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2024年9月

2024年9月 8日 (日)

ジネット・ヌヴーの弾く「ブラームスのバイオリン協奏曲」

11113_20240908000301  クラシックでもジャズでも歴史的名演と呼ばれる録音がある。その多くは、のちに物語の尾ひれがついて、演奏そのものを離れて、後付けの物語が独り歩きして、実際に録音を聴くと拍子抜けしてしまうものも少なくない。
 この録音も、物語的要素がたくさんある。1948年5月3日ハンブルクにおける、ハンス・シュミット・イッセルシュテット指揮北ドイツ放送交響楽団によるブラームスのバイオリン協奏曲。バイオリンはジネット・ヌヴー。当時のドイツは第二次世界大戦の敗戦国で、1948年は未だ、ハンブルクという街角にも人々の心にも、その爪痕が色濃く残されていた。そこにフランス人若い女性バイオリニストが乗り込んできて、ドイツ音楽の真骨頂ともいうべきブラームスの協奏曲を弾くという。もし、日本で戦後の占領時代にアメリカ軍の軍楽隊が「君が代」をジャズ風にアレンジして、「どうが、すごいだろう」という態度で演奏してみせたとしたら、当時の日本人は、どう思うだろう。このブラームスの演奏に対しては、当時のハンブルクでは複雑な受けられ方をしたのではないか。
 それが証拠に、演奏の開始のオーケストラによるトゥッティは、およそシラケきっているというほど生気がない。テンポが不安定でダラしない。管楽器のピッチが合っていなくて、弦楽はバラバラで弾けていない。それが、ヌヴーのバイオリンが入ると激変する。オーケストラに火が灯り、やがて炎となって、しまいには全体が激しく燃焼するにいたる。当時の録音で、音質はよくないのだが、ヌヴーの熱演に引っ張られ、煽られることによって、オーケストラの気合の入り方が手に取るように変わっていく、目に見えてノリに乗っていくのが分かる。ヌヴーのバイオリンの音は硬質で、例えば、泰一楽章の最初のバイオリンの入りは、とても鋭い感じで、しかも他の人とは違って短く音を切って、巻き気味にはいる。それが息をつかせぬ緊張感として聞こえる。この掴みでオーケストラが引き込まれる。そこからの、この若いバイオリニストが手を変え品を変え、オーケストラ(プラス聴衆)を巻き込んでいく、時には、標準的な演奏から外れて(今日の正確な演奏ではありえない)、第1楽章の終わりごろには、オーケストラの音色が全く変わっている。この会場にいた聴衆は、それこそ一期一会の演奏に遭ったのだろうと思う。この録音は、そのことが分かる。
 それは、この人の弾き方はブラームスの内省的な面をあまり考慮していないというか、例えば第1楽章で第2主題に入っていくところは、ディミヌエンドしていって独り言のようにひそやかに歌うところを、この演奏では、むしろクレッシェンドして(おそらく譜面とは反対に弾いているのだろう)強く弾き切っている。それがオーケストラを煽ることになって、掛け合うオーケストラの音の高揚感がもの凄いことになる。しかも、このときのビブラートのバリエーションが凄い。一瞬一瞬の変化で、次にどういう音が出てくるか分からない。こんな風に煽られるオーケストラは堪ったもんじゃない。こういう強い演奏は、聴く人によっては押し付けがましく、うるさく聞こえてしまうだろう。しかし、この場のこの演奏では、それがハマっているのだ。だからこそ、この時、この場だけの一回こっきりのものだったと思う。ヌヴー自身も、これだけハイテンションに約40分弾き切るなんてことは、何度もできることではなかったと思う。

 

2024年9月 4日 (水)

