今野真二「日本語と漢字─正書法がないことばの歴史」(3)~第1章 すべては『万葉集』にあり
漢字から仮名が生み出されたのは9世紀末頃とされている。それ以前は、『万葉集』では、私達から見ると「当て字」のような形で漢字が使われていて、日本語表記のために試行錯誤がなされていたという説明がなされることも多い。しかし、著者は、『古事記』『日本書紀』『万葉集』が成立した8世紀の時点で漢字によって日本語を文字化するということがひとつの到達を見ていたという。だから、そこから1世紀あまりという短期間で仮名を成立させることできたのだという。
漢字によって日本語を文字化するというのは、言葉だけの問題ではない。そのベースには文字社会が広く成立している必要があるという点が見落とされがちだ。8世紀頃では文字を読み書きできる人は限られていた。中国語、漢字についての知識がなければ漢字によって日本語を文字化することはできない。そもそも、無文字社会であった日本に漢字が伝わったとしても、文字というものがなかったのだから、文字として認識されたわけではない。最初は絵か図柄のようなものとして捉えられたらしい。現代で外国人が漢字をデザインとしてプリントしたTシャツを着ているのを見て、時に恥ずかしくないのかと思う熟語を平気で表に出していたりするのと同じだろう。そういう出会いの後、漢字が言語を表わしている文字であるということが分かることがあって、それによってはじめて漢字によって中国語、とくに中国語のかきことばを理解するという段階に入る。漢字を使って日本語を文字化しようとするのは、その後でようやく可能になる。
『万葉集』は現存最古の歌集とされているが、詞書や左注は漢文で書かれている。収められている歌は短歌であれば、五・七・五という定型をもっているので、その形に合わせて文字化がされる。例えば、“春楊葛山發雲立座妹念”と文字化された歌は“春柳葛城山に立つ雲の立ちても居ても妹をしそ思ふ”と読む。このうち“立座”を“立ちても居ても”を文字化してものとは、すぐには分からない。この歌が五・七・五という定型をもった短歌であるから、そうなっている見当をつけることで“立座”を立ちても居ても”と読むことができる。短歌をこのように文字化すると、どのように日本語を文字化したのかがわかりにくい。それを著者は、漢字によって文字化されている日本語を具体的な日本語に戻す作業を「ヨム」とし、内容を理解する作業を「よむ」として、読むを分けることで、「よめるけどヨメない」と表わす。つまり、具体的な日本語がつかめていない(ヨメない)にもかかわらず、内容をわかる(よむ)。それは漢字が表語文字だからと言える。中国語では漢字1字は中国語の1語と対応している。「楊」であればやなぎ、「雲」であれはくもを表わしている。この「楊」や「雲」を使って文字化しているのだから、その背後にある日本語もやなぎやくもといった語義を持っている可能性が高い。それゆえ、「春楊」は、その漢字列が表わしている語義は春+柳とみなすことができる。中国語を文字化するための文字である漢字によって日本語を文字化するということは、日本語を中国語に翻訳することに限りなく近い。翻訳だから、言いたいことが少しずれてしまうこともあり得る。このような「ずれ」が生じることは認めるしかない。そのずれを調整するために生まれたのが表音文字である仮名であると見ると、その後、漢字が捨てられなかった理由が説明できる。仮名は調性のためのものだから文字化の主役には成れない。漢字がメインシステムで仮名はサブシステムというわけだ。
奈良時代には中国語の文を訓読することが行われて、平安初期の文書には訓点が記入されているものが見られる。『源氏物語』には「史記」や「白氏文集」の一節が書き下し文での引用がある。書き下されているのだから、それは「かきことば」ということになる。このようにして、漢文訓読と言う翻訳方法から日本語の「かきことば」が生まれてきた。ただし、これは中国語よりであることはやむを得ない。中国語を離れた日本語の「かきことば」は鎌倉時代以降になる。
