マルクス・ガブリエル「なぜ世界は存在しないのか」(5)~Ⅲなぜ世界は存在しないのか
これまでのことをまとめると、存在するとは、何らかの意味の場に現象することである。何らかの意味の場に現象することがあり得るためには、その何かが何らかの意味の場に属していなければならない。例えば、水はガラス壜の中にあるし、何らかの着想は私の世界観に属している。このように何かが何らかの意味の場に属していて、その属し方が、そのものの現象する仕方というわけだ。このことが正しいとすると、世界が存在するかどうかを問うことができる。世界とは、すべての意味の場の意味の場、つまりいっさいの意味の場がそのなかに現象してくる意味の場であり、一切の領域を包摂する領域である。そうすると、存在するいっさいのものは、世界のなかに存在していることになる。一方存在するとは何かが意味の場に現象することだから、世界が存在するとしたら、世界はどのような意味の場に現象するのか、という問いが生じる。そうすると゛絵画現象する意味の場は世界という意味の場のなかにあるという堂々巡りに陥ってしまう。したがって、世界は世界のなかに現われてはこない。
以降は、これに対する反論への論駁が続く。世界は存在しないという否定的な主張に対して、肯定的存在論がある。たったひとつの対象だけが存在すると考えると、およそ何の対象も存在しないことになる。そうなると、結局は何の対象も存在しないことになってしまう。何かが存在するには、それがそこに現象する意味の場が存在していなければならない。つまり、少なくとも一つの対象とひとつの意味の場が存在することになる、ただし、さらなる意味の場がもう一つ存在することが必要。そこで、少なくとも一つの対象と二つの意味の場存在することになる。この三つのどれもが、私たちの思考という意味の場に存在している。もう一つの反論として「どの意味の場もひとつの対象である」という主張。ここから導き出されるのは、どの意味の場にとっても、それが減少している別の意味の場が存在するということだ。私たちは、今、世界について考えていた。そうであれば、世界は存在しているはず。すなわち、私たちの思考内容として存在している。この思考内容が私たちの思考の中に存在している以上、何らかの意味の場、ここでは私たちの思考内容が存在していて、そこに世界が現象している。そうなると、私たちの思考と、その思考内容としての世界からなる世界が、別に存在していることになる。
以上のような反論がなくても、本書のように世界は存在しないという否定的な存在言明は哲学者にはなじみが薄い。それは、何かについて言明する場合、その何かが存在することが前提になっていると思われているから。存在しないものについては何も言明できないとも言われる。これについて、何かが存在することを否定するとは、その何かが何らかの特定の意味の場に現象するのを否定するということだ。およそ存在言明は、肯定的であれ否定的であれ、つねに何らかの意味の場にだけ関わっているのであって、けっしていっさいの意味の場に関わっているわけではない。つまり、いっさいを包摂する意味の場など存在しないからこそ、存在するということは、つねに相対的なこと、つまり、何らかの意味の場に関わってこそ言えることなのだ。
世界全体とは何かと問うことは正当なことだが、その問いに答えるには十分に慎重でなければならない。私たちの生きている世界は、意味の場から意味の場への絶え間ない移行、それもほかに替えのきかない一回的な移行の動き、様々な意味の場の融合や入れ子の動きとして理解することができる。それをあっさり跳び越えて、途方もなく巨大な世界が全体として存在するというのはない。この後は、各論というべき従来の代表的な世界の見方について、この点を検証していく。それは、各論のはずが、自然科学、宗教、芸術
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