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2024年9月

2024年9月24日 (火)

清水博「生命知としての場の論理─柳生新陰流に見る共創の理」(3)~Ⅱ.剣の理と場所の理

著者と柳生宗家との対話か中心となり、柳生新陰流の原理を考察する。
それまでの戦国中古の諸剣法、例えば新当流の塚原卜伝の゜一の太刀のように得意技中心に組み立てられた「個別性の剣法」が個別的に対応する方法であったのに対して、新陰流は「普遍性の剣法」、つまり普遍的対応する刀法であった。この場合の普遍とは、複雑に場所のなかで、その場所に整合的になるように自己を創出し続けるということで、この場合の複雑な場所とは、知識のない出来事、教えられたことのない出来事が絶えず起きる世界である。このような場所で生き続けるための十分条件が、適切な情報を刻々と創出し、その情報によって自己を制御する性質、つまり創出的な自律性である。具体的には、新しい出来事の自己にとっての意味を絶えず適切に発見して行き、その発見に基づいて、自己と偽書とか整合的になるように。刻々と自己制御していく。リアルタイムに創出される情報とは、その出来事の意味をリアルタイムに判断すねための新しい意味、そしてそれに基づいて自分の状況を適切に制御するための新しい操作に関する情報である。
ひとつの場所で行われる真剣勝負を普遍的な観点から捉えてみると、それは敵対する両者を包含する複雑な場所のなかで二人が真剣をもって演じる即興劇に擬せられる。その劇のシナリオは役者である彼らが演じながら創り上げていくものであり、同時に彼らの動きを拘束する条件にもなる。真剣勝負において相手に勝つためには、即興劇の進行の主導権を握らなければならない。そのためには、自分に有利なシナリオにしたがって相手を働かせ、その上で相手の拍子に合わせつつ目的を達成することが必要だ。そこで欠かせないのが、即興劇の筋の進行方向から劇場全体、さらに役者の心理状態に至るまでを見立てる。また、物語の筋を創ることは、時間の流れを創ることでもある理で、適切なタイミングで相手に働きかけることも重要になる。
現代のスポーツ化した剣道はルールに基づいて勝敗を競う。これに対して武道としての剣はルールなしに相手に対したとき、どのように勝つかという刀法を追求したもの。それが型として今日に伝えられている。このルールのない状態は、本書で言う無限定な状態といえる。
普遍の理を実際に技として使う場合に必要になってくるのが活人剣という考え方だ。活人剣が目指しているのは、敵を抑えつけて勝つのではなく、敵の動きに従って勝つということ。この働きを出させるところが柳生新陰流のユニークなところ。敵に向かうとき、「無形の位」で対する。これは自身を捧げるということに通じる構えで、まな板の上の鯉になる気持ちになると、自然と相手の働きが見えてきて、その働きにしたがって勝つというもの。そして、相手を働かせるというか、相手が自ら働いてしまうように仕向ける。そのために「先々の先」という気持ちを常に持っている。「無形の位」で対してはいるけれど、「先」は持っている。技の面から言うと、活人剣で闘うというのは、向こうが截り出さざるを得ないように仕向けるということだ。これが「迎え」で、相手がどこを打ちたいと思う刹那に、こちらはさあ打ちなさいという形でもっていく。普通はそれを押さえようとする、例えば現代の剣道では相手が小手を狙っていたら打たれまいと対決する。そこで、敵はシナリオを変えてくる。こうして互いに疑心暗鬼になり、永遠の迷いに陥る。これに対して、柳生新陰流では、敵とこちらの心を一つにする。向こう側が小手を打ちたいと、どうぞ打ってくださいと歓迎するので、そうすると小手を打ってくる。
ただしこのとき、こちらは主導権を握っていて、向こう側を7誘導するように働かすことが必要で、そのときに重要な働きをするのが拍子、つまりリズムで。相手に合わせるというのはリズムを同調させる。しかし、それでは、膠着状態になり、勝つには至らない。その時の手段として「欠く拍子」を使う。それは、截相が生ずるギリギリの間合いで中段に構えながら、相手の隙を窺っているとき、瞬間的に一気に下段にまで太刀先を下げてしまう。これは自分の方に隙を作ることになるので、相手は自然に截り込もうとする。その瞬間にこちらは太刀を上げて、相手ののど元に突きつける…。

2024年9月23日 (月)

