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2024年8月

2024年8月31日 (土)

堀米庸三「正統と異端─ヨーロッパ精神の底流」(5)~第4章 グレゴリウス改革と秘蹟論争

 11世紀から12世紀にかけて、ローマ法王グレゴリウス7世を中心として行われたカトリック教会の改革運動は、グレゴリウス改革と呼ばれ、古代的なものの尾をひく中世初期の政治的理念を清算し、成立期の封建社会の動向と不可分に結びつきつつ、中世のキリスト教的世界秩序とそのイデオロギーの実現を促し、しかもそれがもつ特有な内部的矛盾からして、その後の中世史の発展に主要な動力を与えるものであった。
 西ローマ帝国の崩壊から中世の封建社会が成立するまでの混乱時代ローマ法王はローマ市と周辺の貴族の傀儡でありその地位をめぐる利権の争奪や聖職の売買は日常的だった。それが、1030年代に神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世により法王が任命され、その腐敗に歯止めがかかった。そこでは法王は皇帝と並び立つものとされ、俗世の権力に従属しなくなった。それに伴い、教会内部でも綱紀の刷新が進められた。それがグレゴリウス改革である。

堀米庸三「正統と異端─ヨーロッパ精神の底流」(5)~第4章 グレゴリウス改革と秘蹟論争

 11世紀から12世紀にかけて、ローマ法王グレゴリウス7世を中心として行われたカトリック教会の改革運動は、グレゴリウス改革と呼ばれ、古代的なものの尾をひく中世初期の政治的理念を清算し、成立期の封建社会の動向と不可分に結びつきつつ、中世のキリスト教的世界秩序とそのイデオロギーの実現を促し、しかもそれがもつ特有な内部的矛盾からして、その後の中世史の発展に主要な動力を与えるものであった。
 西ローマ帝国の崩壊から中世の封建社会が成立するまでの混乱時代ローマ法王はローマ市と周辺の貴族の傀儡でありその地位をめぐる利権の争奪や聖職の売買は日常的だった。それが、1030年代に神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世により法王が任命され、その腐敗に歯止めがかかった。そこでは法王は皇帝と並び立つものとされ、俗世の権力に従属しなくなった。それに伴い、教会内部でも綱紀の刷新が進められた。それがグレゴリウス改革である。

堀米庸三「正統と異端─ヨーロッパ精神の底流」(4)~第3章 キリスト教的正統論争の争点─秘蹟論

 カトリック教会の本質は、その客観的制度としての性格にある。つまり、客観的に存在する歴史上の教会が、その聖職者の位階的秩序ともども、神の人類救済のための恩寵の施設ということである。教会が摂理にもとづく恩寵の施設であるということは、教会がキリストの受肉の帰結であり、永遠に存在する切れストの体躯そのものであることを意味する。
 この恩寵の客観的組織であるカトリック教会に対して、異端の教会は自覚した成員の自由意志による共同体であることを特徴とし、その成員を離れては客観的な価値を持たない。恩寵は、この共同体のなかに実現され、確保されるが、それは成員の自覚的努力を前提とし、その成員に属するもので、共同体に属するものではない。この恩寵への参与という点で、異端と正統のあいだに決定的な差がある。異端は恩寵への参与をただ成員の自覚的努力に依存させる。これに対して、正統の場合は、完全に合理化され制度化される。教会は神の人類救済の施設であり、そのままに恩寵の宝庫なのだから、教会の営みに参加することは恩寵への参与を意味する。
 この異端と正統の対立が、具体的に現実に現われたのが秘蹟、とくに洗礼と叙品の秘蹟であ。まず、洗礼については、異端の場合は、各成員の自覚的改宗を条件とし、それは異端の共同体つまり教会への加入を意味した。それゆえ幼児洗礼を認めなかった。これに対して、正統のカトリック教会の場合、成長後の改宗を除き、洗礼は原則として幼児に与えられる。カトリック教会では、人は教会のなかに生まれるのである。
もう一つの叙品は、洗礼が教会に属しキリストの恩寵にあずかるための資格を付与する入口であるとれば、その資格を付与することのできる資格を付与する、具体的には教会の司祭等の役職に任命する、いわば人事権である。カトリック教会の正統と異端との差が歴然と現れるのは、この叙品における秘蹟論である。カトリック教会の秘蹟論の特徴は徹底した職務的性格にある。正統の客観主義はここに最も明瞭に現われる。すなわち、カトリックの理論では、恩寵伝達の行為である秘蹟は、それが秘蹟創設の趣旨に従って、具体的には、司祭や助祭が教会の定める言葉を用い、その手続きを踏むことで、受領者がカトリック信仰において受領するかぎり、秘蹟の執行者の人格とは全く独立に、その効果を表わすというものである。このことは、異端から見ると、堕落した司祭から秘蹟を受けたくないし、そんな者から受けた秘蹟など無効ではないかという、客観主義批判の嚆矢となったのである。
 異端からの批判は、カトリック教会という組織から見た場合、高位の司祭なり法王が罪を犯し瀆聖聖職者とされた場合、異端の主張を容れれば、彼らの任命した数多くの叙品、つまり人事発令がすべて無効になり、組織としての教会が立ち行かなくなる。しかも、中世では高位聖職者は、貴族身分と密接に結び合っていた聖職売買によるものが多かった。現実にそういう貴族との関係を断ち切れないことから教会内での政治闘争が常態化し、異端の主張を容れれば、それは政治闘争の有効な手段、つまり反対派の粛清の手段となる。このような現実的な理由もあった。

2024年8月30日 (金)

堀米庸三「正統と異端─ヨーロッパ精神の底流」(3)~第2章 正統と異端の理論的諸問題

 正統と異端というセットは天と地のように相関的だが、善と悪のような相互否定的な対立概念ではない。異端は正統に対して異端であって、異教ではない。正統と異端は、あくまでも根本を共通する同一範疇に属する事物相互の対立だ。そして、正統と異端は相互に相関概念なので、それぞれが一義的・不変的内容をもつのではなく、相互の流動性、つまり曖昧なところがある。例えば、正統と異端が入れ替わる、つまり、ある事項が正統だったはずが、時代や環境の変化によって異端となってしまう。ところで、両者の対立においてそれぞれが相手方に対して用いる批判に修正主義という概念がよく゜使われるが、これは理論を現実に適用するにあたって、表面は本質に対する忠実を装いながら、実はその修正・すり替えを行っているという非難なのだ。ということは、正統と異端とは、現実ではつねに相関的に流動しながら、しかも踏み越えてはいけない限界を持っている。つまり、正統と異端は決して実体的な概念ではないが、際限もなく流動的でありえない。それを著者は、正統における客観主義、異端における主観主義と規定する。つまり、正統と異端の出発点には預言や啓示が、正統の根本的テーゼとして必要であり、それが人間と世界に対する全体的判断であるかぎり、種々の妥当性の程度を異にする大小のテーゼの組み合わせから成っている。それに対する解釈が正統の場合は全面的であるのに対して、異端は場合は一面的であるということだ。福音書には普遍的な妥当性をもつ規定から、限定された妥当性の規定まで様々ある。実生活では、それらをすべて矛盾なく実践することは不可能だ。このような福音書の解釈にあたっては、相互に矛盾する、しかもそれぞれに真実性を持つ規定を総合的に合理化することが正統の立場で、一面的把握が異端に通じる。実際のところ、パウロによって、イエスの教えの実践的解釈(全面的合理化)が行われることによって、信徒の人間的・社会的な日常生活のすべてを包括することが可能となり、キリスト教が大衆宗教として、ローマ社会に根付くことができた。そこに批判の余地をもつ個々の点が残るというのは、後年のルターによる批判などにより明らかだ。しかし、与えられた現実に対して、イエスの教えを最大限包括的に生かそうとするかぎり、パウロの実践的解釈には一面的真理の潔癖さでは求めることのできない客観性がある。これが正統と異端の関係で、客観主義と主観主義の対立と言い換えてもいい。
 ここで注意すべきは、客観的に現実との妥協・協調を重ねる正統つまり教会では、妥協・協調の一々の段階がすべて原理的検討を踏んでいるとされているので、決してそれ自体現実への妥協とか敗北の歴史とは意識されていない。むしろ、啓示による俗世の教化と捉えられた。ここに正統信仰における客観主義の基礎がある。
 これに対して、異端は正統あっての存在なので、それ自体のテーゼはなく、正統の批判から出発する。批判の基準となるのは正統と同じ啓示であり、正統教会の啓示の解釈が現実との妥協を批判する。つまり、異端のテーゼは啓示への回帰である。しかも、その啓示は全体的にでなく部分的に、異端の主観的真実に合致するかぎりにおいて受け取られ、現実への適用可能性は相対的に軽視される。それは外見上ラディカルな理想主義の形態をとる。この理想に堪えられるために強烈な精神の緊張を要するというきわめて主観主義的となる。往々にして、ヒロイズムに結びつきやすい。正統の寛容さとは対照的でうる。

