堀米庸三「正統と異端─ヨーロッパ精神の底流」(2)~第1章 ローマ法王権の負い目
フランシスの運動は決して孤立したものではなかった。11世紀末以来、澎湃として起こった使徒的生活の実践を目指す一連の宗教運動のひとつであった。これらの運動に共通するのはグレゴリウス改革の一段落の後、保守化し反動化したカトリック教会に対して批判的であり、それゆえに異端として排斥されるものも少なくなかった。ワルド派やカタリ派はその典型である。彼らは、使徒的生活を続ける中で、教会の権威を無視するように独自に説教や布教を行った。これはカトリック教会には看過できないものだった。すなわち、教会はそのままで人類の救済のための神的な施設なのであり、聖職者は教会の目的を実現するために任命された神聖な人格なのである。この聖職者をさしおいては、教会活動の主要部分である説教を行うことはできないのである。
これに対して、宗教運動の理念は一切の財物を放棄して福音書的製品に生きることと、イエスに従う使徒的生活の実践の二点にあった。もともとキリスト教界では清貧の理想は親和的だ。しかし、それは修道士の戒律としてであって、在家の人々の日常規範として掲げられたのは宗教運動からであった。これは、実はグレゴリウス改革と同じような道徳的厳格主義であり、しかし、グレゴリウス改革の目的と手段とのズレから生まれ、助長したと言える。それが、フランシスと面会した際のイノセント3世の負い目の感情の基である。
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