10年以上前に読んだ本の再読。
物語は1210年のローマ教皇イノセント3世と「小さき花」アッシジの聖フランシスとの会見からはじまる。この出会いによってローマ教会は過去何世紀にわたって負い続けた負い目を返すことができた。それはどういうことかを理解するためには、11世紀のローマ教会におけるグレゴリウス改革に、そしてこの改革の理解のために古代末期・中世初期まで遡らなくてはならない。
グレゴリウス改革とは中世のローマ教会を、ということはヨーロッパの文化的基盤を形づくったものなのだ。そこでの主要な問題が正統と異端の争いだと言える。正統と異端の争いは、教義上の問題である前に宗教と政治との不可避的な相反と結合の関係から生まれたものだった。それが中世の政治の場に現れたのが教皇と皇帝という宗教と世俗の権力の相克であった。そのため、正統と異端の抗争は他に類を見ない深刻なものとなり、後の宗教戦争に至る、ヨーロッパ人の精神形成に大きな底流として働き続けることになったのである。
正統と異端の対立は客観主義と主観主義と言い換えられるという。わたし的に分かりやすく言えば、客観主義というのはシステム、具体的にはカトリック教会というシステムを重視するということ。これに対して、異端の主観主義は、例えばマルティン・ルターはカトリック教会の聖職者の腐敗を糾弾し、堕落した司祭の説教なんか聞く価値もないし、そんな奴から洗礼を受けたって、神が認めてくれるはずがないと主張した。これは、現代でも政治の世界で、不適切な発言をしたり、裏金の疑惑のある大臣を、野党が糾弾するのと同じようなものだ。しかし、この場合、政府とか役所のシステムが正常に動いているかぎり、そんな大臣でも政策が無効になることはない。組織のシステムが適正で、バカな大臣がいてもガバナンスが機能して、ちゃんと動いているのだ。正統キリスト教でも、教会というシステムが正常に動き、徳の欠けた聖職者であっても、システムの適正な手続きにより行われた行為は有効だという。このように考えると、会社という組織のなかで、そのシステムによって仕事をしてきた私には、正統の立場は、よく分かる。そして、そういう組織に埋もれてしまうと人間性が疎外されてしまうというような立場が、ルターのような立場ということになる。
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