2024年8月28日 (水)

堀米庸三「正統と異端─ヨーロッパ精神の底流」(2)~第1章 ローマ法王権の負い目

 フランシスの運動は決して孤立したものではなかった。11世紀末以来、澎湃として起こった使徒的生活の実践を目指す一連の宗教運動のひとつであった。これらの運動に共通するのはグレゴリウス改革の一段落の後、保守化し反動化したカトリック教会に対して批判的であり、それゆえに異端として排斥されるものも少なくなかった。ワルド派やカタリ派はその典型である。彼らは、使徒的生活を続ける中で、教会の権威を無視するように独自に説教や布教を行った。これはカトリック教会には看過できないものだった。すなわち、教会はそのままで人類の救済のための神的な施設なのであり、聖職者は教会の目的を実現するために任命された神聖な人格なのである。この聖職者をさしおいては、教会活動の主要部分である説教を行うことはできないのである。
 これに対して、宗教運動の理念は一切の財物を放棄して福音書的製品に生きることと、イエスに従う使徒的生活の実践の二点にあった。もともとキリスト教界では清貧の理想は親和的だ。しかし、それは修道士の戒律としてであって、在家の人々の日常規範として掲げられたのは宗教運動からであった。これは、実はグレゴリウス改革と同じような道徳的厳格主義であり、しかし、グレゴリウス改革の目的と手段とのズレから生まれ、助長したと言える。それが、フランシスと面会した際のイノセント3世の負い目の感情の基である。

2024年8月27日 (火)

堀米庸三「正統と異端─ヨーロッパ精神の底流」

11115_20240827235301   10年以上前に読んだ本の再読。
 物語は1210年のローマ教皇イノセント3世と「小さき花」アッシジの聖フランシスとの会見からはじまる。この出会いによってローマ教会は過去何世紀にわたって負い続けた負い目を返すことができた。それはどういうことかを理解するためには、11世紀のローマ教会におけるグレゴリウス改革に、そしてこの改革の理解のために古代末期・中世初期まで遡らなくてはならない。
 グレゴリウス改革とは中世のローマ教会を、ということはヨーロッパの文化的基盤を形づくったものなのだ。そこでの主要な問題が正統と異端の争いだと言える。正統と異端の争いは、教義上の問題である前に宗教と政治との不可避的な相反と結合の関係から生まれたものだった。それが中世の政治の場に現れたのが教皇と皇帝という宗教と世俗の権力の相克であった。そのため、正統と異端の抗争は他に類を見ない深刻なものとなり、後の宗教戦争に至る、ヨーロッパ人の精神形成に大きな底流として働き続けることになったのである。

 正統と異端の対立は客観主義と主観主義と言い換えられるという。わたし的に分かりやすく言えば、客観主義というのはシステム、具体的にはカトリック教会というシステムを重視するということ。これに対して、異端の主観主義は、例えばマルティン・ルターはカトリック教会の聖職者の腐敗を糾弾し、堕落した司祭の説教なんか聞く価値もないし、そんな奴から洗礼を受けたって、神が認めてくれるはずがないと主張した。これは、現代でも政治の世界で、不適切な発言をしたり、裏金の疑惑のある大臣を、野党が糾弾するのと同じようなものだ。しかし、この場合、政府とか役所のシステムが正常に動いているかぎり、そんな大臣でも政策が無効になることはない。組織のシステムが適正で、バカな大臣がいてもガバナンスが機能して、ちゃんと動いているのだ。正統キリスト教でも、教会というシステムが正常に動き、徳の欠けた聖職者であっても、システムの適正な手続きにより行われた行為は有効だという。このように考えると、会社という組織のなかで、そのシステムによって仕事をしてきた私には、正統の立場は、よく分かる。そして、そういう組織に埋もれてしまうと人間性が疎外されてしまうというような立場が、ルターのような立場ということになる。

 

 

2024年8月26日 (月)

小林英夫「日中戦争─殲滅戦から消耗戦へ」(7)~第5章 二つのパワー

 ここでは、日中戦争をハードパワーとソフトパワーの相克という視点から見る。戦争におけるハードパワーとは軍事力や産業力のことを指し、ソフトパワーは直接の武力によらない政治・外交の他、メディアによる宣伝力、国際世論支持を集めるような文化的な魅力など広範な力が含まれる。ここで重要なのは野蛮・卑劣な行為は、短期の殲滅戦では勝敗に影響はないが、長期の消耗戦では自殺的行為となる。それはソフトパワーを大きく損ない、その分相手のそれを増大させる。
 ハードパワーでは日本は圧倒的優位に立っていた。他方、ソフトパワーは欠如していた。その象徴的な例が外交であり、さいごまで、うまく機能させることができなかった。相手の中国側の不信を招き和平交渉を不可能にしてしまう。これに対して蒋介石は、日本の貿易・産業の命脈を握るアメリカに焦点を合わせて外交ロビー活動を積極的に展開し、宣伝という武器で世論を動かしていった。そのため、マスコミの論調が次第に中立から中国寄りに移っていった。ジャーナリズムまで巻き込んだ蒋介石の外交戦は、中国のソフトパワーの白眉であった。言論が戦争の勝敗に与える影響なと、日本の戦争指導者は一顧だにしなかった。日本の場合は国内ばかりに目を向け、日本人にしか共有できない閉じた言論に偏していて、日本の行動について国際的理解を得ようという発想はなかった。

2024年8月25日 (日)

小林英夫「日中戦争─殲滅戦から消耗戦へ」(6)~第4章 見果てぬ夢

 日中戦争の第三期は太平洋戦争の開始から戦争終結までをいいます。日本が英米との戦争に突入することによって、中国戦線の状況の状況は一変する。日本軍の基本的な思想は太平洋戦線においても、殲滅型戦略だった。南太平洋の英米の陸海軍主力を粉砕すれば、短期和平に持ち込めることを期待していた。緒戦は圧勝で瞬く間に広範な地域を占領した。しかしそれは、対峙した英米の軍隊は植民地軍主体で士気が低く、装備も劣っていた。しかも、緒戦では進行する日本軍を現地では植民地からの解放者として支援する動きがあった。また、英米の指導者たちはヨーロッパに目を向けて、アジアに注意を払っていなかった。つまり、日本の快進撃は僥倖によるものだった。そのため、日本の殲滅戦略は半年で破綻してしまう。この間、中国戦線は膠着状態に入っていた。しかし、対英米戦を戦う南方戦線が主戦場となったため、戦力投入はそちらが優先され、中国戦線から次々と兵力を南方に移されていく。そのため、中国戦線は手薄となり、防御一方に追われることになった。これに対して、中国軍は英米の支援を受け戦力を整え、圧倒的な兵力の優位を得ていた。長期戦に持ち込んで軍事・産業力を゛揖斐する時間を稼ぎ、外交によって英米など国際的支援をとりつけて最終的な勝利を得ようという蒋介石の証文戦略が見事に成功したのだった。

2024年8月24日 (土)

小林英夫「日中戦争─殲滅戦から消耗戦へ」(5)~第3章 傀儡の国

 本書では1938年の武漢作戦終了後、戦線が膠着し、殲滅戦略戦争の遂行枷不可能となった日本画、謀略によって国民党政府の分断を図るようになった時期を第二期と呼んでいる。いわゆる汪兆銘を引き込む分断策である。
 重慶の蒋介石政権と比較して、汪兆銘の権力基盤は脆弱で、寄せ集めの観を呈していた。彼の地盤である上海は、日本軍の軍事行動により政治勢力が一掃されてしまったためだ。しかも、日本は汪兆銘を謀略の手駒として扱い、その対応は誠意を欠いたものだった。そのことが香港の新聞にすっぱ抜かれ、日本の国際的な信用失墜を果たしてしまうことになる。にほんの信用失墜は、すなわち重慶政府の信用の増大であった。

