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2024年8月 7日 (水)

三谷博「民主化の道はどう開かれたか─近代日本の場合」(4)~3.徳川の体制はなぜ大崩壊を始めたのだろうか:安政5年の政変(1858年)

 越前藩の松平慶永や薩摩藩の島津斉彬といった有力大名が運動を始め、そのひとつが次代将軍に一橋慶喜を擁立したことで、京都の公家に協力を求めたのだった。それを彦根藩の長野義言という人物が、朝廷宛の文書を発見したが、それは徳川斉昭が書いたものと誤解してしまう。長野は水戸が裏切ったと断じて、それを井伊直弼に報告する。その報告は幕府内に「水戸斉昭の陰謀」として広まり、対抗策として直弼が大老に就任し、徳川慶福が後継に立てる。このように将軍の後継をめぐり二つの派閥が生まれた。問題は紀伊派が水戸の陰謀を信じ込み、相手との妥協の余地がない分断が生じたこと。この分断は、ついには幕府の崩壊を導くことになる。
 一方、条約問題について、朝廷から勅許がほしければ、大名の意見を聞き、その結果をもって出直せと命じられていた。しかし、分断とアメリカからの催促に負けて独断で条約を締結してしまう。これは朝廷との約束に反することで、天皇は激怒し朝廷は幕府への非難であふれることとなる。幕府内では、安政の大獄という、暴力による反対派の弾圧が始まる。幕末に最初に登場した暴力は、政権による反対派大名に対する一斉処罰として始まった。世界の他の革命でも、その発端は、政権の外にいる人々が政府の失策に抗議し(公論)、それを政府が弾圧する(暴力)ことが多く、幕末の日本もそれに近いかたちで体制の崩壊が始まった。
 1860年、水戸派の武士たちによる桜田門外の変が起こる。政権側の暴力行使、こうして政府外からのテロという反撃にあうことになった。これもまた、世界の革命で見られることである。しかし、テロが世の中の動きを変えることにはならない。
 しかし、桜田門外の変は大きな変化をもたらした。それは、日本全体の問題に関し、誰でも発言できるようになったことだ。公論が可能になった。大老の暗殺は今まで恐れていた徳川の権威がたいしたものではないとの印象を拡散させ、「日本のため」という名目を立てれば誰でも発言できる、幕府をいくら批判してもかまわないという認識が広がった。そこで特に盛り上がったのが尊王攘夷を主張する人々だった。
さらに大名の一部も全国政治に介入を始める。
 桜田門外の変という暴力は「公論」禁止のタブーを吹き飛ばした。日本での政治参加運動はここから始まった。

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