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2024年8月11日 (日)

三谷博「民主化の道はどう開かれたか─近代日本の場合」(7)~6.新政府の連発した改革はどんな緊張を生んだのか:1869~77年

 1869年、新政府は版籍奉還を行う。今大名が領内統治の根拠にしている統治許可書は徳川将軍からもらったもので、王政復古の後では不当なものとなった、朝廷に返上すべきというものだった。ただし、返上した後に天皇から再度統治許可書が与えられることはなく、彼らは元の藩を一代限りに治める知藩事という役人に任命された。そこで、各地方の統治にあたる「藩政」と大名の家族の生計を担う「家政」とが分離された。大名は藩の収入の1割を与えられて生活することとなる一方で、家臣たちは大名との君臣関係を解かれたうえで、士族として「藩政」を担うこととなった。「藩制」により、それまでまちまちな形で行われていた地方の統治は全国画一の同じ方式で行われることになる。これで新政府による地方統治の能力は格段に向上した。その翌年に廃藩置県が行われる。
 廃藩置県による中央集権化で問題となったのは、戊辰戦争後の軍隊の待遇だった。各藩の軍隊は故郷に帰り、多くは解散させられた。軍隊の維持は不要になったからだ。ところが、官軍の主力として活躍した藩の軍隊は、新政府から正当な待遇を受けて当然だと考えていた。しかし、財政に苦しんでいた新政府はその望みに応えることはできなかった。そのため、残った官軍は活躍の場として天下再乱を期待し始めたのだった。西郷はそこで、彼らを東京に集め「親兵」とすることで、生活の基盤と名誉を与え、天下再乱の芽を摘もうとしたのだった。政府はこれではじめて直属軍を持つことになった。しかし、この「親兵」には予算がなかった。当面は宮中の費用でやり繰りしたが、長続きできない。政府は廃藩により各藩の収入を新政府で得ることで賄った。
 廃藩置県は中央集権化を進めただけでなく、身分制の解体も促した。この時、武士たちは全員が解職され、江戸時代の統治を担っていた身分がなくなった。これは世界の革命の中で行われた最も厳しく全面的な権利の剥奪の一つだった。大多数の武士がこれをおとなくし受け入れたのは驚くべきことだ。身分制の解体は武士だけにとどまらず非差別身分もまた廃止され平民に統合された。これは、明治政府が、日本の住民のすべてに公平に課税する方針を採り、それまで税を支払っていなかった武士、公家、寺社や被差別民からも税を取ろうとした結果、起こったことだった。このような身分の解体は人間は平等だという高尚な理念から行われたのではないということだ。

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