渡邉雅子「「論理的思考」の社会的構築─フランスの思考表現スタイルと言葉の教育」(4)~終章 フランス社会の<論理>の構築─ディセルタシオンが導く思考表現スタイル

 思考表現しタイルとは、社会で共有された「書く型」に現われる「考える手続き」と「思考の型」を指す。人々がその手続きに沿って思考し、表現することで円滑なコミュニケーションが取れ、集団としてのまとまりが保てる。そのため、思考表現スタイルは、その社会で流通している論理を体現し、社会をまとめ成り立たせている論理をも示している。
 ディセルタシオンに現われるフランスの思考表現スタイルは、アメリカと比較すると、その特徴と意味づけがより明確になる。この時、フランスの共和主義とアメリカの民主主義は、普遍対ローカル、集団主義対個人主義、価値目的対技術目的といった両国の思考表現スタイルを成り立たせる基本原理を二項対立的に捉えるものに適している。
 フランスもアメリカも民主主義を掲げる国として一括りに見られる傾向がある。しかし、政治学では、市民性は大きく共和主義型と民主主義型の二つに類型化して考えられている。フランスに代表される共和主義型は、個人の利益よりも公正で平等な社会の実現を目指す「共通善の追求」を重視し、「公共の利益」を政治的な価値判断の基準とするのに対して、アメリカに代表される民主主義型は「個人の権利と自由」を重視して、その権利の侵害からいかに個人を守るかを判断の基準とする。共和主義では公共の利益優先のために個人的な資質や背景は問題にされず、むしろ特殊性を排して普遍性を追い求める。それに対して、アメリカの民主主義は、地域やアソシエーションなどのローカルな組織を通じて個人の権利や利益を反映させる。地元のコミュニティやローカルな組織は、宗教・文化・社会経済的な背景に基づいて組織されるものであり、アメリカの市民性はどこまでも具体的でローカルなもので、その根本には個人の目的達成があるからである。ディセルタシオンが具現化するフランスの思考表現スタイルが目的とするのは、フランス革命とその後の混迷という歴史的体験から実感し学んだ「不確実性に満ちた危うい未来」を目の前にして、公共の利益を優先させて公正な社会を実現させること、そのためにこの基準に照らして現状を批判的に分析・評価し、判断して行動を決断できるようになることである。フランス革命とその後の体験は、未来は一義的に決まるものではなく、異なる立場の人々の利害関係や伝統、自然環境、偶然に左右され、常に変化にさらされ不確実性に開いていると実感させた。そこでの政治的な行動には、自律して行動できる思考法とその表現の手続を技術として学ぶこと、そして思考し表現するための材料となる知識と、個人よも大きなもののために自発的に犠牲を払う価値としての教養を身に着けることが求められる。共和国の原理は理念としてあるために、現実を超えていく未来の試み以外にはなりえず、理念であるがゆえに、体験に基づく事実によって結論付けられる科学の実証性や効率性などの経済原理には還元されない。弁証法の思考の型が用いられるのは、それが現実にある種々な矛盾を解決し、理念の合理的な解釈を可能にするからである。既存の視点の新たな配置によって新しい視点を提供する、そしてより大きな全体像の構築へと向かうのである。
 これに対して、アメリカ型では個人の権利と自由が重視されるリベラル型の民主主義の社会で、公権力から個人の権利や自由を守り、個人がそれぞれの目的達成のために能力や個性を十分に発揮することが重視される。この基本は個人であり、個人の利益を代表するローカルなコミュニティやグループである。抽象的な政治的主体としての個人が国家に直接つながるフランスに対して、アリカでは具体的個人が利益や主張の違いにより利益集団を通じて政府に発言する。そこで、個人は個性的であること、個性の発現と見なされる創造力が重視される。そういうアメリカの思考表現スタイルを具現化しているエッセイは、書き手の主張を最初に述べて、主張の正しさを具体例で根拠づけ論証して読み手を説得することを目的とする。その構成は、まず結果を定め、結果から時間を遡って原因を探る逆因果律が思考の枠組みとなっている。その際、結果に対して遠い情報を排して、結果に近く、直接的に、強い情報を特定する。ここでは、分析するというのは、部分的な強い因果に注目して因果関係の特定に寄与しない情報を削ぎ落して単純化することを意味する。余分な情報を削ぎ落し、単純な因果関係を取り出す分析力が重視される。それは、情報を比較衡量して素早く決断して行動しやすくするためである。選択肢がまだあるうちに、目標達成に最も可能性が高く効率的な手段すばやく見つけることが重視される。

2024年9月 3日 (火)