小林英夫「日中戦争─殲滅戦から消耗戦へ」(4)~第2章 破綻した戦略

 1937年、盧溝橋事件がおこり、日中の開戦に至る。戦線の拡大は急であった。この間の日本の軍事力は殲滅戦を得意とする本領を発揮した。しかし、上海から南京の攻略に向かうと、蒋介石の指導部は内陸の重慶に遷都し、長期消耗戦に引きずり込む行動をとる。こうして、戦線は華北に留まらず、華中に拡大し、華中が主戦場となっていく。短期の殲滅戦では、日本にとってこれが致命傷となったと言える。上海地域には中国でももっとも日和見主義的な勢力が集中していた。彼らは、日本軍にもっとも取り込まれやすい勢力だった。にもかかわらず、日本は、ここを戦場にしただけでなく、彼らの基盤を徹底的に破壊したことで、彼らを蒋介石側に追いやってしまった。この後、中国軍は抵抗を続けながら、日本を内陸部に誘い込み、消耗させていった。
 そのような日中戦争の初期に発生したのが南京事件である。日本は激戦の末、上海を占領する。そこでいったん作戦を終了し、厄介な上海を国際管理に任せ、華北の占領地固めに力を注ぐべきであった。しかし、休む間もなく南京に進軍したのだった。上海の在留邦人保護のために補給部隊を残したため、補給を受けられない日本軍は行く先々で食糧の現地調達を繰り返すしかなかった。物心ともに余裕のない作戦遂行は、日本兵をすさんだ戦場心理に陥らせ、捕虜殺戮や婦女子暴行を頻発させた。上海攻略から息つく間もなく南京攻略を企図した日本軍中央と指揮官たちは殲滅戦略戦争的な視点で兵を動かした。南京が陥落すれば国民政府は降伏するに違いないと。その性急な用兵が、将兵たちを暴徒と化す原因となった。対するに中国側は、消耗戦略戦争的な視点でこれに応じた。徹底抗戦による殲滅を避け、南京から分散遷都して後退しながら、空間を時間に替えて軍事力を鍛錬・再編していく戦法を採用したのである。この結果、無防備な市民に膨大な数の犠牲者が出た。
 蒋介石は、早い段階から、強力な軍事力と産業力を有する日本と戦うためには、中国は道徳的優位性で勝負する以外に方法はないと考えていた。中国は広い国土と、長年にわたる異民族との戦争の経験を持ち、必然的に、広い情勢判断と緻密な情報の収集、それらにもとづいた外交を得意とする軍を作り出した。その中国における戦いでは、さまざまな勢力との合従連衡の成否が戦局を決定し、個々の兵隊や下士官より指揮官たる将校の情勢判断が、戦況に大きな影響を与えることになる。これに対して、中国とは比較にならない狭い国土しか持たず、兵站の必要もないほどの狭小な地域での戦闘しか経験してこなかったのが日本軍だった。その戦いにおいては、指揮官の綜合的な判断力よりも、個々の兵士や下士官の優秀さが戦局を決定してきた。蒋介石は、日中の軍の特徴を理解し、対日本の戦略として長期的な消耗戦を採ったのだった。
 強大な一撃で政府を屈服させるという目論見は外れ、短期決戦は絶望的となり、消耗戦の泥濘にはまり込んでいくことになる。

2024年8月22日 (木)

小林英夫「日中戦争─殲滅戦から消耗戦へ」(3)~第1章 開戦へのあゆみ

 1931年柳条湖事件をきっかけに満州事変が起こる。満州事変について注意すべきこととして、次のことがあげられる。ひとつは、満州事変は日本にとって、英米などの強国の事前諒解なしに大規模な領土拡張戦争を始めた最初のケースだということです。それまでの日清・日露戦争などは戦争開始前に英米などの国際的承認を取り付けてから作戦を開始していました。ところが、満州事変ではそのような手続きを無視したのです。満州事変の成功は、軍部内に外交軽視の風潮を作り出すこととなり、日本の外交力の衰退を招く結果となった。したがって、外交力を持った敵には、その弱点を徹底的に衝かれることとなった。第二に、関東軍と比較して圧倒的な軍事力を持っていた奉天軍に対して、短期的に満州を制圧できたこと。この成功経験は、作戦を巧みに展開すれば数倍の中国軍でも撃破できるという驕りを生んだ。第三に、朝鮮や台湾のように総督を置いてた直接軍政の統治形態をとることなく、溥儀を傀儡とする独立国という形態をとったことだ。これは、現地の中国人の協力を容易に得られるという誤解があった。満州事変は満州国の成立で、ひとます終結する。この時点では、中国は関東軍の意のままにできるかに見えていた。これらの誤解は北支に進出すると、手痛いしっぺ返しを受けることになる。

2024年8月21日 (水)

小林英夫「日中戦争─殲滅戦から消耗戦へ」(2)~序章 殲滅戦争と消耗戦争

 殲滅戦と消耗戦という戦争観には時代による変遷がある。古代ギリシャ時代の戦争は市民軍どうしが真正面から激突する決戦だったが、中世の封建制の時代になると傭兵が主体の長期戦に転じ、戦争より政治的取引が大きな比重を占める持久戦が主流となった。これを革命的に変えたのがナポレオンで、革命の市民をまとめて短期決戦を挑み各国の傭兵軍を打ち破った。そして、決戦を大きく転換させたのが第一次世界大戦で新兵器の同情で戦闘が陸海空の三次元に広がり、国民の総力が動員されることで長期化し、持久戦の時代になった。
 しかし、日本人は持久戦の発想がなかった。近代日本が経験した対外戦争は殲滅戦のみを繰り返し、消耗戦争に関しては未経験のまま日中戦争に突入したのだった。だが、それまでで消耗戦に気付くチャンスがなかったわけではない。たとえば、日露戦争は第一次世界大戦の戦力線の前触れ的な位置づけが可能で、国家総動員体制が準備され、産業や思想の統制と動員が重視され、戦争の経過に外交交渉が大きな関係を持ち続けた。ロシアは革命の危機に脅かされ総動員体制をつくれなかったことが勝敗を分けたのだった。しかし、日本の軍部にその認識は生まれなかった。これは、明治以降の日本の近代とは、時の超大国と連合し、その庇護の下で世界情勢の変化を利用しながら、アジアという限られた地域で国益の伸長を図るというものだった。そこでの戦争は、アジアでの局地戦で、独力で長期間戦うという準備の経験も持たなかったからだと言える。

2024年8月20日 (火)

小林英夫「日中戦争─殲滅戦から消耗戦へ」

11115_20240821235201  13年前に読んだ本の再読。なんと、今月、文庫になって新刊されていた。
 1937年の盧溝橋事件をきっかけに8年間続いた戦争を日中戦争と呼び、これを日中の戦争観の対比という視点から見ていく。そうすると、1941年からの日米英の戦争に比べると茫洋としてわかりにくかった全体像が少し見えてくる。
一般に、戦争には、短期的な決戦を目指す殲滅戦略による戦争と、長期的な持久戦を目指す消耗戦略の二種類に大きく分類できる。日中戦争は日本の殲滅戦略と中国の消耗戦略との激突であったというのが本書の視点。殲滅戦略を支える原動力は、その国の軍事力や産業力などのハードパワーであり、これに対して、消耗戦の場合は、政治力や外交力、さらには国家の文化的な魅力も含むソフトパワーによる戦いになる。そういえば、真珠湾攻撃の前に、総合力で勝てないと対米敗戦を予測した総力戦研究所の分析も、ハードパワーの分析であり、当時の日本には決戦という殲滅戦しか頭になかったのだろうということが分かる。「戦争とは国と国との取引の一つの手段にすぎない。だから負け戦を五分か七分で食い止めるのも戰上手なのだが日本人の軍人は戦争と個人どうしの果し合いを混同して、どちらかの息の根を止めるまで戦おうとした、そのため、惜しい軍隊を失った」という当時の中国人政治家の言葉は重いと思う。結局、現代の日本での軍備の議論や反戦平和運動の言説なども、殲滅戦の発想のみで語られているように見える。

 

2024年8月19日 (月)