清水博「生命知としての場の論理─柳生新陰流に見る共創の理」(2)~Ⅰ.場所とは何か

我々が生きている社会はきわめて複雑なもので、毎日は思いがけないこと、予期していないことの連続だ。自然環境も同じように複雑なものだ。ここでは、我々の知識を超えるようなことが、頻繁に起こる。このような既存の知識を超える不確実性のことを、本書では「無限定性」と呼ぶ。無限定な事件が絶えず起きている複雑な環境の中で、人間やその組織が生き残っていく画を゜教えてくれる知を、「生物的な知」と呼ぶ。これに対して、クイズの回答のように既存の知を蓄積したものを「機械的な知」と呼ぶ。もとより、機械的な知では無限定性にパ対処しきれない。
生物的な知は身体的な知でもある。その場で身体を使って、ある行為をはじめて行うためのものであるからで、それは知識からではなく、こうしたいという身体的欲求から生じるものである。例えば腹が減ったから、エサを探す。生命的な知の原理には二つのタイプがある。ひとつは試行錯誤で、例えばバクテリアに抗生物質を投与すると死んでしまうが、次第に抵抗力をつけていく。これは、最初はバクテリアにとって抗生物質は無限定で知識がなかったが、慣れてくるにしたがって抵抗力つまり耐性ができということは、それを乗り越える知を持ったというものです。もうひとつは、試行錯誤のようなトライ&エラーが許されない、一回限りのケースではリアルタイムの創出知が働く。本書のテーマは、このリアルタイムの創出知だ。その原理が端的に現われているものとして、本書では真剣勝負をとりあげる。
「リアルタイムの創出知」のリアルタイムの創出とは刻々と創造することで、高度な生き物が基本的に有しているものである。その特徴は、第一に生き物であるということ、第二に自己を外に向けて表現すること、第三に表出された表現は一定ではなく、刻々と新しい関係が生成し消滅する繰り返しに応じて刻々と変化するということ、第四に一定の自己を保持しつづけること、これが主体性である。第五に、それぞれの主体性を保持したうえで、相互に協力し合い整合的な表現をすることができる関係を生成すること、第六に、これらの多様性の一方で多数の要素の集まりが全体として一つの統合された表現を表出することである。これらから言えることは、各生命的要素はそれぞれ自律的で特異的な表現をする個でありながら、決してそれだけには留まっていない。つまり、個を表現すると同時に、その個としての立場を超越して全体的な立場に立って、全体が一つのひとつの表現をすることができるように、個々の表現を決定している。すなわち、個としての特異的な表現をするということは、生命的要素の自己表現の必要条件ですが、この必要条件を満たしたうえで、周囲の自己表現と整合的になることができるような自己表現には、一般にまだ無数の可能性があるために具体的にどのような表現をすべきかを決めることができない。これは十分自要件が欠けているためだ。そこで、これらの必要条件と整合性条件を満たしながら、同時に全体として統一された表現が行われるように、各生命的要素が自己表現を決定することによって、表現が具体的に決まる。そこで、自己表出の必要十分条件が充たされる。また、人間が集まって社会的な組織をつくるときには、互いの働き(表現)の間に整合的な関係をつくり、それぞれに自己を表現しながら、互いの間に整合的な関係ができるようにする。そして、いったん整合的な表現ができると、再びその表現を生成しやすいように自己が変化する。例えば、組織の中で各人の分担が自然に決まる、同じ人でも組織の中の関係によって、地位や分担、働き方が変わる。これは組織的な関係における自己表現に相当する。それぞれの自己表現が互いに異なっていることが組織のために必要であり、その各人の分担が自然に決まるということは、その組織が全体として共通の目標を追求しているからこそ可能となる。言い換えると、その組織全体としての表現をしようとしているからである。共通の目的を持つことが十分条件を持つために必要だとも言える。
このようにさまざまな役割を自発的に分担する場合にも、全体を見まわすことができる超越的観点に立って、自己を見ることが必要になる。一般に人間は自己の行為を見ている超越的な自己があるが、その自己超越性は多様性と統一性を結び付けるために必要な性質だ。そこで自己超越性は生命的要素が持っている基本的な性質であると言える。このように関係に従って自己を自律的に決めることを「自己を表現する」と本書では呼ぶ。そのために必要な生命的要素を「関係子」と呼ぶ。
関係子が自己を表現するということは、関係子が自己を自己言及的に表現することだ。それは、自己の内部でつくったルールに従って自己を表現していくこと、つまり、新しいルールをつくるときの基準が関係子自身の内部に存在している。
時間的な側面から関係子による自己表現を見ると、現在(表現すること)は過去(表現したこと)から切り離せない存在であり、同様にその現在が未来に影響を与える。されだけではなく、逆に未来が現在に影響を与える。例えば将来の目標に対して現在努力するということがある。このように現在は、過去とも未来とも好意的な意味でつながっている。それは過去─現在─未来という連続した時間の流れの中にある現在であり、言い換えれば歴史的な時間の流れの中における現在である。関係子が歴史的な時間の流れの中で自己表現をしているということは、関係子の自己表現が本質的にドラマ的であることを意味している。
自己が自己自身を表現しようとする欲望、すなわち自己表現性は生命の大きな特徴である。この自己表現のためには何が必要か、またどのような原理で自己表現を行うのか。生き物の普遍的な性質は、秩序のないところに秩序を創り出すというところにある。この性質のことを自己組織性というが、秩序が創り出される原因としては、生きるものが共働性を持った要素の集まりからできていて、その要素の空いた背に共働的な関係が生成するからだと考えられている。
一般に要素とその間に生成する関係を出発点にして集まり(システム)である生き物の性質を理解しようとするのが科学技術の考え方だ。しかし、関係子の集まりについて、その捉え方では捉え切れない。関係子は、ドラマの中で相互の間に生成する関係に従って、どんな役でも自在に演じることができる役者に譬えることができる。この場合、ドラマははじめから決まったものではなく、役者の働きによって生成されていく。役者の役の表現は初めから決まっているわけではない。互いのあいだの関係によって決まるもので、その関係が変化すれば表現も変わる。生命的要素の表現は、固定したものではなく、生成的なもので絶えず変化している。つまり、役者のあいだの関係が刻々と変わって、それに応じて各役者の状態も刻々変化し、その状態が役として表現されていくというわけだ。
一方、生き物は自己を表現し続けなければ、自己(主体性)を維持することができないというのは、生き物の構成的な特徴である。生き物は、それ自体一つの世界であり、一つの内的世界すなわち自己をもっている。自己とは自己言及する世界のことであり、その内的世界が自己言及活動をしていることが生き物の生きているということでもある。その内的世界は刻々と自己言及していく世界、すなわち自己を物語っていく歴史的世界であり、そのドラマ(自己言及活動)は刻々と自己を表現することによってはじめて存在できる。そしてその自己表現を刻々と世界の中に組み込んでいくということが歴史的に変化するということなのだ。
