉を更新し続けるしかない。その無限の行為において、「空」「無我」と呼ばれる事態を指示し続けるしかない。
 ではこのような認識をもたらした無明の発見がいかになされたか。初期の経典に次のようなエピソードがある。ブッダがある村に滞在したとき、大嵐に遭い、雷鳴が轟き、稲妻が走り、ついに落雷して、農夫二人と牛四頭が死に、群衆が飛び出してきたが、それを見ることもなく、音も聞かなかったが、しかし眠っていたのではなくて、覚醒していた。というもの。
 これは、何を見た、何を聞いた、を一切判断せずに、ただ見えている、聞こえているという状態、すなわち感覚機能を完全な受動態に設定した。そこでは、言語の作用をギリギリにまで低減するというもの。そうすると、「私は~を見た・聞いた」という認識の「自己-対象」二元論が崩れ、自意識は溶解していく。そして、特定の身体技法である禅定・座禅を用いると、言語機能が停止し、自意識が溶解するのだから、これを裏返せば、実体を錯覚させるような自意識の在り方もそれ相応の身体的行為に規定されている。
 言語機能を提言して判断を停止すれば、対象は言語化不能なものとして、それは「何だ」となる。この「何」に直面して、そのまま直面にとどまる。どのように考えていいか分からない状態をそのまま維持して、言語に回収しきれない事態に直面し続ける行為では、自己-対象の二元構造は機能せず、自意識は溶解する。このように、自己と対象の実存の仕方は、身体行為に規定される。このことが禅定において体験されれば、言語による物事の実体視という

南直哉「仏教入門」(6)~第5章 縁起と中道

 中道とは両極端な生き方や在り方を離れることである。例えば、快楽主義と苦行主義という両極端から離れる苦楽中道。あるいは有無の二元論から離れる有無中道。
 快楽主義は対象を思い通りにしたいというものであり、単なる感覚の充足欲求とは異なる。思いには充足という限界がない。この思い通りにしたいという欲望が、思い通りにできた経験として当面の充足を得ると、思う主体の存在は強化される。実際は根拠を欠いている自己の実存に錯覚的な根拠を与え、自己に実体があるかのような誤解を招く。
 一方、苦行主義は超越的な理念を欲望する。知りたいことが日常経験で知り得るなら苦行など不要である。苦行が必要となるのは、経験を超えた超越的な次元の真理のような何ものか、普通は知りえない何ものかを欲求する。この点で苦行は最初から超越的理念の存在を前提にしているという実体主義的な実践である。
 これらの点で、快楽主義も苦行主義も実体主義的という点で同じなのである。
 また、「~が有る」「~が無い」と我々が言うとき、「~」そのものは有無の判断を離れている。換言すれば、「~が無い」と否定するためには、否定の対象の存在を前提にするしかない。ということは、我々の経験を超えた「~」を設定しないかぎり、「有る」「無い」の言表は不可能なのだ。つまり、有無の判断は、その行為において超越的理念、すなわち実体を要請していることになる。
したがって、有無の両極端を離れるとは、まさに実体の設定や錯視を避けることなのだ。それが「無記」ということでもある。

« 2024年6月 | トップページ | 2024年8月 »