マルクス・ガブリエル「なぜ世界は存在しないのか」(3)~Ⅰこれはそもそも何なのか、この世界とは?
世界全体とは何か、は哲学の基本問題であるという。その世界全体とは何なのかということのイメージについて、著者は『チャパーエフと空虚』というロシアの小説を例としてあげている。我々が生きている地は地球にあり、地球は宇宙にあると追求していくと、それらを包摂している領域は、それについて考えている我々の思考の中にしかない。とすれば、我々の思考は、ところで宇宙が我々の思考の中にしかないのであれば、我々の思考は宇宙の中にあるのではないことになる。そこで袋小路に陥る。
そこで考え直すと、私が居るところ、例えば居間あるいは宇宙、これらを対象領域と呼ぶが、居間と宇宙は同じ対象利用粋には属してはいない。対象領域とは特定の種類の諸対象を包摂する領域のことで、そのそれぞれには対象と関係づける規則が定まっている。数多くの対象領域が存在し、日常的に対象領域を区別している。私たちの居るところとして、居間は宇宙の中に在るのかというは、そうではない。宇宙というのは自然科学の対象領域、物理学の対象領域で、全体ではない。全体の一部、数ある限定領域のひとつであり、その意味では居間と並立している。居間も宇宙も世界全体の存在論的な限定領域のひとつにすぎない。
宇宙と世界とは区別される。その区別は宇宙と居間との区別とは異なる。宇宙と世界とは並存するものではない。世界とは成立していることがらの総体だからである。宇宙に居間がある世界に存在している。ことがら=事実とは何かについて「真」であると言える何らかのことだ。仮に事実が存在せず物だけが存在すると仮定してみよう。その場合、物について真であると言えることは存在しないことになる。逆に何も存在しない場合を考えてみると、物は存在しなくても、何も存在しないという事実は成立するから、存在していることになる。したがって、事実のない世界はあり得ない。これに対して物のない世界はあり得る。例えば、夢の世界には、時間的・空間的な拡がりを持った物は存在しない。これらのことから、世界とはひとつの全体をなす連関であるということ、事実の総体であるということ。
本書は、ここからもう一歩進むという。物・対象・事実だけでなく対象領域も存在している。そこで、世界は、すべての領域の領域、すべての対象領域を包摂する対象領域でもある。すべての事実がたんに同等に並び立っているわけではなく、事実の地盤は様々な対象領域に分けられている。事実の地盤には様々な構造があり、様々な領域、様々な存在論的な限定領域に分けられる。例えば、美術の領域と化学の領域とでは包摂される事実が異なる。また、これが極端になると、対象領域はたんなる話の領域ではないか、つまり、人間の認識欲求と誤謬の表現ではないかと。近代では、多くの対象が実体のない話の領域であるとして抹消されてきた、それが存在論的還元と呼ぶ。
ここで示されているのは、多様な対象領域のいっさいを、容易に唯一の対象領域へと存在論的に還元することはできないということ。それは、現実の複雑さや人間の認識形式の複雑さを考慮していない。事実は存在せず、解釈だけが存在するという構築主義は、その容易さへの逃げだ。その根本的な間違いは、事実それ自体を認識するのは難しいことではない、ということに気付いていないことだという。構築論は認識のプロセスを云々するが、それは認識されるものとは区別される。つまり、事実が存在するかという問題にとって、その事実をどの程度まで認識できるのかという問題は関係がないのだ。
以上のことを踏まえて、世界とは何かという問いに答えると、世界とは物の総体でも事実の総体でもなく、存在するすべての領域がそのなかに現われてくる領域のことだ。存在するすべての利用粋は、世界に含まれている。
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