本書では、これを真剣勝負、とりわけ新陰流に擬して考える。予測できない無限定な状況の中で勝利を達成するために、リアルタイムの創出知の原理を具体的に示している。それ以前では塚原卜伝の「一の太刀」に代表される特殊な必殺技、つまり自己中心的観点から敵を見て、こうすれば敵に勝つという必要条件を満たすものであった。しかし、敵の状態は無限定なので必殺技をうまく使えるとは限らない。特殊を数多く集めた集合はあくまでも特殊の集合であって、けっして普遍にはならない。これは前に触れた一般的な科学技術の考えに重なる。これに対して新陰流の「截相」というコンセプトで真剣勝負の本質を変えてしまった。つまり、自己中心的観点で考えると、敵が自由に意思を発揮できるということは、こちらにはマイナスとなる。それをプラスに変える。というのも、人間が自由意志に従って自発的に行動を始めると、途中でその意思を変更するのは難しい。ということは、自由意志でいったん始めてしまった、敵の状態は限定される。この間は無限定性を回避できる。そこで、敵の動きに同調させ間を共有させる。それが新陰流の「転」である。本書では即興劇で、各役者が劇という場を共有してストーリーを生成し、各役者がそれに従うように、それぞれが整合的に動くようになっていくプロセスを重ね合わせる。
多くの役者が一緒に即興劇を始めるためには、それぞれの役者が無限定な状態をとって、そこから他の役者と整合的な関係を作るように自由自在の自己表現をしていくことが必要となる。そのためには、互いに気が合わなければならない。気が合うとは、各役者の歴史的世界の中に共有の場ができるということだ。具体的に言うと演劇という作業をするための作業仮説を共有するということだ。この作業仮説とはおおまかなシナリオといってもいい。それにより、各役者を一気に自己規定させ、むそれによって自己表現させる。ひとつの拘束条件である。「無」からの想像には拘束条件が必要なのだ。この拘束条件を場の状況に合わせて柔軟に自由自在に創り出す働きが「転」なのである。ここで、演技を始める各役者がそれぞれの心に持っているストーリーが、即興劇のシナリオになるとは限らない。それはドラマの中で役者全体によって作られる。劇場という場では役者だけではなく観客も、その創出に参加する。されは、即興劇が観客に受け入れられなければ成立しないからだ。本書では、西田幾多郎に倣って、即興劇のリアルタイムの創出知が創出される劇場を「場所」と呼ぶ。この場所で即興劇を演じるシナリオが作られるためには、場所全体を見渡すことができる観点に、役者が立つ必要がある。だから、場所というのは見渡すことのできる範囲のことであると言える。場所全体を見るということは、その場所には自分もいるわけなので、場所を見る観点とは、自己をその周囲の場所を見渡すことのできる観点ということができる。その場合の自己は二重構造を持っている。一つは自己中心的にものを見たり、決定をしたりする自己で、もうひとつは、その自己を場所の中に置いて、場所と自他分離をしない状態で超越的に見ている自己である。即興劇では、場所中心的自己がドラマのシナリオを作り、自己中心的な自己がシナリオに沿った演技をする。
この自己というものは、その内部から見なければ分からない。それと同時に自己が存在している場所の状況から分離して語ることはできない。それゆえ、自己について語ろうとすると、この二つの面、すなわち自己中心的観点と墓所中心的観点の二つの観点から記述していくことになる。したがって、自己が自己を表現することは、場所の中で行われている即興的なドラマに身を置いて、そのシナリオに合わせ自己表現をすることになる。すなわち、自己言及とは自己が劇団の一部として即興的なドラマを演じていくことと言える。具体的に言うと、新しい出来事に遭遇したときに、その出来事と自己との関係を知ることが、複雑で無限定な環境の中で生きていくために必要だ。それはその出来事を自己の中に位置付けるということであり、正確に言えば自己の歴史的世界の中に位置付けるということだ。したがって、自己は自己の歴史的世界の中に立って自己の周囲の環境を見ていることになるから、このことを内的観点に立つど言う。自己は自己の歴史的せかいをつくりながら、その世界の中に現在の自己を位置づけながら自己評価している。この自己を自己の中に位置付けることを自己言及という。これは、自己を自己の内部に位置づけるということだ。自己を自己の歴史的世界の中に位置付けながら、その自己を歴史的世界の中に組み込んでいくということが自己の基本的な働きである。その組み込みのために自己の歴史的世界が変化すると、再び自己をその新しい歴史的世界の中に位置付けて組み込んでいく作業を繰り返し続けている。その繰り返しのたびに見えない身体が無限定な状態になって、その無限定な状態の中に新しい自己を受け入れていく。これは雪だるまをつくるときに、表面の雪が一時的に溶けてそこに新しい雪が融合していくのに擬えることができる。生命的要素は、自己言及サイクルによって自己を歴史的な自己の中に絶えず位置づけながら、他方でその歴史的な自己を刻々と形成していく。即興劇では幾人かの役者が互いにまったく同じ役を演じることはできない。各役者が自己を大切にしようとするかぎり、各自の自己言及サイクルの間に相互に拒絶反応が働く。他方で、各役者の自己言及サイクルが全く無関係に回っているわけではない。一緒にドラマを演じている役者の演技は互いに間が合っている。それは自己言及サイクルの間に同調現象が起こっていることだ。
柳生新陰流の合撃という技は、相手が斬り下げてくる太刀を打ち載せて自分の中心線を斬り通す、そしてそのことによって相手を確実に斬るという技だ。この技の非施妙な間合いによるタイミングの差で確実に太刀を振るうことができるためには、その瞬間に彼我の意識のサイクルが同調している人ようがある。これは相手の動きを自由に許して、そしてその動きのタイミングに自分の意識のサイクルを合わせて太刀を振るうという方法を生む。その意味で合撃は即興劇に重なる。
新しい場所に一歩踏み込んだときに、その場所の詳細を認識する前にまず感じられる場所全体の印象が場の情報である。これは漠然とした認識で自他非分離の状態で得られる場所の認識である。したがってこれは、超越的な観点から場所を見ることによって得られた情報と言える。このような情報は具体的な個物(主語的情報)を包摂する情報で、個物という主語の場所における状態を記述する述語的な情報である。この述語的情報は自己を場所の中に置いて観察する関係的情報である。このような場の情報は包括的な述語情報で、そこからは具体的な個物(主語)は出てこない。4これは、述語的情報が場所の中に自己を置いて観察する関係的情報だから。このような対象化できない情報は自覚というかたちでしかとらえることができない。そのため情報の起源を捉えようとすれば自己の内側を見るしかない。それは自己の身体を内側から見るということで、それゆえ、自覚される場所とは内観される自己の身体ということである。
そして、場の情報がいったん得られると、場所の中の様々な個物が場所とどのような関係にあるかに目が移る。場所のありようを認識していくことは、その場所の様々な個物意味的なかかわりを見出していく。そこで、新しく様々な個物が゜意識されてくる。このとき、その新しい個物に関する情報が新たに入ってくる。その新しい個物を意味づけようとすると場の情報にフィードバックし、更新される。このような場の情報と、場所の中のさまざまな個物の意味が互いに辻褄の合って関係している整合的な状態が生まれてる。それがリアルタイムの創出が行われたということなのだ。