ロドニー・スターク「キリスト教とローマ帝国─小さなメシア運動が帝国に広がった理由」(8)~第9章 時機と組織

 ここからは初代教会を社会的・文化的環境の中でより明確に位置付け、ギリシャ・ローマ社会と教会との相互関係を検討する。
 まずは時機について見ていく。ローマ帝国における信教の自由は高いレベルで保証されていた。しかし、当初、ユダヤ教やキリスト教はローマの神々をニセモノだと非難したため合法とされず、形式的、公的に見下されていた。とはいえ、非公式には、おおむね自由であってた。迫害は悲惨だったが、限られた一部にしか及ばなかった。つまり、実際の弾圧はあまりなかった。そこで、キリスト教は秘密結社のように閉じこもることなく、ネットワークをオープンにすることができた。人々の目に触れることができたので、外部の人々に布教することができた。
 宗教社会的には、宗教団体の自由があり、つまり、経済市場で自由競争が認められように、宗教市場で宗教団体の自由な競争ができていた。そこで、各団体は消費者のニーズを掘り起こし、活発な競争をおこない、国家は独占的な宗教をつくるというようにコントロールをすることには消極的だった。そこで、多元主義が花開いた。その結果として、ローマの多神教に多くの神が、あとからあとから加わり、人々の間で、新たに神を受け入れることについての抵抗感が少なくなっていったのだった。その結果、人々は特定の神への思い入れが相対化され、神々への物質的、精神的な関心が分散し、ひとつひとつが稀薄化していった。そこに一神教があらわれた場合、信仰の強度という点で多神教は一神教に敵わない。
 宗教団体には二つのタイプがある。ひとつは排他的帰依を要求するもので、もうひとつは非排他的な集団で、後者は複数の宗教に関わることを意に介さない。前者はキリスト教やユダヤ教で、後者はギリシャ・ローマの多神教だ。組織としては前者の方が明らかに強い。

2024年8月18日 (日)

ロドニー・スターク「キリスト教とローマ帝国─小さなメシア運動が帝国に広がった理由」(7)~第6章 都市帝国のキリスト教化─数量的アプローチ

 初代教会においては、キリスト教は都市の運動だった。規模の大きな都市は人口が集中し、宣教をするために人を集めやすい。また、ローマ帝国では交通網が整備されていたので移動と交易に乗って文化の接触、コミュニケーションによる人間関係が、古い地縁や血縁ではないものが、作られていた。キリスト教の宣教は、これに乗っていった。また、この同じルートを辿ったのが離散ユダヤ人たちで、前のところで指摘したようにキリスト教は彼らへの宣教に成功していたため、離散ユダヤ人が帝国各地に広がっていくことを媒介にして、キリスト教がひろがっていつた。
 また、都市は様々な人々が流入し、人種の坩堝となっていた。その結果、無秩序が進み、人々の間の関係が希薄になる。そのため、規範から逸脱する自由が大きくなる。その結果、既存の宗教以外の宗教活動に参加する用意度が高まる。前のところで指摘したが、疫病の流行において、キリスト教は信者を拡大した。その主要な舞台が都市であった。疫病だけでなく、無秩序な社会で、キリスト教は希望とともに慈善活動を提供した。よそ者のよそよそしい社会に愛着関係を結べる礎、社会的連帯の礎を提供した。キリスト教の宣教者を、都市は暖かく迎えるようになっていった。

2024年8月17日 (土)

ロドニー・スターク「キリスト教とローマ帝国─小さなメシア運動が帝国に広がった理由」(6)~第5章 信者の増加と女性の役割

 初代の教会は女性にとって非常に魅力的だった。当時の、ギリシャ・ローマ世界では男性が女性を著しく上回っていた。その極端な女性数の不足が、結果的に帝国の人口減少を招いた。このような極端な性比が生じたのは女児の出産は還元されず遺棄が道徳上認められ、どの社会階層でも広く行われていた。また、女性は成人後も、低年齢で結婚し、無理な妊娠による妊婦死亡率の高さ、そして、中絶による死亡も多かった。
 これに対して、キリスト教は間引きと中絶を禁止していたため、異教徒の間では存在した新生児での男女の不均衡がなかった。また、女性の方がキリスト教への改宗に応じる傾向があったため、キリスト教社会では女性数が優勢となった。帝国の上流社会では妻たちが最初改宗者となり、彼女らの夫の一部が続いて改宗者となった。主人が改宗すると家族や召使など世帯全員がそれに従うのがしばしばだった。それは、キリスト教徒の男性は結婚までの童貞が求められ、不倫は姦淫として男性も糾弾された。また、寡婦になってもキリスト教徒の女性は不利にならなかった。これにーらにより、キリスト教徒の女性は異教徒に比べると婚姻上の安定と平等を享受できた。
 一方、異教徒の世界では、男性過剰が女性不足をもたらしていた。それに対してキリスト教徒の間では男性が不足していた。ここに、キリスト教徒の女性が異教徒の男性と結婚して、男性をキリスト教に勧誘するチャンスが生じ、生まれた子供はキリスト教信者となった。

ロドニー・スターク「キリスト教とローマ帝国─小さなメシア運動が帝国に広がった理由」(5)~第4章 疫病・ネットワーク・改宗

 165年、ひどい疫病がローマ帝国を襲った。帝国の人口は4分の3から3分の2まで減少した。251年には、同じ規模の疫病の流行が起こった。古代社会が疫病による大混乱に陥ったことが、キリスト教運動にとっては大きなプラスとなったと著者は考える。
 多神教や古代ギリシャ哲学では疫病を説明しきれず、癒すこともできなかった。これに対して、キリスト教は、人がそのような苦しい時代になぜ遭遇したのかへの満足のいく答えと、希望にあふれ情熱的とさえいえる未来像を与えた。愛と奉仕というキリスト教の価値観は、当初から社会奉仕と連帯という規範を生んだ。災難が襲った時も、キリスト教とはうまく対処でき、そのことが実質的により高い生存率につながった。疫病が流行すると多神教の信者は感染を恐れて都市から退避したのに対して、キリスト教徒はとどまり、感染者の看病を続けた。彼らは罹病したが恢復したものもおり、そこで免疫が生まれ、結果的に疫病による死者の増加が多神教信者に比べて少なかった。そのため、疫病がひとつ終わるたびに、キリスト教徒は新たな改宗者がなくても人口に占める比率を高めた。さらに、彼らの生存率の明らかな高さがキリスト教徒にも異教徒にも奇跡と映ったことで改宗を誘うことになった。

2024年8月15日 (木)

ロドニー・スターク「キリスト教とローマ帝国─小さなメシア運動が帝国に広がった理由」(4)~第3章 ユダヤ人宣教は成功した

 宗教運動の成功には文化的なつながりが重要である。具体的には新しい宗教が慣れ親しんだ既存の文化をより継承しているほど、人はそれを進んで受け入れやすい。ユダヤ教に慣れ親しんだ人ほどキリスト教を受け入れる素地ができていた。
 実際は新約聖書にも書かれていたようなキリスト教はユダヤ人への宣教に失敗したという通説とは違い、ユダヤ人への宣教はかなり成功し、ヘレニズム化したユダヤ人でキリスト教に改宗する人の流入が5世紀ころまで続いた。それは、キリスト教は離散ユダヤ人のユダヤ的遺産の多くを継承していただけなく、かれらのヘレニズム文化の要素とも合致するものを持っていた。そして、社会運動は、その成員と転向者のあいだにある、またはできる、人間的愛着関係に基づいて、入会者を集める。エルサレムからその信仰を宣べ伝えた初期の宣教者の友人や親戚が離散ユダヤ人たちだった。かれらは小アジアや北アフリカの都市という改宗者を生み出すのに格好の場所に移り住んでいた。初期の教会はそこに建てられ、最も活発なキリスト教徒の共同体があった。

2024年8月14日 (水)

ロドニー・スターク「キリスト教とローマ帝国─小さなメシア運動が帝国に広がった理由」(3)~第2章 初期キリスト教の階級基盤

 従来の歴史では、形成期のキリスト教は持たざる者たちの運動であり、ローマ帝国の奴隷や困窮した大衆の避難所だったとされてきた。しかし、著者は初期キリスト教が現代のカルト運動と似たものであるとすれば、持たざる者ではなく、恵まれた者の階級にその基盤があったはずだという。それは、新しい信仰を受け入れるとはどういうことかを考えてみる。
 当たり前のこととして、人は既存の宗教に満足しているから、新興宗教には行かない。だから、既存の宗教ではカバーできない隙間、その弱点をつくのが新しい宗教の生きる道である。そのような隙間にいち早く気付いて反応できるのは、より教育のある人だろう。ギリシャ・ローマの価額や哲学が興隆するにつれて、以前からの多神教の教えむとの齟齬を敏感に感じ取った教育のある人たちだった。だから、既存の宗教に対する懐疑が最も広まるのは、より恵まれた人々の間ということになる。これは宗教に限らず、新しい技術、ファッション、文化の革新を最初に受け入れるのは収入や教育の面で平均を上回るレベルの人々だ。パウロはローマのそのような人々に新しい世界観、新しい現実の捉え方、新しい神を受け入れるように呼びかけたのだった。
 歴史学者が初代教会というとき、それはエルサレムの教会ではなくパウロの教会を指す。それこそが勝ち残り、歴史を変えた教会だからだ。初代教会は帝国の中でのカルト運動だった。カルト運動が比較的裕福な人々に基盤を持つのであれば、パウロの宣教最も成功した階層は中流から上流にかけての層だったと考えられる。
 逆に、初期キリスト教が比較的裕福な層の運動だったか、それとも貧困層の運動だったで、大きく違いが出てくる。前者の場合は、国家はそれを単に不法な宗教としてではなく、政治的脅威と扱ったはずだ。帝国はその場合、残虐かつ執拗で徹底的な手段をとって抑え込みにかかっただろう。しかし、実際は抑圧は限定的だった。キリスト教を裕福な人々のものとすると、その態度が説明できる。

