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2024年8月30日 (金)

堀米庸三「正統と異端─ヨーロッパ精神の底流」(3)~第2章 正統と異端の理論的諸問題

 正統と異端というセットは天と地のように相関的だが、善と悪のような相互否定的な対立概念ではない。異端は正統に対して異端であって、異教ではない。正統と異端は、あくまでも根本を共通する同一範疇に属する事物相互の対立だ。そして、正統と異端は相互に相関概念なので、それぞれが一義的・不変的内容をもつのではなく、相互の流動性、つまり曖昧なところがある。例えば、正統と異端が入れ替わる、つまり、ある事項が正統だったはずが、時代や環境の変化によって異端となってしまう。ところで、両者の対立においてそれぞれが相手方に対して用いる批判に修正主義という概念がよく゜使われるが、これは理論を現実に適用するにあたって、表面は本質に対する忠実を装いながら、実はその修正・すり替えを行っているという非難なのだ。ということは、正統と異端とは、現実ではつねに相関的に流動しながら、しかも踏み越えてはいけない限界を持っている。つまり、正統と異端は決して実体的な概念ではないが、際限もなく流動的でありえない。それを著者は、正統における客観主義、異端における主観主義と規定する。つまり、正統と異端の出発点には預言や啓示が、正統の根本的テーゼとして必要であり、それが人間と世界に対する全体的判断であるかぎり、種々の妥当性の程度を異にする大小のテーゼの組み合わせから成っている。それに対する解釈が正統の場合は全面的であるのに対して、異端は場合は一面的であるということだ。福音書には普遍的な妥当性をもつ規定から、限定された妥当性の規定まで様々ある。実生活では、それらをすべて矛盾なく実践することは不可能だ。このような福音書の解釈にあたっては、相互に矛盾する、しかもそれぞれに真実性を持つ規定を総合的に合理化することが正統の立場で、一面的把握が異端に通じる。実際のところ、パウロによって、イエスの教えの実践的解釈(全面的合理化)が行われることによって、信徒の人間的・社会的な日常生活のすべてを包括することが可能となり、キリスト教が大衆宗教として、ローマ社会に根付くことができた。そこに批判の余地をもつ個々の点が残るというのは、後年のルターによる批判などにより明らかだ。しかし、与えられた現実に対して、イエスの教えを最大限包括的に生かそうとするかぎり、パウロの実践的解釈には一面的真理の潔癖さでは求めることのできない客観性がある。これが正統と異端の関係で、客観主義と主観主義の対立と言い換えてもいい。
 ここで注意すべきは、客観的に現実との妥協・協調を重ねる正統つまり教会では、妥協・協調の一々の段階がすべて原理的検討を踏んでいるとされているので、決してそれ自体現実への妥協とか敗北の歴史とは意識されていない。むしろ、啓示による俗世の教化と捉えられた。ここに正統信仰における客観主義の基礎がある。
 これに対して、異端は正統あっての存在なので、それ自体のテーゼはなく、正統の批判から出発する。批判の基準となるのは正統と同じ啓示であり、正統教会の啓示の解釈が現実との妥協を批判する。つまり、異端のテーゼは啓示への回帰である。しかも、その啓示は全体的にでなく部分的に、異端の主観的真実に合致するかぎりにおいて受け取られ、現実への適用可能性は相対的に軽視される。それは外見上ラディカルな理想主義の形態をとる。この理想に堪えられるために強烈な精神の緊張を要するというきわめて主観主義的となる。往々にして、ヒロイズムに結びつきやすい。正統の寛容さとは対照的でうる。

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