今野真二「日本語と漢字─正書法がないことばの歴史」(6)~終章 日本語と漢字─歴史をよみなおす
欧米の言語学では、まず音声言語があって、文字はその音声言語を写した二次的なものだった。語をどのように文字化するという書記論はそこには存在しない。正しい書き方がたった一つだけある言語は、文字化に際して選択肢がない。日本語は正しい書き方がなく、つねに文字化に選択肢がある。欧米的な考え方では、漢字は文字化に使っている記号ということになり、文字が言語そのものに何らかの影響を与えるとは考えない。しかし、日本語の場合は、多くの漢語を借用して日本語の語彙体系ができあがっている。漢語を借用するということは、その借用した漢語を語彙体系内に位置づけるということで、位置づけるためには、和語とどのように結びつけるか、どのように距離をとるかをすり合わせる必要がある。そのためには、漢語の語義をきちんと押さえる必要がある。そうなると、漢字ただの記号ではない。
そして、表音文字としての仮名が誕生してからも、日本語は表意文字としての漢字を使い続けた。そして、漢字は表意的に使うのが本筋ということになる。仮名が発生した当初は、漢語は漢字で、和語は仮名で、別々に文字化されていた。それが、次第に和語も漢字によって文字化するようになっていった。中国語は具体的で、日本語は抽象的だから、中国語の語義すなわち漢字の字義がみえているとも日本語を漢字で文字化しにくい。日本語を漢字で文字化すると、常名゜少しのずれがある。そこで、ずれのすり合わせのさまざまな試みが行われた。
漢字による日本語の文字化が進んだ結果、ひとつの漢字列が漢語も和語もあらわすことができるという状態に至る。
言語を使うのは人間で、人間が言語を使うから言語が存在している。しかし、言語学は観察対象、分析対象を言語そのものに絞ることによって科学として成り立っている。観察対象、分析対象を言語に絞るということは、人間を観察対象・分析対象から排除することである。文字化を例にするならば、なぜそう文字化したのか、は問わないということだ。あたかも言語が自律的に働き、そうなっているように語られる。しかし、そこには、現代の観察者、語り手がいるのだから、その観察者の見方であることを意識する必要がつねにある。本書では、言語を使う人間、言語を観察する人間を意識するようにした。
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