清水博「生命知としての場の論理─柳生新陰流に見る共創の理」(2)~Ⅰ.場所とは何か
我々が生きている社会はきわめて複雑なもので、毎日は思いがけないこと、予期していないことの連続だ。自然環境も同じように複雑なものだ。ここでは、我々の知識を超えるようなことが、頻繁に起こる。このような既存の知識を超える不確実性のことを、本書では「無限定性」と呼ぶ。無限定な事件が絶えず起きている複雑な環境の中で、人間やその組織が生き残っていく画を゜教えてくれる知を、「生物的な知」と呼ぶ。これに対して、クイズの回答のように既存の知を蓄積したものを「機械的な知」と呼ぶ。もとより、機械的な知では無限定性にパ対処しきれない。
生物的な知は身体的な知でもある。その場で身体を使って、ある行為をはじめて行うためのものであるからで、それは知識からではなく、こうしたいという身体的欲求から生じるものである。例えば腹が減ったから、エサを探す。生命的な知の原理には二つのタイプがある。ひとつは試行錯誤で、例えばバクテリアに抗生物質を投与すると死んでしまうが、次第に抵抗力をつけていく。これは、最初はバクテリアにとって抗生物質は無限定で知識がなかったが、慣れてくるにしたがって抵抗力つまり耐性ができということは、それを乗り越える知を持ったというものです。もうひとつは、試行錯誤のようなトライ&エラーが許されない、一回限りのケースではリアルタイムの創出知が働く。本書のテーマは、このリアルタイムの創出知だ。その原理が端的に現われているものとして、本書では真剣勝負をとりあげる。
「リアルタイムの創出知」のリアルタイムの創出とは刻々と創造することで、高度な生き物が基本的に有しているものである。その特徴は、第一に生き物であるということ、第二に自己を外に向けて表現すること、第三に表出された表現は一定ではなく、刻々と新しい関係が生成し消滅する繰り返しに応じて刻々と変化するということ、第四に一定の自己を保持しつづけること、これが主体性である。第五に、それぞれの主体性を保持したうえで、相互に協力し合い整合的な表現をすることができる関係を生成すること、第六に、これらの多様性の一方で多数の要素の集まりが全体として一つの統合された表現を表出することである。これらから言えることは、各生命的要素はそれぞれ自律的で特異的な表現をする個でありながら、決してそれだけには留まっていない。つまり、個を表現すると同時に、その個としての立場を超越して全体的な立場に立って、全体が一つのひとつの表現をすることができるように、個々の表現を決定している。すなわち、個としての特異的な表現をするということは、生命的要素の自己表現の必要条件ですが、この必要条件を満たしたうえで、周囲の自己表現と整合的になることができるような自己表現には、一般にまだ無数の可能性があるために具体的にどのような表現をすべきかを決めることができない。これは十分自要件が欠けているためだ。そこで、これらの必要条件と整合性条件を満たしながら、同時に全体として統一された表現が行われるように、各生命的要素が自己表現を決定することによって、表現が具体的に決まる。そこで、自己表出の必要十分条件が充たされる。また、人間が集まって社会的な組織をつくるときには、互いの働き(表現)の間に整合的な関係をつくり、それぞれに自己を表現しながら、互いの間に整合的な関係ができるようにする。そして、いったん整合的な表現ができると、再びその表現を生成しやすいように自己が変化する。例えば、組織の中で各人の分担が自然に決まる、同じ人でも組織の中の関係によって、地位や分担、働き方が変わる。これは組織的な関係における自己表現に相当する。それぞれの自己表現が互いに異なっていることが組織のために必要であり、その各人の分担が自然に決まるということは、その組織が全体として共通の目標を追求しているからこそ可能となる。言い換えると、その組織全体としての表現をしようとしているからである。共通の目的を持つことが十分条件を持つために必要だとも言える。
このようにさまざまな役割を自発的に分担する場合にも、全体を見まわすことができる超越的観点に立って、自己を見ることが必要になる。一般に人間は自己の行為を見ている超越的な自己があるが、その自己超越性は多様性と統一性を結び付けるために必要な性質だ。そこで自己超越性は生命的要素が持っている基本的な性質であると言える。このように関係に従って自己を自律的に決めることを「自己を表現する」と本書では呼ぶ。そのために必要な生命的要素を「関係子」と呼ぶ。