渡邉雅子「「論理的思考」の社会的構築─フランスの思考表現スタイルと言葉の教育」(3)~第2章 哲学のディセルタシオンと哲学教育

 フランスの中等教育では哲学の授業があり、そこでディセルタシオンを用いた論証の習得が図られている。哲学の試験はディセルタシオンによる論証となり、その総仕上げがバカロレアである。哲学教育の目的は、現実の複雑さをよく゜理解し、現代社会に対する批判的意識を持つことのできる自律した精神を形成することであり、そのために生徒自身が分析的態度、正確な概念、知的責任を持てるようにする、その目的達成の方法を具現化しているのがディセルタシオンというわけだ。
 ディセルタシオンは、(正-反-合)の弁証法を基本構造としており、矛盾の解決を論文構造の原理と目的としている。異なる視点対決させて、(合)を導いたとき、前提を変えて俯瞰すると対立や矛盾していると見えていたことがらが一つのことがらの異なる側面となり、より積極的な視点を導き出すことが可能になる。この時に、矛盾は絶対的な白か黒かのような対立項ではなく、乗り越えていかねばならない問題として設定される。まず問題は何かを突き止め、その問題に対して逆説を問い、異なる視点(逆説)として提示される問題を解決しよう、答えを出そうとする知的営みと態度とがディセルタシオンを書く作業の意味だ。そのためには、一般に受け入れられている考えとは逆の考えすら全力で論証しなければならない。その後(合)をつくるためには、ものごとを見る視点の微妙なニュアンスの違いを吟味しなければならない。ある問題について深く追求するということの意味は、ここではあらゆる可能性を考え尽くすことである。それゆえ、ディセルタシオンを書くことの意味は、グラデーションであらゆる可能性を検討する訓練となる。その結果、矛盾を解決して答えを出すことができるという感覚を生徒に与える。

2024年9月 2日 (月)

渡邉雅子「「論理的思考」の社会的構築─フランスの思考表現スタイルと言葉の教育」(2)~第1章 論文の構造と論理の形

 論理的な正誤を厳密に判断できるのは形式論理のみである。形式論理では、形式上の正誤が論理の正誤として指摘される。他方修辞学(レトリック)では形式論理よりも人々の常識や通年をもとにしたある程度確実な推論の諸形式が説得のための証拠立ての方法として定式化されている。本書が注目するのは、語りの理論である。私たちはものを理解するときは、すべての情報を受け取っているわけではなく、重要な情報とそうでない情報を選り分け、その取捨選択の上に、ある出来事や状態を初めに考えたり、途中経過を考えたり、終わりと考えたりすることによって、つまり何らかの構造の中で捉えることによって、はじめてそれぞれの出来事に意味が与えられる。このような構造化には、多くの文化や社会に共通の普遍的な型だけでなく、文化や社会に固有の型もある。例えば、同じ物語を異なる国の被験者に聞かせてその記憶を再現させてみると、自分の文化にそぐわない部分は省略されたり、順番が入れ替わったりして、自己の文化の説明の型に合うように再解釈されてしまう。
 そのような型を区分し分類する際に、ここで指標としたのが統一性と一貫性である。統一性とは、説明に必要な部分がすべて揃っていると生まれる感覚である。一貫性はそれらの必要な部分が読み手に理解可能な順番で並んでいる感覚である。これら二つを総合すると、論理的であるということは、読み手にとって必要な部分が読み手の期待する順番に並んでいることから生まれる感覚であると言える。この場合の読み手にとってというところで、読み手にとって馴染んだ型があり、それが社会的・文化的につくられたものなのだ。
 本書では、その具体例として、とくにアメリカとフランスの学校で教えられる小論文の構造が違うことを取り上げる。
 まず、本書はアメリカの小論文をエッセイと呼んでいる。エッセイは、主張の提示、主張の根拠、結論の三部構成で、導入部で自己の主張を述べ、次に本体で主張を根拠づける証拠を述べ、結論で主張が正しいことを繰り返す。エッセイの大きな特徴は書き手の主張を最初に述べるところにある。というのも、思考の過程は観察やデータの分析から徐々に結論に向かって推論を進めていくのに対して、エッセイは結論を先に述べて思考の過程を倒立させることになる。そのため、後に続く文章は結論に関係することだけが述べられ、主張とその論証は相互に緊密に結ばれている。そのため、読み手にとっては、スッキリしていて一貫性が強く感じられる。
 これに対してフランス小論文は、本書では、ディセルタシオンと呼ばれる。ディセルタシオンは、エッセイと同じように三部構成をとるが、その中身は正-反-合の弁証法を基本構造にしている。まず、導入部分で中心になる主題を提示し、どのようにその主題を論じるかの全体構成を示す。この際に鍵となる概念を定義して、与えられた問いのどの側面について論じるのかを提起する。そして、本体となる展開部分では、主題に対する見方(正)、次にそれとは相反する見方(反)を示し、これら二つを総合する第三の見方(合)を提示し論証する。そして、結論部分は、これまでの議論の流れをまとめて結論として終わる。このようにディセルタシオンむでは、正-反の二つの視点間の矛盾の解決が目的で、それが論文構成の原理となっている。
 このようにエッセイとディセルタシオンの相違点は、正-反-合の反の部分がエッセイにはないことである。必然的に合の部分もエッセイにはない。伊佐感性については、エッセイは先に結論を述べてしまうが、ディセルタシオンは結論を最後まで述べない。このような論文構成の比較から明らかなことは、論理的であることの基準が米仏の小論文では異なるということである。エッセイでは、冒頭で結論を主張し、余分な情報を排除した主張と根拠の緊密性が論理的である感じさせる根拠となる。それに対して、ディセルタシオンは、書き手の問題提起に導かれた正-反-合の議論の流れが明確に構造化されていることと、それぞれの視点が引用によって厳密に論証されていることが要件となる。
 結果として、エッセイとディセルタシオンの構成が異なるというのは、同じ問いへの答え方が異なる、答えそのものが異なるということなのだ。エッセイでは、問いに対してイエスかノーかのいずれかが主張として提示され、論証され、結論となる。これに対して、ディセルタシオンは、イエスノーの二元論を超える答えを求めている。二つの面から正-反は、イエスでありノーでもある第三の道を導く。このようなディセルタシオンに対して、アメリカ社会では問われた質問に答えていない、つまり論理的でないと見なされてしまう。

