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2024年8月 5日 (月)

三谷博「民主化の道はどう開かれたか─近代日本の場合」(2)~1.江戸自体の日本ではどのように政治が行われていたのだろうか

 幕末以前の日本では政府の外にいる人が政治を語ることは禁じられていた。支配者として政治を独占していた武士たちは政策の内容を人々に説明せず、人々が政府に依存し、その命令に素直に従うように仕向けていた。つまり、支配者以外は、世の中に何が起きているか、全体の姿が見えず、社会は身分によって上下の関係が決まっていて、下々の人々は「お上」の権威に無条件に従っていた。
 では、支配者である幕府や大名は政策をどのように決めていたのか。江戸時代は身分による上下関係が強固だったが、将軍や大名といった君主が勝手に命令していたのかというとそうではない。ヨーロッパのように君主が政治的な決定の主役だったのではなく、彼らは決定の責任者だったが、決定自体は幕府なら老中、藩なら家老たちの会議の結 論をそのまま採用するのが普通だった。その重役たちは、末端から上がってくる政策提案を見て決めていた。つまり、徳川将軍家や大名の政府での決定は、たいていは一番下にいて世に直接接している役人が問題を見つけ、解決法を考えて、それを上司に上げるのが第一段階、次に重役たちが会議を開いてその提案の良い点と欠点を検討し、ほぼ結論を決めるのが第二段階、そして君主が重役会議の結論を採用し、それに君主の権威を与えて、領地の全体に命令するのが第三段階となっていた。つまり、江戸時代の政府での決定は、権威の順序と反対に、下から上に向かって進んでいったものだった。いわゆるボトムアップだった。このため、武士の場合は、身分が低くても重要な仕事を担当することができた。上級のものも下からの提案に耳を傾けることに慣れていた。これは、安定した時代では有効に機能した。
 しかし、幕末に黒船が来航し開国を強制され、政府の能力を飛躍的に強化する必要が出てくると、この仕組みは維持できなくなる。下にいて世の中の容姿をよく知っている人々の中から、有能で活発な人々を上の地位に引きあげ決定を担わせる必要が出たからで、明治維新は、この必要に迫られて起こったともいえる。
 また、国全体として単一の政府だったわけではない。京都に天皇、江戸に将軍という二人の君主が居て、それぞれの政府を持っていた。その下には大名が居て、藩という小さな国を治めていた。いわば連邦だった。明治維新は双頭・連邦という複雑な仕組みを持った国を、王政復古と廃藩置県により単頭・単一の国家に変えたのだった。

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