2024年8月13日 (火)

ロドニー・スターク「キリスト教とローマ帝国─小さなメシア運動が帝国に広がった理由」(2)~第1章 信者の増加と改宗

 ここでは増加を数値的に考察する。つまり、増加率が最低でもどの程度あれば、歴史許した時間枠の中でキリスト教運動が推定される大きさになり得たか。従来の歴史研究では、初期キリスト教運動の急成長を強調するが数字が添えられることはない。著者は合理的に確かだと思える数字を二つ探し出す。その二つ、はじまりと終わりから成長率を得ることができる。はじまりの数字は「使徒言行録」にある十字架刑の数か月後の信徒数120人とある。一方、終わりの数字は3世紀ローマ帝国の文献から5~7百万人と推定できる。そこから10年間で40%の割合で信者が増えたと推測できる。この数字は、現代のモルモン教の過去1世紀の平均成長率にきわめて近い。歴史学で3世紀の奇跡的な急成長は、40%の成長率が続いたまま、信者の絶対数が増えたので、分母が増えると分子の信者増加の絶対数が増えたということと推測できる。
 エウセビオスの「教会史」で初期キリスト教の宣教師たちは、公衆の前で説法と奇跡を行った結果、集団改宗が起こったとし、この集団改宗こそがキリスト教の急速な興隆をもたらしたと記している。これに対して著者は、さきほどの計算からは4世紀の中ごろには集団改宗が起こらなくても、人口の半分近くまで達したことを示している。
 そこで著者は奇跡によらず、人々はいかにして改宗したのかを推測する。ではキリスト教の教理上の魅力か。しかし、教理の詳しい内容に人々が目覚めるとしたら、それは改宗した後のことだろう。そこで、現代のカルトの広がりのプロセスを参考にする。例えば親密な友情で結ばれたグループに宣教者が入り込み、そこで友人となることで、そのネットワークを通じて改宗が進むという事態だ。著者はこう結論する。改宗は教義やイデオロギーの追求や信奉よりも、むしろ自分の宗教的行動を友達や家族の足並みに合わせることだ。メンバーへの個人的愛着が非メンバーへの愛着を上回っている人が改宗する。つまり、当時のキリスト教のような新たな宗教への改宗は、他の条件が同じならば、人がそのグループの成員に対して、グループ外の人々よりも強い愛着を持っているか、持つようになった時に起こる。したがって、成功する改宗運動は、社会的ネットワーク、すなわち直の親しい人間関係に基づく愛着という構造を介した成長である。このネットワークを閉鎖させず、オープンに保ち、隣り合った別のネットワークと手を結び、ネットワークの網を広げていくことで信者を増やすことができた。この新しい信者のひとりひとりが信者のグループと勧誘可能な未来の信者との愛着関係の輪を大きくすることで、ネズミ算的に信者を増やすことができたと考えられる。

2024年8月12日 (月)

ロドニー・スターク「キリスト教とローマ帝国─小さなメシア運動が帝国に広がった理由」

11113_20240814233701  古代のローマ帝国のはずれで起こったローカルで小さなメシア運動が、わずか2世紀あまりで、古典古代の多神教を駆逐し、西洋文明の支配的信仰となったのは、どうしてか。その展開のプロセスをまるでベンチャー起業が成功して大企業へと成長したマーケティングによる市場分析すねように読み解く試み。現代でも、モルモン教のようなカルトが規模を拡大し教団に成長することがあるが、そこで観察された詳細を、あるいはベンチャーが起業して大企業へ成長するプロセスを、古代のキリスト教団に当てはめて比較することで、歴史学では見えてこなかった視点を歴史学的に検証していく。初期のキリスト教が発生から4世紀の間の信者の増加率は40%と推計できるが、その伸び率は、現代のモルモン教の伸び率と同じ程度で、奇跡的というほうどのものではない。ただし、キリスト教団の集団の性格と新しい戦略が、従来のローマの多神教の脆弱さを衝いて、それに替わることで、高い伸び率を保ち続けたことが、その理由で、けっして、奇蹟や殉教に彩られた宗教史の常識は当てはまらない。むしろ、本書の説明の方が、現代の私には常識的で説得力がある。これと同じことは、日本の敗戦後から高度経済成長の時期に、ムラが解体し、都会に放り出された若い個人を回収するように創価学会や共産党がメンバーを増やしたことにも言えると思う。

2024年8月11日 (日)

三谷博「民主化の道はどう開かれたか─近代日本の場合」(8)~7.立憲君主制はどのように始まったのだろうか:1877~1906年

 明治維新では、動乱が始まったとき公論と暴力が同時に誕生し、それらが政治に大きな変化をもたらした。しかし、秩序を再建し、人々がそれぞれの生活に心置きなく送れるようにするには、暴力を排除しなければならない。日本の場合、それは西南戦争とその武力鎮圧によって達成されたと言える。そに敏感に反応したのが土佐で、板垣退助は新政府に対して武力ではなく言論の戦いを挑んだ。それが自由民権運動となっていく。西南戦争の後大規模な武力反乱は起こらなくなる。これに対して、世界の歴史を見ると、暴力と公論はなかなか手を切ることが困難なのだ。この理由としては、当時の政府と民間の両方に、立憲政治の導入への期待があったと思われる。
 西南戦争後の日本には新政府以外の軍隊はなくなった。これき20世紀の中国とはかなり違う。1911年の辛亥革命後、中国では日本と同じように各地の有力者が新聞を通じて情報を共有し、国会にも進出した。しかし、当時の中国では国会は政策の決定に大きな役割を担えず、各地に生まれた軍事組織が互いに内戦を繰り返した。このような中国の歴史と比べると近代の日本では西南戦争により政府のほかに軍事組織がなくなったのが分かれ目となり、民間の政治運動は、もっぱら言論で行われた。このため、政府は軍事的脅威を心配する必要がなく、したがって民間の運動に寛容に対処することができた。明治の日本はこのような時要件を備えていたため、政治組織の中心に言論と議会を組みこむことが可能となった。

三谷博「民主化の道はどう開かれたか─近代日本の場合」(7)~6.新政府の連発した改革はどんな緊張を生んだのか:1869~77年

 1869年、新政府は版籍奉還を行う。今大名が領内統治の根拠にしている統治許可書は徳川将軍からもらったもので、王政復古の後では不当なものとなった、朝廷に返上すべきというものだった。ただし、返上した後に天皇から再度統治許可書が与えられることはなく、彼らは元の藩を一代限りに治める知藩事という役人に任命された。そこで、各地方の統治にあたる「藩政」と大名の家族の生計を担う「家政」とが分離された。大名は藩の収入の1割を与えられて生活することとなる一方で、家臣たちは大名との君臣関係を解かれたうえで、士族として「藩政」を担うこととなった。「藩制」により、それまでまちまちな形で行われていた地方の統治は全国画一の同じ方式で行われることになる。これで新政府による地方統治の能力は格段に向上した。その翌年に廃藩置県が行われる。
 廃藩置県による中央集権化で問題となったのは、戊辰戦争後の軍隊の待遇だった。各藩の軍隊は故郷に帰り、多くは解散させられた。軍隊の維持は不要になったからだ。ところが、官軍の主力として活躍した藩の軍隊は、新政府から正当な待遇を受けて当然だと考えていた。しかし、財政に苦しんでいた新政府はその望みに応えることはできなかった。そのため、残った官軍は活躍の場として天下再乱を期待し始めたのだった。西郷はそこで、彼らを東京に集め「親兵」とすることで、生活の基盤と名誉を与え、天下再乱の芽を摘もうとしたのだった。政府はこれではじめて直属軍を持つことになった。しかし、この「親兵」には予算がなかった。当面は宮中の費用でやり繰りしたが、長続きできない。政府は廃藩により各藩の収入を新政府で得ることで賄った。
 廃藩置県は中央集権化を進めただけでなく、身分制の解体も促した。この時、武士たちは全員が解職され、江戸時代の統治を担っていた身分がなくなった。これは世界の革命の中で行われた最も厳しく全面的な権利の剥奪の一つだった。大多数の武士がこれをおとなくし受け入れたのは驚くべきことだ。身分制の解体は武士だけにとどまらず非差別身分もまた廃止され平民に統合された。これは、明治政府が、日本の住民のすべてに公平に課税する方針を採り、それまで税を支払っていなかった武士、公家、寺社や被差別民からも税を取ろうとした結果、起こったことだった。このような身分の解体は人間は平等だという高尚な理念から行われたのではないということだ。

