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2024年9月24日 (火)

清水博「生命知としての場の論理─柳生新陰流に見る共創の理」(3)~Ⅱ.剣の理と場所の理

著者と柳生宗家との対話か中心となり、柳生新陰流の原理を考察する。
それまでの戦国中古の諸剣法、例えば新当流の塚原卜伝の゜一の太刀のように得意技中心に組み立てられた「個別性の剣法」が個別的に対応する方法であったのに対して、新陰流は「普遍性の剣法」、つまり普遍的対応する刀法であった。この場合の普遍とは、複雑に場所のなかで、その場所に整合的になるように自己を創出し続けるということで、この場合の複雑な場所とは、知識のない出来事、教えられたことのない出来事が絶えず起きる世界である。このような場所で生き続けるための十分条件が、適切な情報を刻々と創出し、その情報によって自己を制御する性質、つまり創出的な自律性である。具体的には、新しい出来事の自己にとっての意味を絶えず適切に発見して行き、その発見に基づいて、自己と偽書とか整合的になるように。刻々と自己制御していく。リアルタイムに創出される情報とは、その出来事の意味をリアルタイムに判断すねための新しい意味、そしてそれに基づいて自分の状況を適切に制御するための新しい操作に関する情報である。
ひとつの場所で行われる真剣勝負を普遍的な観点から捉えてみると、それは敵対する両者を包含する複雑な場所のなかで二人が真剣をもって演じる即興劇に擬せられる。その劇のシナリオは役者である彼らが演じながら創り上げていくものであり、同時に彼らの動きを拘束する条件にもなる。真剣勝負において相手に勝つためには、即興劇の進行の主導権を握らなければならない。そのためには、自分に有利なシナリオにしたがって相手を働かせ、その上で相手の拍子に合わせつつ目的を達成することが必要だ。そこで欠かせないのが、即興劇の筋の進行方向から劇場全体、さらに役者の心理状態に至るまでを見立てる。また、物語の筋を創ることは、時間の流れを創ることでもある理で、適切なタイミングで相手に働きかけることも重要になる。
現代のスポーツ化した剣道はルールに基づいて勝敗を競う。これに対して武道としての剣はルールなしに相手に対したとき、どのように勝つかという刀法を追求したもの。それが型として今日に伝えられている。このルールのない状態は、本書で言う無限定な状態といえる。
普遍の理を実際に技として使う場合に必要になってくるのが活人剣という考え方だ。活人剣が目指しているのは、敵を抑えつけて勝つのではなく、敵の動きに従って勝つということ。この働きを出させるところが柳生新陰流のユニークなところ。敵に向かうとき、「無形の位」で対する。これは自身を捧げるということに通じる構えで、まな板の上の鯉になる気持ちになると、自然と相手の働きが見えてきて、その働きにしたがって勝つというもの。そして、相手を働かせるというか、相手が自ら働いてしまうように仕向ける。そのために「先々の先」という気持ちを常に持っている。「無形の位」で対してはいるけれど、「先」は持っている。技の面から言うと、活人剣で闘うというのは、向こうが截り出さざるを得ないように仕向けるということだ。これが「迎え」で、相手がどこを打ちたいと思う刹那に、こちらはさあ打ちなさいという形でもっていく。普通はそれを押さえようとする、例えば現代の剣道では相手が小手を狙っていたら打たれまいと対決する。そこで、敵はシナリオを変えてくる。こうして互いに疑心暗鬼になり、永遠の迷いに陥る。これに対して、柳生新陰流では、敵とこちらの心を一つにする。向こう側が小手を打ちたいと、どうぞ打ってくださいと歓迎するので、そうすると小手を打ってくる。
ただしこのとき、こちらは主導権を握っていて、向こう側を7誘導するように働かすことが必要で、そのときに重要な働きをするのが拍子、つまりリズムで。相手に合わせるというのはリズムを同調させる。しかし、それでは、膠着状態になり、勝つには至らない。その時の手段として「欠く拍子」を使う。それは、截相が生ずるギリギリの間合いで中段に構えながら、相手の隙を窺っているとき、瞬間的に一気に下段にまで太刀先を下げてしまう。これは自分の方に隙を作ることになるので、相手は自然に截り込もうとする。その瞬間にこちらは太刀を上げて、相手ののど元に突きつける…。

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