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2024年8月10日 (土)

三谷博「民主化の道はどう開かれたか─近代日本の場合」(6)~5.「王政・公議」体制への転換はどう実現したのだろうか:1867~68年

 1866年、幕府との連携を主張する孝明天皇が亡くなる。そこで、将軍慶喜は改革を進めるため、有力大名の協力を必要として、越前、薩摩、土佐、宇和島を呼び出し四侯会議の同意をもって朝議にかけようとする。しかし、慶喜は兵庫開港を認めされることに成功した後、大名側の望みは無視した。そこで、薩摩は「公論」のみによる運動をあきらめ、軍事力の動員を決意する。軍事的な脅しを徳川に突きつけない限り、公議政体の樹立は無理と判断したのだった。
 1867年、将軍慶喜は大政奉還を行い、王政復古の第一段階は、公論を交わす中、平和の裡に実現したが、その後の徳川がどんな地位を占めるかが問題だった。慶喜は、王政復古後の新しい朝廷で徳川がトップにつき、政治改革を進めようとした。他方、薩摩は慶喜が引き続きトップにつけば大名側の意見を聞くことは期待できないから、徳川は排除すべきと考えていた。そこで王政復古のクーデターが起こる。このクーデターで注目すべきは参加した5家のうち徳川排除を狙っていたのは薩摩だけだったということ、また、クーデターにあたって薩摩と徳川の双方が戦争の回避に努力したこと。その結果、クーデター後の新政府がどうなるかは、薩摩と親徳川大名の交渉に任されることとなった。クーデター直後の布告では「言路洞開」と「人材登用」が叫ばれ、それを復古で正当化した。当時の日本には「進歩」という発想がなかったので、目前の「旧弊」を否定するために、「過去の理想」を持ち出した。「復古」への訴えはしかし、思わぬ効果を持つこととなる。これがもし、徳川時代の否定にとどまり、復古を目指した田なら。新政府の改革にはいろいろな制約が課されたはずだ。しかし、それよりもはるから昔の神武天皇の時代にどんな制度があったか、誰も知らない。そこで、王政復古の政府は創業にあたってどんな制度を参照してもよいことになった。その結果、新政府は天皇中心の秩序を築くにあたり、制度も思想も同時代の西洋から徹底的に輸入する道を採ることになる。
 その動きの中で、桑名と会津が独走して、鳥羽伏見の戦いが起こってしまう。公論の成果は吹き飛んで、軍隊同士の戦争が始まってしまう。そこで、徳川が政権に復帰する可能性は絶たれてしまい、薩長が政府をリードする傾向が固まった。そのプロセスで、親徳川だった土佐・越前・尾張が薩長についてしまう。さらに興味深いことには、日本の西部と中部の大名たちは、すぐに新政府を支持する。肝心の徳川も江戸城を明け渡してしまう。つまり、全国が薩長対徳川の全面戦争になりかねない状態になったとき、大名のほとんどは鳥羽伏見の戦いに勝った方に付和雷同を決め込んだ。この危機に割り込み、自らも権力争いに加わるという選択肢もあったはずなのに、大多数は戦争を回避し、勝った方の味方になって身の安全を図ったのだった。このおかげで、犠牲者は少数に留まった。
 戊辰戦争は例外的に大規模な戦闘がおこり、犠牲者の数は多かったが、アメリカの南北戦争やドイツの統一戦争に比べれば、格段に少ない。戦後には負けた側の処罰が行われたが、比較的寛容だった。勝者が報復に走ったり、相手側を虐殺したりすることはなかった。しかし、この影響は、別の面で大きかった。それは、大名の中で上級武士の立場が弱まり、中下級武士の地位が高まったことだ。この戦いででは双方に銃隊による戦いが求められた。以前は上級武士が馬に乗り家臣を引き連れて戦場に出たのだが、この戦いでは銃を持った軍隊が主力となったので、上級家臣は出る幕がなくなり、逆に実戦で功績をあげた中下級家臣たちが戦後に大いばりすることになった。
 他方、大名の家はほとんどが戦争に動員され、その結果、経済的に苦しむことになった。以前から借金を抱えていたのが、戦争によって家計はますます苦しくなった。そのため、みずから領地返上を申し出る藩すら出てくる状態だった。2年後に廃藩を命じられたとき抵抗した大名は皆無だった。借金を新政府に肩代わりしてもらい、ほっとした大名も少なくなかった。

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