このとき、個別は普遍から直接生まれたのではなく、また、普遍も個別から直接出現するものでもない。主語的(個物的)および述語的(場的)情報がそれぞれ存在する自己中心的敵自己および場所中心的自己の無限定な状態から出発して、両者が協調的な働きによって、それぞれ整合的な個別と普遍として創出されてくる。例えば、即興劇のシナリオの生成は劇の進行とともに次々と進む。これは劇の進行とともに場が変化していくから。役者の主語的表現から見れば、誘導合致する相手(場)の状態が変化してしていくために、その場に刻々と誘導されて次々と新しい表現をしていくことになる、その新しい表現が劇を進行させる。リアルタイムの創造は、現在存在していないものを時々刻々と創り出していくということで、それは必然的にすぐそー先の未来の場所を創るということになる。即興劇では、役者は常にこの先にどのような表現をしていくかということを、過去だけでなく未来に目を向けて、そこから現在の表現を考えていくことが必要となる。
ところで、生命の自己表現には型があるが、その表現は型にはまっていない。型があるの「型」と型にはまらないの「型」は意味が違う。前者の型は普遍的な意味での型のことで、後者の型は個別的な型という意味だ。したがって、生命の特徴は普遍的な型はむもっているが、個別的な型には縛られていないということになる。柳生新陰流の特徴として「転」という原理を重んじるが、具体的な型にとらわれないところにある。日本の伝統文化の特徴は、リアルタイムの創造の原理の上に立って、独自の理と術を創ってきたところにある。その理と術の大部分が各人の内的な自覚の形で捉えられだけであったために、創造の原理そのものが論理的に捉えにくかった。リアルタイムの創造という自他非分離の原理を自他分離的認識を前提にした近代科学の方法と論理では解明できない。したがって、学問知識のように学習により習得できるものではない。それを本書では脱学習と呼んでいる。日本の伝統文化の習得では、まず一生懸命に型を学習する。それが基本で、次にその型にとらわれないことが必要とされる。それが学習という拘束からの解放、すなわち脱学習という。これは単に学習したことを忘れるということではない。これは、学習の個別性に拘束されている状態を抜けて、自由自在な想像を可能にする普遍性を獲得する。個別的な知識から、普遍的な立場を踏まえて、場所の状況に応じて適切な情報を自由自在に生成することに飛躍するリアルタイムの創造とは、現在まだ存在していない情報をつくるということだから、情報が創造された時には必ず未来になっている。つまり、その情報は未来に使われるものとして創造される。したがって、無限定な場所におけるリアルタイムの創造には、その場所における未来に関する仮説を立てることが必要になる。この仮説を立てるというのは、生き物のもっている重要な働き現在から未来への場所の変化を予想することが基礎となる。天敵のライオンを見た時に、この場所は危ないという未来を予測するのはひとつの仮説だ。この場所というのは自己と分離できないから、場所の未来には自己の未来も含まれている。だから、未来の場の聖性には自分自身が主体的に関わり合っている。つまり、自他非分離的に自己の未来を直感し、未来の生成に主体的に関わり合うのだ。
また、最初に型を学習するところに戻ると、自己無限定性というのは何もない状態ではないということだ。普遍的な型を持っていて、それは表現ルールを生成するルールを持っているということだ。そのルールを使って場を作り出し、個別的ルールを生成する。この典型が遺伝子だという。
前にもふれたように、場の情報を直感的に得るのであるが、例えば、即興劇では、それにより内部の即興劇場に場を生成する。つまり、ある対象を場所的に掴む、すなわちそれは、その場所的関係を自他非分離的に掴むことで、それはその場所の中の個物(役者)に自分自身を含めて、場所的関係全体を眺めるように超越的に掴むことだ。そのことは場所を内部劇場の場の中で捉えることである。それは情報を受け取った役者がそのままでは自己規定不可能な状態にあるので、次のどのように働けばよいのかきめてストーリーを部縫いの上で作っていく。そのために、認識には、「もの」や「こと」を中心とする主語的な対象信号と、それらが存在する場所の状況に関する述語的な場の信号という二系統の情報が必要であるということ。このときのストーリーというのは、各役者の演技をも劇全体の進行を方向づける働きを持っている。これは各薬種の演技をその場に合わせるように拘束する条件でもあり、述語的な操作情報である。ここでの各役者の表現は、個別的すなわち主語的なものだから、その役者の表現を指示する情報も具体的で個別的、すなわち無主語的な操作情報である。他方、劇の中の役者の演技の意味は、劇全体との関係で術語される。ストーリーは、各役者の演技をその場に合わせる述語的な操作情報である。この二つの操作情報の同時生成の鍵となるのが、主語的操作と術個的操作の誘導合致を伴って起きる自己言及サイクルという機構だ。即興劇における表現では、各役者のシナリオ生成が共通のストーリーの生成を伴って次々と進むことが必要かつ十分な条件なのだ。
このような二つの側面による拘束条件をつくる働きが生物的な創造知(リアルタイム創出知)の核心となる。剣士が無心に振る太刀の一振りが自己の内部の表現であるのは当たり前だが、それと同時に相手の心の動き、つまり相手の内部の状態と整合しているからこそ、後は相手を斬り倒す技術を理詰めで工夫してその技術を活用することができる。それは、無限定な状態からの出発、対象と場所的情報に関する二重情報、自己中心的自己と場所中心的自己という自己の二活動中心による受容、そして場所中心的自己による場の生成、その場と主語的表現の誘導合致によって生成される拘束条件と、それによって創出される両中心の整合的な状態の生成、すなわち間の合った空間的関係を伴った自己表現の創出というパターンは生き物の活動に共通している。
無限定ということは、何もないということではない、それは生みだす能力があるが、まだ生み出していない状態、いわば生みだす前の状態である。生き物が、この状態を内部にもつことを自己不完結性と呼んでいる。次に、生き物はこの状態を内部から限定する働きによって、新しい状態をつくり出す。これが拘束条件の自己生成による創出だ。つまり、自分の行為を限定する拘束条件(ストーリー)を自分自身でつくる。これは、自己言及世界をつくり、その世界の関係のなかに自己を位置付けると言い換えることができる。この場合、自己はそのなかに世界を位置づけるものであると同時に、その世界の中に位置付けられるものでもある。世界を自分のなかに位置づける自己は主語的自己、自己中心的自己に相当し、世界のなかに位置づけられる自己は述語的自己、場所中心的自己に相当する。この二つの自己は互いに常に整合的になるように相互に拘束受けて働いている自己中心的自己は他者を個と個の関係において捉える働きをもっていて、場所中心的自己は世界を超越的な視点から全体的に捉えるので、この二つの死せ個によって無捉えられる世界は、それぞれ一つの世界の二面であって、世界が同一であるかぎり、それらの二面は整合的でなければならない。

