三谷博「民主化の道はどう開かれたか─近代日本の場合」(5)~4.「公議」政体への転換はどう始まったのだろうか:1862~66年
桜田門外の変の後、全国各地から政治運動に飛び込む人々が現われる。彼らの多くは尊王攘夷を主張し、京都にあつまり、「公議」「公論」を武器に政界進出を図った。将軍家茂が条約勅許を求めて京都に入った時、逆に朝廷から攘夷を迫られて、のまざるをえなくなる。今までは、こうした場合、政府が過激派のリーダーを捕らえ投獄することで黙らせたのだが、安政の政変と大獄への非難が高く、弾圧を行うと天皇との仲が険悪になるのを恐れて、できなかった。そこで、幕府は西洋との戦争という厳しい道に、「公論」とテロの力だけで追い詰められていったのだった。
それに対して、1863年の会津・薩摩藩による8月18日のクーデターで尊攘派を朝廷から追放することら成功する。このとき、天皇からの招きに応じて薩摩の島津久光が上京する。他にも有力大名が上京し、これを機に幕府を「公議」政体に変えようと企てる彼らの段取りは、朝議に彼らが加わり、そこで決めたことを将軍に認めてもらう。次いで、幕府の会議にも彼らの参加を認めてもらい、以後の統治に当たるというものだった。しかし、幕府の老中たちが自分たちを幕府から排除することになる大名の参加に強く反対したため、最初の「公議」政体の試みは失敗した。
幕府と会津は、他の大名の嫉妬も誘って薩摩・越前などの特権を否定し、朝議への参加を辞退させて、国元へ追い返した。その一方で公武合体の体制を創った。しかし、これは同時に徳川が覇権を失う出発点にもなった。薩摩と越前は幕府が西洋との条約を維持し、かつ朝廷と和解できるように力を貸したが、何の見返りも与えられ巣放り出されたのだった。幕府にはすでに手強い敵がいたが、さらに他の有力大名も敵に回してしまった。徳川は政権の独占に成功したが、長期的には持ち答えることができなかった。目先の利に固執して、大損をしてしまった。
長州征伐に際しては薩摩も越前も参加を断り、これを見た他の大名も参戦に消極的になり、幕府の出兵要請に応じたのは譜代だけとなり、長州に攻め込んだものの撃退されてしまう。徳川の敗北は誰の目にも明らかで、徳川の軍事的威力を怖れる者はいなくなり、大名は遠慮なく自己主張できるようになった。
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