2024年8月10日 (土)

三谷博「民主化の道はどう開かれたか─近代日本の場合」(6)~5.「王政・公議」体制への転換はどう実現したのだろうか:1867~68年

 1866年、幕府との連携を主張する孝明天皇が亡くなる。そこで、将軍慶喜は改革を進めるため、有力大名の協力を必要として、越前、薩摩、土佐、宇和島を呼び出し四侯会議の同意をもって朝議にかけようとする。しかし、慶喜は兵庫開港を認めされることに成功した後、大名側の望みは無視した。そこで、薩摩は「公論」のみによる運動をあきらめ、軍事力の動員を決意する。軍事的な脅しを徳川に突きつけない限り、公議政体の樹立は無理と判断したのだった。
 1867年、将軍慶喜は大政奉還を行い、王政復古の第一段階は、公論を交わす中、平和の裡に実現したが、その後の徳川がどんな地位を占めるかが問題だった。慶喜は、王政復古後の新しい朝廷で徳川がトップにつき、政治改革を進めようとした。他方、薩摩は慶喜が引き続きトップにつけば大名側の意見を聞くことは期待できないから、徳川は排除すべきと考えていた。そこで王政復古のクーデターが起こる。このクーデターで注目すべきは参加した5家のうち徳川排除を狙っていたのは薩摩だけだったということ、また、クーデターにあたって薩摩と徳川の双方が戦争の回避に努力したこと。その結果、クーデター後の新政府がどうなるかは、薩摩と親徳川大名の交渉に任されることとなった。クーデター直後の布告では「言路洞開」と「人材登用」が叫ばれ、それを復古で正当化した。当時の日本には「進歩」という発想がなかったので、目前の「旧弊」を否定するために、「過去の理想」を持ち出した。「復古」への訴えはしかし、思わぬ効果を持つこととなる。これがもし、徳川時代の否定にとどまり、復古を目指した田なら。新政府の改革にはいろいろな制約が課されたはずだ。しかし、それよりもはるから昔の神武天皇の時代にどんな制度があったか、誰も知らない。そこで、王政復古の政府は創業にあたってどんな制度を参照してもよいことになった。その結果、新政府は天皇中心の秩序を築くにあたり、制度も思想も同時代の西洋から徹底的に輸入する道を採ることになる。
 その動きの中で、桑名と会津が独走して、鳥羽伏見の戦いが起こってしまう。公論の成果は吹き飛んで、軍隊同士の戦争が始まってしまう。そこで、徳川が政権に復帰する可能性は絶たれてしまい、薩長が政府をリードする傾向が固まった。そのプロセスで、親徳川だった土佐・越前・尾張が薩長についてしまう。さらに興味深いことには、日本の西部と中部の大名たちは、すぐに新政府を支持する。肝心の徳川も江戸城を明け渡してしまう。つまり、全国が薩長対徳川の全面戦争になりかねない状態になったとき、大名のほとんどは鳥羽伏見の戦いに勝った方に付和雷同を決め込んだ。この危機に割り込み、自らも権力争いに加わるという選択肢もあったはずなのに、大多数は戦争を回避し、勝った方の味方になって身の安全を図ったのだった。このおかげで、犠牲者は少数に留まった。
 戊辰戦争は例外的に大規模な戦闘がおこり、犠牲者の数は多かったが、アメリカの南北戦争やドイツの統一戦争に比べれば、格段に少ない。戦後には負けた側の処罰が行われたが、比較的寛容だった。勝者が報復に走ったり、相手側を虐殺したりすることはなかった。しかし、この影響は、別の面で大きかった。それは、大名の中で上級武士の立場が弱まり、中下級武士の地位が高まったことだ。この戦いででは双方に銃隊による戦いが求められた。以前は上級武士が馬に乗り家臣を引き連れて戦場に出たのだが、この戦いでは銃を持った軍隊が主力となったので、上級家臣は出る幕がなくなり、逆に実戦で功績をあげた中下級家臣たちが戦後に大いばりすることになった。
 他方、大名の家はほとんどが戦争に動員され、その結果、経済的に苦しむことになった。以前から借金を抱えていたのが、戦争によって家計はますます苦しくなった。そのため、みずから領地返上を申し出る藩すら出てくる状態だった。2年後に廃藩を命じられたとき抵抗した大名は皆無だった。借金を新政府に肩代わりしてもらい、ほっとした大名も少なくなかった。

2024年8月 8日 (木)

三谷博「民主化の道はどう開かれたか─近代日本の場合」(5)~4.「公議」政体への転換はどう始まったのだろうか:1862~66年

 桜田門外の変の後、全国各地から政治運動に飛び込む人々が現われる。彼らの多くは尊王攘夷を主張し、京都にあつまり、「公議」「公論」を武器に政界進出を図った。将軍家茂が条約勅許を求めて京都に入った時、逆に朝廷から攘夷を迫られて、のまざるをえなくなる。今までは、こうした場合、政府が過激派のリーダーを捕らえ投獄することで黙らせたのだが、安政の政変と大獄への非難が高く、弾圧を行うと天皇との仲が険悪になるのを恐れて、できなかった。そこで、幕府は西洋との戦争という厳しい道に、「公論」とテロの力だけで追い詰められていったのだった。
それに対して、1863年の会津・薩摩藩による8月18日のクーデターで尊攘派を朝廷から追放することら成功する。このとき、天皇からの招きに応じて薩摩の島津久光が上京する。他にも有力大名が上京し、これを機に幕府を「公議」政体に変えようと企てる彼らの段取りは、朝議に彼らが加わり、そこで決めたことを将軍に認めてもらう。次いで、幕府の会議にも彼らの参加を認めてもらい、以後の統治に当たるというものだった。しかし、幕府の老中たちが自分たちを幕府から排除することになる大名の参加に強く反対したため、最初の「公議」政体の試みは失敗した。
幕府と会津は、他の大名の嫉妬も誘って薩摩・越前などの特権を否定し、朝議への参加を辞退させて、国元へ追い返した。その一方で公武合体の体制を創った。しかし、これは同時に徳川が覇権を失う出発点にもなった。薩摩と越前は幕府が西洋との条約を維持し、かつ朝廷と和解できるように力を貸したが、何の見返りも与えられ巣放り出されたのだった。幕府にはすでに手強い敵がいたが、さらに他の有力大名も敵に回してしまった。徳川は政権の独占に成功したが、長期的には持ち答えることができなかった。目先の利に固執して、大損をしてしまった。
 長州征伐に際しては薩摩も越前も参加を断り、これを見た他の大名も参戦に消極的になり、幕府の出兵要請に応じたのは譜代だけとなり、長州に攻め込んだものの撃退されてしまう。徳川の敗北は誰の目にも明らかで、徳川の軍事的威力を怖れる者はいなくなり、大名は遠慮なく自己主張できるようになった。

2024年8月 7日 (水)

三谷博「民主化の道はどう開かれたか─近代日本の場合」(4)~3.徳川の体制はなぜ大崩壊を始めたのだろうか:安政5年の政変(1858年)