2024年9月18日 (水)

清水博「生命知としての場の論理─柳生新陰流に見る共創の理」

11112_20240918232101  10年前に読んだ本の再読
 著者は知には二つの種類があるという。ひとつは情報や知識のような既存の知を蓄積したものを「機械的な知」。もうひとつは「生物的な知」。哺乳類は未知の新しい出来事に遭遇しても、その場でリアルタイムに適切な判断をし、決断をしている。例えば、小さな草食動物は草原で、いつどんな危険が潜んでいるかわからない。そのような予測不可能な状況で既存の知の蓄積では対処しきれない。常に新しい状況に対処するリアルタイムの創出知が必要となるという。これは、既存の知識を勉強したりしても身に着くものではない。
 では、どうすればいいか?そこで大きなヒントとなるのが柳生新陰流。
 それ以前の剣法は、例えば新当流の塚原卜伝の“一の太刀”のように必殺の一撃による先制攻撃で相手を撃つ「個別性の剣法」が個別的に対応する方法であった。これは、“一の太刀”と既存の技に頼ったもので、想定外の事態に遭う、例えば一撃を躱されると不利になってしまう。これに対して、新陰流はあらゆる状況で相手に対処していく、いわば相手を働かせて、その働きに合わせて勝つということが特徴といえる。一刀流の太刀が勝負に勝つために必要という必要条件を備えている一方で、これがあれば必ず勝てるという十分条件を欠いている。これに対して新陰流は十分条件を満たすことを目標としている。そこに生物が生き残るという普遍性(こうすれば生き残ることができる)につながる。それが、現代で求められる知のあり方に通じるのではないか、というのが本書の主な内容。
 本書を読む限りでは、柳生新陰流はリアルタイムの創出知というほどのものには思えない。塚原卜伝の新当流が戦術的であるのに対して、柳生新陰流は戦略的という視点の違いで、どちらも個別性であるように思う。

 

2024年9月 8日 (日)