2024年9月 1日 (日)

渡邉雅子「「論理的思考」の社会的構築─フランスの思考表現スタイルと言葉の教育」

11113_20240901234001  あとがきで著者は自身のアメリカ留学時の経験を述べている。論述の試験の答案には「評価不可能」と返され、その後どんなに工夫して提出しても「説明せよ」のコメントが繰り返されるばかり、それで途方に暮れていると、エッセイの書き方を教わり、その型通りに書くと、高評価を得ることができたという。つまり、形式を踏まえていないと、意味不明と門前払いされる。これが、日本の大学の場合なら、言いたいことは分かるのだが、書き方がよくないと、指導を受けるだろう。その形式というのがロジックということであり、それは考え方の筋道であるのが、それが実際に現われるのが書かれた文章というわけだ。日本語では、内容と形式について、形式は内容をうまく表わす手段で、論理的というは、その形式のひとつという捉え方が為されていると思うが、欧米の言語では内容と形式は重なるもので、形式を備えていないと内容は成立しない。そこで、西洋文化では論理的ということが同時に真理という意味を持つようになっている。その論理的ということは、日本人の私には普遍的であるように見えるが、当の西洋では、例えばフランスとアメリカでは論理的であるという基準が異なる。つまり、それぞれの社会である文章が論理的であったり、なかったりするというのだ。これには、正直いって驚いた。このことに驚くだけでも、本書を読む価値はある。
 ある事柄が論理的に正しいかどうかを証明するには、形式論理の形式を踏んでいるかによる。数学の証明がその典型である。しかし、論理的であることにはもうひとつの考え方がある。それは文化的に根差した論理、社会で作られた論理であり、本書では、これについて思考表現スタイルと呼んでテーマとした。
 思考表現スタイルは、社会で共有された「書く型」に現われる「考える道程」「考える手続き」を指している。つまり、書く型に現われる「思考の型」である。これは、ある社会のなかで説得しやすく納得しやすい型である。思考表現スタイルと、わざわざ表現スタイルとしていのは、個人の頭のなかで行われる主観的な認知や思考は、共有された型に沿って表現され実際に書かれることによって、観察や分析が可能な客観的なものになると同時に、他者とコミュニケート可能なもの、評価可能なものとなり、表現されることで社会的な帰納を持つ。そのスタイル、各社会で支配的な論理、その背後にある価値観や行動の原理を土台にしている。本書では、そのプロセスが端的に現われるのが学校教育だといい、とくに小論文の教育に注目する。その具体例として、フランスの論文形式であるディセルタシオンとアメリカの論文形式であるエッセイを対比的に取り上げる。

 

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