 越前藩の松平慶永や薩摩藩の島津斉彬といった有力大名が運動を始め、そのひとつが次代将軍に一橋慶喜を擁立したことで、京都の公家に協力を求めたのだった。それを彦根藩の長野義言という人物が、朝廷宛の文書を発見したが、それは徳川斉昭が書いたものと誤解してしまう。長野は水戸が裏切ったと断じて、それを井伊直弼に報告する。その報告は幕府内に「水戸斉昭の陰謀」として広まり、対抗策として直弼が大老に就任し、徳川慶福が後継に立てる。このように将軍の後継をめぐり二つの派閥が生まれた。問題は紀伊派が水戸の陰謀を信じ込み、相手との妥協の余地がない分断が生じたこと。この分断は、ついには幕府の崩壊を導くことになる。
 一方、条約問題について、朝廷から勅許がほしければ、大名の意見を聞き、その結果をもって出直せと命じられていた。しかし、分断とアメリカからの催促に負けて独断で条約を締結してしまう。これは朝廷との約束に反することで、天皇は激怒し朝廷は幕府への非難であふれることとなる。幕府内では、安政の大獄という、暴力による反対派の弾圧が始まる。幕末に最初に登場した暴力は、政権による反対派大名に対する一斉処罰として始まった。世界の他の革命でも、その発端は、政権の外にいる人々が政府の失策に抗議し(公論)、それを政府が弾圧する(暴力)ことが多く、幕末の日本もそれに近いかたちで体制の崩壊が始まった。
 1860年、水戸派の武士たちによる桜田門外の変が起こる。政権側の暴力行使、こうして政府外からのテロという反撃にあうことになった。これもまた、世界の革命で見られることである。しかし、テロが世の中の動きを変えることにはならない。
 しかし、桜田門外の変は大きな変化をもたらした。それは、日本全体の問題に関し、誰でも発言できるようになったことだ。公論が可能になった。大老の暗殺は今まで恐れていた徳川の権威がたいしたものではないとの印象を拡散させ、「日本のため」という名目を立てれば誰でも発言できる、幕府をいくら批判してもかまわないという認識が広がった。そこで特に盛り上がったのが尊王攘夷を主張する人々だった。
さらに大名の一部も全国政治に介入を始める。
 桜田門外の変という暴力は「公論」禁止のタブーを吹き飛ばした。日本での政治参加運動はここから始まった。

三谷博「民主化の道はどう開かれたか─近代日本の場合」(3)~2.「公議」「公論」と暴力はどのように出現したのだろうか:1858~60年

 将軍や老中の専断が当然だった幕府は、鎖国を解くという大きな変革を強いられたとき、大名がパラパラに行動すると、その隙を西洋列強につかれて征服されてしまうという危機感から、国内に協力を求めるという転換が起こった。そこで、それまでは黙って従うように命じていた人々に大事な情報を知らせ始めた。知らないと協力できない
 1850年1月、将軍家は大名たちに対して、西洋から日本を守るための協力を求めた。日本の住民すべてに対して協力を求めた。そして、1853年のペリー来航の対抗するため、広く意見を求めた。
 これがきっかけとなり、大名や武士が尋ねられもしないのに自分の意見を公にするようになる。その中には政府への批判や不満も混じってきた。そうなると、政府の権威は絶対ではなくなる。専制をしてきた政府が被支配者たちに意見を聞くのは危険なことで、幕府はペリー来航にさいして、その危険な扉を開けてしまった。

2024年8月 5日 (月)

三谷博「民主化の道はどう開かれたか─近代日本の場合」(2)~1.江戸自体の日本ではどのように政治が行われていたのだろうか

 幕末以前の日本では政府の外にいる人が政治を語ることは禁じられていた。支配者として政治を独占していた武士たちは政策の内容を人々に説明せず、人々が政府に依存し、その命令に素直に従うように仕向けていた。つまり、支配者以外は、世の中に何が起きているか、全体の姿が見えず、社会は身分によって上下の関係が決まっていて、下々の人々は「お上」の権威に無条件に従っていた。
 では、支配者である幕府や大名は政策をどのように決めていたのか。江戸時代は身分による上下関係が強固だったが、将軍や大名といった君主が勝手に命令していたのかというとそうではない。ヨーロッパのように君主が政治的な決定の主役だったのではなく、彼らは決定の責任者だったが、決定自体は幕府なら老中、藩なら家老たちの会議の結 論をそのまま採用するのが普通だった。その重役たちは、末端から上がってくる政策提案を見て決めていた。つまり、徳川将軍家や大名の政府での決定は、たいていは一番下にいて世に直接接している役人が問題を見つけ、解決法を考えて、それを上司に上げるのが第一段階、次に重役たちが会議を開いてその提案の良い点と欠点を検討し、ほぼ結論を決めるのが第二段階、そして君主が重役会議の結論を採用し、それに君主の権威を与えて、領地の全体に命令するのが第三段階となっていた。つまり、江戸時代の政府での決定は、権威の順序と反対に、下から上に向かって進んでいったものだった。いわゆるボトムアップだった。このため、武士の場合は、身分が低くても重要な仕事を担当することができた。上級のものも下からの提案に耳を傾けることに慣れていた。これは、安定した時代では有効に機能した。
 しかし、幕末に黒船が来航し開国を強制され、政府の能力を飛躍的に強化する必要が出てくると、この仕組みは維持できなくなる。下にいて世の中の容姿をよく知っている人々の中から、有能で活発な人々を上の地位に引きあげ決定を担わせる必要が出たからで、明治維新は、この必要に迫られて起こったともいえる。
 また、国全体として単一の政府だったわけではない。京都に天皇、江戸に将軍という二人の君主が居て、それぞれの政府を持っていた。その下には大名が居て、藩という小さな国を治めていた。いわば連邦だった。明治維新は双頭・連邦という複雑な仕組みを持った国を、王政復古と廃藩置県により単頭・単一の国家に変えたのだった。

2024年8月 4日 (日)

三谷博「民主化の道はどう開かれたか─近代日本の場合」

11113_20240804233101  高校生に向かって碩学が民主化という視点から日本の近代史をわかりやすく語った本で、全体の短さと、平易な言葉で語られているが、その内容は、かなり攻めていて、歴史小説などで語られている常識を覆すところがけっこうあって、歴史好きには刺激的なほど面白い。
 幕末から明治にかけて近代史を「公議」「公論」をキーワードに見ていく。まず、近世の社会には「公議」「公論」は存在しなかったという。強固な身分制で支配者以外は、世の中に何が起きているか、全体の姿が見えず、見ることができなかった。支配者以外の者が意見を言うことは禁止されていた。しかし、支配者である幕府や藩では現場の役人からボトムアップで提案をトップが承認するシステムがとられていた。このため、武士の場合は、身分が低くても重要な仕事を担当することができた。上級のものも下からの提案に耳を傾けることに慣れていた。これは、安定した時代では有効に機能した。これは、泰平の安定した社会では効率的に作用した。
 しかし、黒船来航により社会が大きく動き出すと機能不全に陥る。幕府は西洋からの開国要求への対処について、広く意見を求めたことが、閉ざされていた「公論」の扉を開くことになった。なお、意見を求めるためには情報を提供しなければならない。これがきっかけとなり、大名や武士が尋ねられもしないのに自分の意見を公にするようになる。その中には政府への批判や不満も混じるようになってゆく。それが、大名など上級武士に「公議」の動き生んでいく。つまり、閉ざされていた扉がいったん開いてしまうと、蟻の穴から堤防が崩れてしまうように、その流れは奔流のようになり、幕府の制御の利かないものとなっていく。幕府の官僚たちは、それを抑えて、従来の体制維持に固まっていく。それが分断を呼び、分断が双方の姿勢を極端にし、硬直化させた結果が幕府政権の転覆に至った。
 明治の新政府は「王政復古」をスローガンとしたが、それは幕府以前の鎌倉時代や平安時代に戻るというのではなく、神武創世に戻ってリセットするというものだった。ところが、神武創世の世なんて誰も知らない。それは、つまり誰も知らないこと、すなわた、新しいことを始めるということを意味していた。これにより、近代化政策、言い換えると、欧化政策が正当化されることになる。明治維新は「復古」だから革命ではないという歴史家がいるが、例えば、フランス革命などに比べても、身分制の撤廃の徹底度は明治維新のほうがはるかに勝る。ただし、平等な社会は民主化の思想や西欧の真似で実行したものではなかった。もっと、現実的な必要性からだった。すなわち、租税の徴求と国民皆兵である。江戸時代は武士と非人には税は課せられなかった。財政に苦しんだ新政府は全国からの税による収入の確保が喫緊の課題だった。廃藩置県の主な目的も、そこにあった。
 このようなことから、明治維新という革命は、西洋の近代市民の思想とは、全く異なったリアリズムな出発点から、西洋より徹底した平等を土台にした「公議」「公論」という、形式的な形態は似たものとなったが、現実主義的な権力コントロールのシステムを残したものだったという。
 たしかに、西洋的な近代主義では革命のお手本とされているフランス革命もロシア革命も、実質をみれば内戦であり、以前の政権を暴力で引きずり落とし、あらたな絶対的権力(ナポレオンという皇帝や共産党という独裁集団)が政権についただけのもので、いずれも数十年後には悲惨な失敗となって終わったものだ。そんなものと明治維新をいっしょにしたら、却っておかしいと思う。