ジネット・ヌヴーの弾く「ブラームスのバイオリン協奏曲」

11113_20240908000301  クラシックでもジャズでも歴史的名演と呼ばれる録音がある。その多くは、のちに物語の尾ひれがついて、演奏そのものを離れて、後付けの物語が独り歩きして、実際に録音を聴くと拍子抜けしてしまうものも少なくない。
 この録音も、物語的要素がたくさんある。1948年5月3日ハンブルクにおける、ハンス・シュミット・イッセルシュテット指揮北ドイツ放送交響楽団によるブラームスのバイオリン協奏曲。バイオリンはジネット・ヌヴー。当時のドイツは第二次世界大戦の敗戦国で、1948年は未だ、ハンブルクという街角にも人々の心にも、その爪痕が色濃く残されていた。そこにフランス人若い女性バイオリニストが乗り込んできて、ドイツ音楽の真骨頂ともいうべきブラームスの協奏曲を弾くという。もし、日本で戦後の占領時代にアメリカ軍の軍楽隊が「君が代」をジャズ風にアレンジして、「どうが、すごいだろう」という態度で演奏してみせたとしたら、当時の日本人は、どう思うだろう。このブラームスの演奏に対しては、当時のハンブルクでは複雑な受けられ方をしたのではないか。
 それが証拠に、演奏の開始のオーケストラによるトゥッティは、およそシラケきっているというほど生気がない。テンポが不安定でダラしない。管楽器のピッチが合っていなくて、弦楽はバラバラで弾けていない。それが、ヌヴーのバイオリンが入ると激変する。オーケストラに火が灯り、やがて炎となって、しまいには全体が激しく燃焼するにいたる。当時の録音で、音質はよくないのだが、ヌヴーの熱演に引っ張られ、煽られることによって、オーケストラの気合の入り方が手に取るように変わっていく、目に見えてノリに乗っていくのが分かる。ヌヴーのバイオリンの音は硬質で、例えば、泰一楽章の最初のバイオリンの入りは、とても鋭い感じで、しかも他の人とは違って短く音を切って、巻き気味にはいる。それが息をつかせぬ緊張感として聞こえる。この掴みでオーケストラが引き込まれる。そこからの、この若いバイオリニストが手を変え品を変え、オーケストラ(プラス聴衆)を巻き込んでいく、時には、標準的な演奏から外れて(今日の正確な演奏ではありえない)、第1楽章の終わりごろには、オーケストラの音色が全く変わっている。この会場にいた聴衆は、それこそ一期一会の演奏に遭ったのだろうと思う。この録音は、そのことが分かる。
 それは、この人の弾き方はブラームスの内省的な面をあまり考慮していないというか、例えば第1楽章で第2主題に入っていくところは、ディミヌエンドしていって独り言のようにひそやかに歌うところを、この演奏では、むしろクレッシェンドして(おそらく譜面とは反対に弾いているのだろう)強く弾き切っている。それがオーケストラを煽ることになって、掛け合うオーケストラの音の高揚感がもの凄いことになる。しかも、このときのビブラートのバリエーションが凄い。一瞬一瞬の変化で、次にどういう音が出てくるか分からない。こんな風に煽られるオーケストラは堪ったもんじゃない。こういう強い演奏は、聴く人によっては押し付けがましく、うるさく聞こえてしまうだろう。しかし、この場のこの演奏では、それがハマっているのだ。だからこそ、この時、この場だけの一回こっきりのものだったと思う。ヌヴー自身も、これだけハイテンションに約40分弾き切るなんてことは、何度もできることではなかったと思う。

 

2024年9月 4日 (水)

渡邉雅子「「論理的思考」の社会的構築─フランスの思考表現スタイルと言葉の教育」(4)~終章 フランス社会の<論理>の構築─ディセルタシオンが導く思考表現スタイル

 思考表現しタイルとは、社会で共有された「書く型」に現われる「考える手続き」と「思考の型」を指す。人々がその手続きに沿って思考し、表現することで円滑なコミュニケーションが取れ、集団としてのまとまりが保てる。そのため、思考表現スタイルは、その社会で流通している論理を体現し、社会をまとめ成り立たせている論理をも示している。
 ディセルタシオンに現われるフランスの思考表現スタイルは、アメリカと比較すると、その特徴と意味づけがより明確になる。この時、フランスの共和主義とアメリカの民主主義は、普遍対ローカル、集団主義対個人主義、価値目的対技術目的といった両国の思考表現スタイルを成り立たせる基本原理を二項対立的に捉えるものに適している。
 フランスもアメリカも民主主義を掲げる国として一括りに見られる傾向がある。しかし、政治学では、市民性は大きく共和主義型と民主主義型の二つに類型化して考えられている。フランスに代表される共和主義型は、個人の利益よりも公正で平等な社会の実現を目指す「共通善の追求」を重視し、「公共の利益」を政治的な価値判断の基準とするのに対して、アメリカに代表される民主主義型は「個人の権利と自由」を重視して、その権利の侵害からいかに個人を守るかを判断の基準とする。共和主義では公共の利益優先のために個人的な資質や背景は問題にされず、むしろ特殊性を排して普遍性を追い求める。それに対して、アメリカの民主主義は、地域やアソシエーションなどのローカルな組織を通じて個人の権利や利益を反映させる。地元のコミュニティやローカルな組織は、宗教・文化・社会経済的な背景に基づいて組織されるものであり、アメリカの市民性はどこまでも具体的でローカルなもので、その根本には個人の目的達成があるからである。ディセルタシオンが具現化するフランスの思考表現スタイルが目的とするのは、フランス革命とその後の混迷という歴史的体験から実感し学んだ「不確実性に満ちた危うい未来」を目の前にして、公共の利益を優先させて公正な社会を実現させること、そのためにこの基準に照らして現状を批判的に分析・評価し、判断して行動を決断できるようになることである。フランス革命とその後の体験は、未来は一義的に決まるものではなく、異なる立場の人々の利害関係や伝統、自然環境、偶然に左右され、常に変化にさらされ不確実性に開いていると実感させた。そこでの政治的な行動には、自律して行動できる思考法とその表現の手続を技術として学ぶこと、そして思考し表現するための材料となる知識と、個人よも大きなもののために自発的に犠牲を払う価値としての教養を身に着けることが求められる。共和国の原理は理念としてあるために、現実を超えていく未来の試み以外にはなりえず、理念であるがゆえに、体験に基づく事実によって結論付けられる科学の実証性や効率性などの経済原理には還元されない。弁証法の思考の型が用いられるのは、それが現実にある種々な矛盾を解決し、理念の合理的な解釈を可能にするからである。既存の視点の新たな配置によって新しい視点を提供する、そしてより大きな全体像の構築へと向かうのである。
 これに対して、アメリカ型では個人の権利と自由が重視されるリベラル型の民主主義の社会で、公権力から個人の権利や自由を守り、個人がそれぞれの目的達成のために能力や個性を十分に発揮することが重視される。この基本は個人であり、個人の利益を代表するローカルなコミュニティやグループである。抽象的な政治的主体としての個人が国家に直接つながるフランスに対して、アリカでは具体的個人が利益や主張の違いにより利益集団を通じて政府に発言する。そこで、個人は個性的であること、個性の発現と見なされる創造力が重視される。そういうアメリカの思考表現スタイルを具現化しているエッセイは、書き手の主張を最初に述べて、主張の正しさを具体例で根拠づけ論証して読み手を説得することを目的とする。その構成は、まず結果を定め、結果から時間を遡って原因を探る逆因果律が思考の枠組みとなっている。その際、結果に対して遠い情報を排して、結果に近く、直接的に、強い情報を特定する。ここでは、分析するというのは、部分的な強い因果に注目して因果関係の特定に寄与しない情報を削ぎ落して単純化することを意味する。余分な情報を削ぎ落し、単純な因果関係を取り出す分析力が重視される。それは、情報を比較衡量して素早く決断して行動しやすくするためである。選択肢がまだあるうちに、目標達成に最も可能性が高く効率的な手段すばやく見つけることが重視される。

