無料ブログはココログ

« 三谷博「民主化の道はどう開かれたか─近代日本の場合」(7)~6.新政府の連発した改革はどんな緊張を生んだのか:1869~77年 | トップページ | ロドニー・スターク「キリスト教とローマ帝国─小さなメシア運動が帝国に広がった理由」 »

2024年8月11日 (日)

三谷博「民主化の道はどう開かれたか─近代日本の場合」(8)~7.立憲君主制はどのように始まったのだろうか:1877~1906年

 明治維新では、動乱が始まったとき公論と暴力が同時に誕生し、それらが政治に大きな変化をもたらした。しかし、秩序を再建し、人々がそれぞれの生活に心置きなく送れるようにするには、暴力を排除しなければならない。日本の場合、それは西南戦争とその武力鎮圧によって達成されたと言える。そに敏感に反応したのが土佐で、板垣退助は新政府に対して武力ではなく言論の戦いを挑んだ。それが自由民権運動となっていく。西南戦争の後大規模な武力反乱は起こらなくなる。これに対して、世界の歴史を見ると、暴力と公論はなかなか手を切ることが困難なのだ。この理由としては、当時の政府と民間の両方に、立憲政治の導入への期待があったと思われる。
 西南戦争後の日本には新政府以外の軍隊はなくなった。これき20世紀の中国とはかなり違う。1911年の辛亥革命後、中国では日本と同じように各地の有力者が新聞を通じて情報を共有し、国会にも進出した。しかし、当時の中国では国会は政策の決定に大きな役割を担えず、各地に生まれた軍事組織が互いに内戦を繰り返した。このような中国の歴史と比べると近代の日本では西南戦争により政府のほかに軍事組織がなくなったのが分かれ目となり、民間の政治運動は、もっぱら言論で行われた。このため、政府は軍事的脅威を心配する必要がなく、したがって民間の運動に寛容に対処することができた。明治の日本はこのような時要件を備えていたため、政治組織の中心に言論と議会を組みこむことが可能となった。

« 三谷博「民主化の道はどう開かれたか─近代日本の場合」(7)~6.新政府の連発した改革はどんな緊張を生んだのか:1869~77年 | トップページ | ロドニー・スターク「キリスト教とローマ帝国─小さなメシア運動が帝国に広がった理由」 »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 三谷博「民主化の道はどう開かれたか─近代日本の場合」(7)~6.新政府の連発した改革はどんな緊張を生んだのか:1869~77年 | トップページ | ロドニー・スターク「キリスト教とローマ帝国─小さなメシア運動が帝国に広がった理由」 »