南直哉「仏教入門」(7)~第7章 悟りと涅槃
悟りや涅槃を考えるうえで決定的な困難は、ゴーダマ・ブッダ本人が、悟ったときや涅槃に入ったときに何が起こったのか、何を経験したのか、何を理解したのか、まともに語っていないことである。だから、ブッダ以外の人が語る悟りの語りは、所詮自分が「悟りだと思ったこと」に過ぎない。だから、このような言説は、いかにその語りが正しいかを認証するのかという技術的な課題がつきまとう。そこで、悟った瞬間に悟ったと分かるというというアクロバティックな論証が行われる。だって、悟ったというのが妄想でないと証明できないからだ。したがって、ブッダ以外ものが悟りを語ると。その内容ではなく、語り口が問題となる。語るものは一様に、本来は言葉で語りえないという枕詞をつける。そして、言っている内容は大同小異で、ほとんど内容がない。
著者は悟りを名詞としてではなく動詞として捉えるべきだという。そうすれば、目的語を導くだけになる。そこで、悟りを機にブッダが言っていたことの変化に注目する。ままず、悟る以前のブッダの言動を考える。そこで重要と考えられるのは、苦行の放棄、二つの禅定の放棄、そして坐禅・禅定という身体技法のみで悟ったということ。前の二つの放棄は、超越的真理のような形而上学的実体を呼び込むことの忌避を意味する。そして、ブッダが悟った後に騙られたのが十二支縁起であり、その確信は、我々の実存を「苦」とする認識と、その原因の確定と言える。十二支縁起の第一支「無明」、四諦の集諦としての「欲望」がその原因だろう。そのいずれも、言語が構成する「私」、つまり自意識である。
このように、悟りの前には、特定の何ものかを実体視するような修業を捨て、悟りの後に、「苦」の根本原因として「無明」すなわち言語や自意識の作用を説いたということは、ブッダが悟ったこととは、言語が物事と実体を錯覚させることであり、それが「無明」の意味である。すなわち、無明の発見がブッダの悟りなのだ。
ブッダが悟りを語らないのは、悟りの世界とは、いうならば対象と精神の二元対峙の枠組みを外した、そういう事態そのものを完全に言語化するのは難しいが、とはいっても沈黙に逃げることはできない。というのも、「言語化できない」と言い切ってしまえば、それは「言語を超えた真理」という超越論とな実体化してしまう。そこで、常に言語化に失敗し続け、それでもなお言葉を更新し続けるしかない。その無限の行為において、「空」「無我」と呼ばれる事態を指示し続けるしかない。
ではこのような認識をもたらした無明の発見がいかになされたか。初期の経典に次のようなエピソードがある。ブッダがある村に滞在したとき、大嵐に遭い、雷鳴が轟き、稲妻が走り、ついに落雷して、農夫二人と牛四頭が死に、群衆が飛び出してきたが、それを見ることもなく、音も聞かなかったが、しかし眠っていたのではなくて、覚醒していた。というもの。
これは、何を見た、何を聞いた、を一切判断せずに、ただ見えている、聞こえているという状態、すなわち感覚機能を完全な受動態に設定した。そこでは、言語の作用をギリギリにまで低減するというもの。そうすると、「私は~を見た・聞いた」という認識の「自己-対象」二元論が崩れ、自意識は溶解していく。そして、特定の身体技法である禅定・座禅を用いると、言語機能が停止し、自意識が溶解するのだから、これを裏返せば、実体を錯覚させるような自意識の在り方もそれ相応の身体的行為に規定されている。
言語機能を提言して判断を停止すれば、対象は言語化不能なものとして、それは「何だ」となる。この「何」に直面して、そのまま直面にとどまる。どのように考えていいか分からない状態をそのまま維持して、言語に回収しきれない事態に直面し続ける行為では、自己-対象の二元構造は機能せず、自意識は溶解する。このように、自己と対象の実存の仕方は、身体行為に規定される。このことが禅定において体験されれば、言語による物事の実体視という
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