2024年9月 3日 (火)

渡邉雅子「「論理的思考」の社会的構築─フランスの思考表現スタイルと言葉の教育」(3)~第2章 哲学のディセルタシオンと哲学教育

 フランスの中等教育では哲学の授業があり、そこでディセルタシオンを用いた論証の習得が図られている。哲学の試験はディセルタシオンによる論証となり、その総仕上げがバカロレアである。哲学教育の目的は、現実の複雑さをよく゜理解し、現代社会に対する批判的意識を持つことのできる自律した精神を形成することであり、そのために生徒自身が分析的態度、正確な概念、知的責任を持てるようにする、その目的達成の方法を具現化しているのがディセルタシオンというわけだ。
 ディセルタシオンは、(正-反-合)の弁証法を基本構造としており、矛盾の解決を論文構造の原理と目的としている。異なる視点対決させて、(合)を導いたとき、前提を変えて俯瞰すると対立や矛盾していると見えていたことがらが一つのことがらの異なる側面となり、より積極的な視点を導き出すことが可能になる。この時に、矛盾は絶対的な白か黒かのような対立項ではなく、乗り越えていかねばならない問題として設定される。まず問題は何かを突き止め、その問題に対して逆説を問い、異なる視点(逆説)として提示される問題を解決しよう、答えを出そうとする知的営みと態度とがディセルタシオンを書く作業の意味だ。そのためには、一般に受け入れられている考えとは逆の考えすら全力で論証しなければならない。その後(合)をつくるためには、ものごとを見る視点の微妙なニュアンスの違いを吟味しなければならない。ある問題について深く追求するということの意味は、ここではあらゆる可能性を考え尽くすことである。それゆえ、ディセルタシオンを書くことの意味は、グラデーションであらゆる可能性を検討する訓練となる。その結果、矛盾を解決して答えを出すことができるという感覚を生徒に与える。

2024年9月 2日 (月)

