堀米庸三「正統と異端─ヨーロッパ精神の底流」(4)~第3章 キリスト教的正統論争の争点─秘蹟論
カトリック教会の本質は、その客観的制度としての性格にある。つまり、客観的に存在する歴史上の教会が、その聖職者の位階的秩序ともども、神の人類救済のための恩寵の施設ということである。教会が摂理にもとづく恩寵の施設であるということは、教会がキリストの受肉の帰結であり、永遠に存在する切れストの体躯そのものであることを意味する。
この恩寵の客観的組織であるカトリック教会に対して、異端の教会は自覚した成員の自由意志による共同体であることを特徴とし、その成員を離れては客観的な価値を持たない。恩寵は、この共同体のなかに実現され、確保されるが、それは成員の自覚的努力を前提とし、その成員に属するもので、共同体に属するものではない。この恩寵への参与という点で、異端と正統のあいだに決定的な差がある。異端は恩寵への参与をただ成員の自覚的努力に依存させる。これに対して、正統の場合は、完全に合理化され制度化される。教会は神の人類救済の施設であり、そのままに恩寵の宝庫なのだから、教会の営みに参加することは恩寵への参与を意味する。
この異端と正統の対立が、具体的に現実に現われたのが秘蹟、とくに洗礼と叙品の秘蹟であ。まず、洗礼については、異端の場合は、各成員の自覚的改宗を条件とし、それは異端の共同体つまり教会への加入を意味した。それゆえ幼児洗礼を認めなかった。これに対して、正統のカトリック教会の場合、成長後の改宗を除き、洗礼は原則として幼児に与えられる。カトリック教会では、人は教会のなかに生まれるのである。
もう一つの叙品は、洗礼が教会に属しキリストの恩寵にあずかるための資格を付与する入口であるとれば、その資格を付与することのできる資格を付与する、具体的には教会の司祭等の役職に任命する、いわば人事権である。カトリック教会の正統と異端との差が歴然と現れるのは、この叙品における秘蹟論である。カトリック教会の秘蹟論の特徴は徹底した職務的性格にある。正統の客観主義はここに最も明瞭に現われる。すなわち、カトリックの理論では、恩寵伝達の行為である秘蹟は、それが秘蹟創設の趣旨に従って、具体的には、司祭や助祭が教会の定める言葉を用い、その手続きを踏むことで、受領者がカトリック信仰において受領するかぎり、秘蹟の執行者の人格とは全く独立に、その効果を表わすというものである。このことは、異端から見ると、堕落した司祭から秘蹟を受けたくないし、そんな者から受けた秘蹟など無効ではないかという、客観主義批判の嚆矢となったのである。
異端からの批判は、カトリック教会という組織から見た場合、高位の司祭なり法王が罪を犯し瀆聖聖職者とされた場合、異端の主張を容れれば、彼らの任命した数多くの叙品、つまり人事発令がすべて無効になり、組織としての教会が立ち行かなくなる。しかも、中世では高位聖職者は、貴族身分と密接に結び合っていた聖職売買によるものが多かった。現実にそういう貴族との関係を断ち切れないことから教会内での政治闘争が常態化し、異端の主張を容れれば、それは政治闘争の有効な手段、つまり反対派の粛清の手段となる。このような現実的な理由もあった。
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