こうした中で漢字は日本では表語文字としてではなく、表意文字として機能していくことになる。漢字は、もともと表五文字であるということは、一つの字が一つの語と対応していることで、それと同時に、その語の発音も表わしている。ひとつの語の発音はひとつである。だから、「足」という字に「あし」という発音も「ソク」という発音も対応しているということはあり得ない。音読みと訓読みがあるというは読み手からの見方であると著者は言う。では、書き手の側の見方ではどうなのか。中国語では漢字は表語文字だが、日本語では表語文字として機能していない場合があり、必ずしも漢字1字が1語を表わしていないことが少なくない。たとえば「足」という文字は「満足」は十分なという語義だが、それを知らない人が「満足」を「満」と「足」の分解して、それぞれの字に対応する訓読みをつかって「みたす」「たりる」を使って「みちたりる」と推測することもありうる。このような推測できるように意味を喚起していることを「表意」と呼ぶ。この場合、漢字は表語文字から表意文字になる。日本語を文字化する漢字は表語文字から表意文字になる。
一般に万葉仮名と呼ばれているのは次のようなケースだ。
伊蘇可気之 美由流伊気美豆 氏流麻埿尓 左家流安乃婢乃 知良麻久乎思母
この漢字列は「イソカゲノ ミユルイケミヅ テルマデニ サケルアシビノ チラマクヲシモ」という日本語を文字化したもの。これは短歌という定型詩が31文字の漢字で文字化され、ひとつひとつの漢字がどんな発音を表わしているかがわかればヨメたことになる。このように漢字列をカタカナに移し替えたのがヨメたということになる。これを日本語の語形や語義をふまえながら「磯影の見ゆる池水照るまでに咲ける馬酔木の散るらまく惜しも」という形にできれば、ヨメてよめたことになる。この場合の漢字は字が表わしている語義を離れて音だけを表わしている。このように使われているのを万葉仮名と呼ばれてきた。この万葉仮名というのは片仮名のような文字の呼び名ではなく、仮名のように機能しているという機能の呼び名と考えていい。この場合、漢字が表わしている日本語の音が分からないとヨメない。既に語義から離れているので、意味からヨミを推測することはできない。万葉集には、そういう理由でヨメない歌がある。
中国語を文字化するものである漢字が表語文字として機能するものなので、漢字を使いながらも表語機能を捨ててしまうのは本筋ではない。したがって、漢字を表音的に使って日本語を文字化するやり方は、いかにヨミやすいといっても、漢字の特殊な使い方なのである。実際に万葉集全体を見れば、漢字を表語的・表意的に使っている例の方が多い。
また、中国語と日本語とはかなり異なるタイプの言語であるので、日本語にはあるが中国語にはない、という語がある。助詞や助動詞はその代表といってよい。これらは中国語にはないのだから、漢字を表語的に使おうとすると文字化できない。そこで、漢字を表音的に使って文字化する。助詞や助動詞は実体的な語義を持たないといってもいいので、文字化しなくても。前後に置かれている語から、そこにあるであろう助詞・助動詞が分かることもある。定型の和歌は定型に収まるかたちの日本語にあてはめるために助詞や助動詞の推測が可能になる。とはいっても、文字化されていれば推測という手間をかける必要がないため、多くの場合、いわゆる自立語は漢字を表意的に使って文字化し、助詞・助動詞などの付属語は漢字を表音的に使って文字化するということが多くなる。後者を仮名に置き換えれば、現代日本語の文字化の仕方とおなじようなものになる。そう考えると、9世紀末に生み出された仮名は、表音的に使っていた漢字の代わりと捉えることができる。
このように『万葉集』において、日本語の文字化の基本的なかたちは出揃っていた。漢字を表意的に使うことと表音的に使うことを併用することによって、漢字のみで日本語を文字化することができる段階に至った。しかし同じ漢字を表意的に使ったり表音的に使ったりすると、どこが表意的使用でどこが表音的使用であるかが分かりにくくなる。定型をもつ和歌の場合はまだしも、定型でない散文の場合は分かりにくい。漢字の表意的使用が基調であれば、表音的使用をしている部分がはっきりわかるといい。その表音的使用部分を小書きにしたものが「宣命書き」である。しかし小書きは文字の大小ということもあるので、書き写しているうちに、必ずしも明確ではなくなることもある。そのとき、漢字と視覚的に区別できる文字によって表音部分を文字化すると分かりやすい。そこに使う田の文字体系として仮名が生まれたと考えることができる。その場合、仮名は漢字ではないことが視覚的にはっきりと確認しやすくなければいけない。片仮名は漢字の一部を取り、平仮名は漢字全体を変形させて漢字ではないこと、すなわち漢字とは異なる文字体系であることを視覚的に確保した。
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