南直哉「仏教入門」(6)~第5章 縁起と中道
中道とは両極端な生き方や在り方を離れることである。例えば、快楽主義と苦行主義という両極端から離れる苦楽中道。あるいは有無の二元論から離れる有無中道。
快楽主義は対象を思い通りにしたいというものであり、単なる感覚の充足欲求とは異なる。思いには充足という限界がない。この思い通りにしたいという欲望が、思い通りにできた経験として当面の充足を得ると、思う主体の存在は強化される。実際は根拠を欠いている自己の実存に錯覚的な根拠を与え、自己に実体があるかのような誤解を招く。
一方、苦行主義は超越的な理念を欲望する。知りたいことが日常経験で知り得るなら苦行など不要である。苦行が必要となるのは、経験を超えた超越的な次元の真理のような何ものか、普通は知りえない何ものかを欲求する。この点で苦行は最初から超越的理念の存在を前提にしているという実体主義的な実践である。
これらの点で、快楽主義も苦行主義も実体主義的という点で同じなのである。
また、「~が有る」「~が無い」と我々が言うとき、「~」そのものは有無の判断を離れている。換言すれば、「~が無い」と否定するためには、否定の対象の存在を前提にするしかない。ということは、我々の経験を超えた「~」を設定しないかぎり、「有る」「無い」の言表は不可能なのだ。つまり、有無の判断は、その行為において超越的理念、すなわち実体を要請していることになる。
したがって、有無の両極端を離れるとは、まさに実体の設定や錯視を避けることなのだ。それが「無記」ということでもある。
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