 

2024年8月 2日 (金)

マルクス・ガブリエル「なぜ世界は存在しないのか」(5)~Ⅲなぜ世界は存在しないのか

 これまでのことをまとめると、存在するとは、何らかの意味の場に現象することである。何らかの意味の場に現象することがあり得るためには、その何かが何らかの意味の場に属していなければならない。例えば、水はガラス壜の中にあるし、何らかの着想は私の世界観に属している。このように何かが何らかの意味の場に属していて、その属し方が、そのものの現象する仕方というわけだ。このことが正しいとすると、世界が存在するかどうかを問うことができる。世界とは、すべての意味の場の意味の場、つまりいっさいの意味の場がそのなかに現象してくる意味の場であり、一切の領域を包摂する領域である。そうすると、存在するいっさいのものは、世界のなかに存在していることになる。一方存在するとは何かが意味の場に現象することだから、世界が存在するとしたら、世界はどのような意味の場に現象するのか、という問いが生じる。そうすると゛絵画現象する意味の場は世界という意味の場のなかにあるという堂々巡りに陥ってしまう。したがって、世界は世界のなかに現われてはこない。
 以降は、これに対する反論への論駁が続く。世界は存在しないという否定的な主張に対して、肯定的存在論がある。たったひとつの対象だけが存在すると考えると、およそ何の対象も存在しないことになる。そうなると、結局は何の対象も存在しないことになってしまう。何かが存在するには、それがそこに現象する意味の場が存在していなければならない。つまり、少なくとも一つの対象とひとつの意味の場が存在することになる、ただし、さらなる意味の場がもう一つ存在することが必要。そこで、少なくとも一つの対象と二つの意味の場存在することになる。この三つのどれもが、私たちの思考という意味の場に存在している。もう一つの反論として「どの意味の場もひとつの対象である」という主張。ここから導き出されるのは、どの意味の場にとっても、それが減少している別の意味の場が存在するということだ。私たちは、今、世界について考えていた。そうであれば、世界は存在しているはず。すなわち、私たちの思考内容として存在している。この思考内容が私たちの思考の中に存在している以上、何らかの意味の場、ここでは私たちの思考内容が存在していて、そこに世界が現象している。そうなると、私たちの思考と、その思考内容としての世界からなる世界が、別に存在していることになる。
 以上のような反論がなくても、本書のように世界は存在しないという否定的な存在言明は哲学者にはなじみが薄い。それは、何かについて言明する場合、その何かが存在することが前提になっていると思われているから。存在しないものについては何も言明できないとも言われる。これについて、何かが存在することを否定するとは、その何かが何らかの特定の意味の場に現象するのを否定するということだ。およそ存在言明は、肯定的であれ否定的であれ、つねに何らかの意味の場にだけ関わっているのであって、けっしていっさいの意味の場に関わっているわけではない。つまり、いっさいを包摂する意味の場など存在しないからこそ、存在するということは、つねに相対的なこと、つまり、何らかの意味の場に関わってこそ言えることなのだ。
 世界全体とは何かと問うことは正当なことだが、その問いに答えるには十分に慎重でなければならない。私たちの生きている世界は、意味の場から意味の場への絶え間ない移行、それもほかに替えのきかない一回的な移行の動き、様々な意味の場の融合や入れ子の動きとして理解することができる。それをあっさり跳び越えて、途方もなく巨大な世界が全体として存在するというのはない。この後は、各論というべき従来の代表的な世界の見方について、この点を検証していく。それは、各論のはずが、自然科学、宗教、芸術

2024年8月 1日 (木)

マルクス・ガブリエル「なぜ世界は存在しないのか」(4)~Ⅱ存在するとはどのようなことか

 ここでは意味の場について考え、意味の場こそが存在論的な基本単位であり、何かが現われてくる場が意味の場である。この意味の場に何かが現われているという状態が存在するということである。存在するとは、たんに一般的な世界に現われているということではなく、世界をなす様々な領域のひとつに現われているということだ。
 本書では存在論と形而上学とを区別する。形而上学は世界とは何なのかという問いに対して体系的に答えようとするものだから、世界の存在を前提としている。その存在するとはどういうことかを問いに対して体系的に答えようするのが存在論。ということは、形而上学は存在論を前提としている。
 ここでは単純な観察から始める。私たちが問題にする対象にはそれぞれ特有の特質がある。そのような性質が、その対象の物理的、感情的、論理的な状態を特徴づけ、それによって他の対象から区別している。これを逆転させると、対象や対象領域を区別するのは、それぞれに備わった性質だということになる。つまり、世界の中にある対象を他の対象から区別しているのは、それぞれの対象に備わった性質である。この点に関して、著者は大きな二つの問いを発する。すなわち、存在する一切の性質を備えた対象は存在し得るか、そして、どの対象も他の対象から区別されるか、である。これに対する回答が本章の主な内容となる。簡単に回答だけ述べておくと、ふたつとも答えは「否」である。そこから世界は存在しないという結論が導かれるという。世界とは一切の性質を備えた対象であり、世界の中ではどの対象も他の対象から区別されるからだ、という。
 第一の存在する一切の性質を備えた対象は存在し得るという問いについて考える。対象は真か偽かで考えることができるものである
人間の認識というスポットライトのなかに現われてくるものは、全体から見れば僅かなしかない。ハイデガーによれば、人は見通しのきかない暗い森の中に拓かれたささやかな明るみにいると譬えている。この森の拓かれた明るみ以外のどこかに現われるものがあるとしても知りようがない。つまり、人はすべてを認識できるものではない。そして、人が何らかの対象について何ごとかを認識しているとすれば、その対象の何らかの性質を認識しているというわけだ。このように認識された性質によって、その対象は他の対象との違いがあり、際立たせることになる。私たちが対象の一切の性質を認識しているとすれば、その対象の全体を認識していることになる。このとき、その対象は、その性質とは別のものではない。しかしそうだとしても、その何かであるということ自体が一つの性質でもある。ところで、あり得る性質すべてを備えた対象を超対象と呼ぶ。そのような対象は存在することができない。言い換えれば、ほかの対象から際立たせることができない。もし、そういう対象があるとすれば、他のすべての対象をうちに含み包摂していることになる。本章では論証を繰り返しているが、超対象が存在するというのは論理的にも矛盾する。
 次いで第二の問い、どの対象も他の対象から区別されるかについて考える。一見、どの対象もそれ自身と同一であり、他の対象から区別されるように思える。しかし、それは間違いだという。例えば、未知の対象について、他の対象との違いをいくら拾い上げても、その対象の本質には至らないからだという。このように、他のすべての対象と区別することを絶対的区別といい、この区別には情報的価値がない。対象の本質、つまりその対象が何かということが、それでは分からないからだ。対象を区別するためには基準が必要で、当の対象について知識や情報を持っていなければ区別することができない。そうしてする区別を相対的区別と呼ぶ。相対的区別は対照関係によって得ることができる。区別として存在するのは、このような相対的区別で絶対的区別は存在しない。それは、ありえないし、情報的価値がないからだ。
 以上を踏まえて、存在するということについて、唯一の世界なるものなどなく、無限に数多くの様々な世界が存在する。それらの様々な世界は、部分的には互いに独立しているし、重なり合うところもある。世界とは、領域の領域であることは前章で述べたが、存在するとは世界の中に現われていることだ。そうすると、何ものであれ世界なるもののなかに現われるためには、何かの領域の中に現われていなければならないことになる。
 さらに、本書では、この世界というものを意味の場とも言い換える。意味とは対象が減少する仕方のことである。現象とは現われること、出来事を言う。したがって、意味の場とは、何らかのもの、つまり様々な特定の対象が、何らかの特定の仕方で現象してくる領域。そして、意味の場の外には対象も事実も存在しない。存在するのは、すべて何らかの意味の場のなかに減少する。つまり、存在するとは意味の場に現象するということになる。その際、誰かがそれに気づいていたかは関係はない。物や対象は、私たちに対して現象するからこそ現象しているわけではなく、私たちに気付かれているから存在しているわけではない。

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