渡邉雅子「「論理的思考」の社会的構築─フランスの思考表現スタイルと言葉の教育」(2)~第1章 論文の構造と論理の形

 論理的な正誤を厳密に判断できるのは形式論理のみである。形式論理では、形式上の正誤が論理の正誤として指摘される。他方修辞学(レトリック)では形式論理よりも人々の常識や通年をもとにしたある程度確実な推論の諸形式が説得のための証拠立ての方法として定式化されている。本書が注目するのは、語りの理論である。私たちはものを理解するときは、すべての情報を受け取っているわけではなく、重要な情報とそうでない情報を選り分け、その取捨選択の上に、ある出来事や状態を初めに考えたり、途中経過を考えたり、終わりと考えたりすることによって、つまり何らかの構造の中で捉えることによって、はじめてそれぞれの出来事に意味が与えられる。このような構造化には、多くの文化や社会に共通の普遍的な型だけでなく、文化や社会に固有の型もある。例えば、同じ物語を異なる国の被験者に聞かせてその記憶を再現させてみると、自分の文化にそぐわない部分は省略されたり、順番が入れ替わったりして、自己の文化の説明の型に合うように再解釈されてしまう。
 そのような型を区分し分類する際に、ここで指標としたのが統一性と一貫性である。統一性とは、説明に必要な部分がすべて揃っていると生まれる感覚である。一貫性はそれらの必要な部分が読み手に理解可能な順番で並んでいる感覚である。これら二つを総合すると、論理的であるということは、読み手にとって必要な部分が読み手の期待する順番に並んでいることから生まれる感覚であると言える。この場合の読み手にとってというところで、読み手にとって馴染んだ型があり、それが社会的・文化的につくられたものなのだ。
 本書では、その具体例として、とくにアメリカとフランスの学校で教えられる小論文の構造が違うことを取り上げる。
 まず、本書はアメリカの小論文をエッセイと呼んでいる。エッセイは、主張の提示、主張の根拠、結論の三部構成で、導入部で自己の主張を述べ、次に本体で主張を根拠づける証拠を述べ、結論で主張が正しいことを繰り返す。エッセイの大きな特徴は書き手の主張を最初に述べるところにある。というのも、思考の過程は観察やデータの分析から徐々に結論に向かって推論を進めていくのに対して、エッセイは結論を先に述べて思考の過程を倒立させることになる。そのため、後に続く文章は結論に関係することだけが述べられ、主張とその論証は相互に緊密に結ばれている。そのため、読み手にとっては、スッキリしていて一貫性が強く感じられる。
 これに対してフランス小論文は、本書では、ディセルタシオンと呼ばれる。ディセルタシオンは、エッセイと同じように三部構成をとるが、その中身は正-反-合の弁証法を基本構造にしている。まず、導入部分で中心になる主題を提示し、どのようにその主題を論じるかの全体構成を示す。この際に鍵となる概念を定義して、与えられた問いのどの側面について論じるのかを提起する。そして、本体となる展開部分では、主題に対する見方(正)、次にそれとは相反する見方(反)を示し、これら二つを総合する第三の見方(合)を提示し論証する。そして、結論部分は、これまでの議論の流れをまとめて結論として終わる。このようにディセルタシオンむでは、正-反の二つの視点間の矛盾の解決が目的で、それが論文構成の原理となっている。
 このようにエッセイとディセルタシオンの相違点は、正-反-合の反の部分がエッセイにはないことである。必然的に合の部分もエッセイにはない。伊佐感性については、エッセイは先に結論を述べてしまうが、ディセルタシオンは結論を最後まで述べない。このような論文構成の比較から明らかなことは、論理的であることの基準が米仏の小論文では異なるということである。エッセイでは、冒頭で結論を主張し、余分な情報を排除した主張と根拠の緊密性が論理的である感じさせる根拠となる。それに対して、ディセルタシオンは、書き手の問題提起に導かれた正-反-合の議論の流れが明確に構造化されていることと、それぞれの視点が引用によって厳密に論証されていることが要件となる。
 結果として、エッセイとディセルタシオンの構成が異なるというのは、同じ問いへの答え方が異なる、答えそのものが異なるということなのだ。エッセイでは、問いに対してイエスかノーかのいずれかが主張として提示され、論証され、結論となる。これに対して、ディセルタシオンは、イエスノーの二元論を超える答えを求めている。二つの面から正-反は、イエスでありノーでもある第三の道を導く。このようなディセルタシオンに対して、アメリカ社会では問われた質問に答えていない、つまり論理的でないと見なされてしまう。

2024年9月 1日 (日)

渡邉雅子「「論理的思考」の社会的構築─フランスの思考表現スタイルと言葉の教育」

11113_20240901234001  あとがきで著者は自身のアメリカ留学時の経験を述べている。論述の試験の答案には「評価不可能」と返され、その後どんなに工夫して提出しても「説明せよ」のコメントが繰り返されるばかり、それで途方に暮れていると、エッセイの書き方を教わり、その型通りに書くと、高評価を得ることができたという。つまり、形式を踏まえていないと、意味不明と門前払いされる。これが、日本の大学の場合なら、言いたいことは分かるのだが、書き方がよくないと、指導を受けるだろう。その形式というのがロジックということであり、それは考え方の筋道であるのが、それが実際に現われるのが書かれた文章というわけだ。日本語では、内容と形式について、形式は内容をうまく表わす手段で、論理的というは、その形式のひとつという捉え方が為されていると思うが、欧米の言語では内容と形式は重なるもので、形式を備えていないと内容は成立しない。そこで、西洋文化では論理的ということが同時に真理という意味を持つようになっている。その論理的ということは、日本人の私には普遍的であるように見えるが、当の西洋では、例えばフランスとアメリカでは論理的であるという基準が異なる。つまり、それぞれの社会である文章が論理的であったり、なかったりするというのだ。これには、正直いって驚いた。このことに驚くだけでも、本書を読む価値はある。
 ある事柄が論理的に正しいかどうかを証明するには、形式論理の形式を踏んでいるかによる。数学の証明がその典型である。しかし、論理的であることにはもうひとつの考え方がある。それは文化的に根差した論理、社会で作られた論理であり、本書では、これについて思考表現スタイルと呼んでテーマとした。
 思考表現スタイルは、社会で共有された「書く型」に現われる「考える道程」「考える手続き」を指している。つまり、書く型に現われる「思考の型」である。これは、ある社会のなかで説得しやすく納得しやすい型である。思考表現スタイルと、わざわざ表現スタイルとしていのは、個人の頭のなかで行われる主観的な認知や思考は、共有された型に沿って表現され実際に書かれることによって、観察や分析が可能な客観的なものになると同時に、他者とコミュニケート可能なもの、評価可能なものとなり、表現されることで社会的な帰納を持つ。そのスタイル、各社会で支配的な論理、その背後にある価値観や行動の原理を土台にしている。本書では、そのプロセスが端的に現われるのが学校教育だといい、とくに小論文の教育に注目する。その具体例として、フランスの論文形式であるディセルタシオンとアメリカの論文形式であるエッセイを対比的に取り上げる。

 

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