関係子が自己を表現するということは、関係子が自己を自己言及的に表現することだ。それは、自己の内部でつくったルールに従って自己を表現していくこと、つまり、新しいルールをつくるときの基準が関係子自身の内部に存在している。
時間的な側面から関係子による自己表現を見ると、現在(表現すること)は過去(表現したこと)から切り離せない存在であり、同様にその現在が未来に影響を与える。されだけではなく、逆に未来が現在に影響を与える。例えば将来の目標に対して現在努力するということがある。このように現在は、過去とも未来とも好意的な意味でつながっている。それは過去─現在─未来という連続した時間の流れの中にある現在であり、言い換えれば歴史的な時間の流れの中における現在である。関係子が歴史的な時間の流れの中で自己表現をしているということは、関係子の自己表現が本質的にドラマ的であることを意味している。
自己が自己自身を表現しようとする欲望、すなわち自己表現性は生命の大きな特徴である。この自己表現のためには何が必要か、またどのような原理で自己表現を行うのか。生き物の普遍的な性質は、秩序のないところに秩序を創り出すというところにある。この性質のことを自己組織性というが、秩序が創り出される原因としては、生きるものが共働性を持った要素の集まりからできていて、その要素の空いた背に共働的な関係が生成するからだと考えられている。
一般に要素とその間に生成する関係を出発点にして集まり(システム)である生き物の性質を理解しようとするのが科学技術の考え方だ。しかし、関係子の集まりについて、その捉え方では捉え切れない。関係子は、ドラマの中で相互の間に生成する関係に従って、どんな役でも自在に演じることができる役者に譬えることができる。この場合、ドラマははじめから決まったものではなく、役者の働きによって生成されていく。役者の役の表現は初めから決まっているわけではない。互いのあいだの関係によって決まるもので、その関係が変化すれば表現も変わる。生命的要素の表現は、固定したものではなく、生成的なもので絶えず変化している。つまり、役者のあいだの関係が刻々と変わって、それに応じて各役者の状態も刻々変化し、その状態が役として表現されていくというわけだ。
一方、生き物は自己を表現し続けなければ、自己(主体性)を維持することができないというのは、生き物の構成的な特徴である。生き物は、それ自体一つの世界であり、一つの内的世界すなわち自己をもっている。自己とは自己言及する世界のことであり、その内的世界が自己言及活動をしていることが生き物の生きているということでもある。その内的世界は刻々と自己言及していく世界、すなわち自己を物語っていく歴史的世界であり、そのドラマ(自己言及活動)は刻々と自己を表現することによってはじめて存在できる。そしてその自己表現を刻々と世界の中に組み込んでいくということが歴史的に変化するということなのだ。
本書では、これを真剣勝負、とりわけ新陰流に擬して考える。予測できない無限定な状況の中で勝利を達成するために、リアルタイムの創出知の原理を具体的に示している。それ以前では塚原卜伝の「一の太刀」に代表される特殊な必殺技、つまり自己中心的観点から敵を見て、こうすれば敵に勝つという必要条件を満たすものであった。しかし、敵の状態は無限定なので必殺技をうまく使えるとは限らない。特殊を数多く集めた集合はあくまでも特殊の集合であって、けっして普遍にはならない。これは前に触れた一般的な科学技術の考えに重なる。これに対して新陰流の「截相」というコンセプトで真剣勝負の本質を変えてしまった。つまり、自己中心的観点で考えると、敵が自由に意思を発揮できるということは、こちらにはマイナスとなる。それをプラスに変える。というのも、人間が自由意志に従って自発的に行動を始めると、途中でその意思を変更するのは難しい。ということは、自由意志でいったん始めてしまった、敵の状態は限定される。この間は無限定性を回避できる。そこで、敵の動きに同調させ間を共有させる。それが新陰流の「転」である。本書では即興劇で、各役者が劇という場を共有してストーリーを生成し、各役者がそれに従うように、それぞれが整合的に動くようになっていくプロセスを重ね合わせる。
多くの役者が一緒に即興劇を始めるためには、それぞれの役者が無限定な状態をとって、そこから他の役者と整合的な関係を作るように自由自在の自己表現をしていくことが必要となる。そのためには、互いに気が合わなければならない。気が合うとは、各役者の歴史的世界の中に共有の場ができるということだ。具体的に言うと演劇という作業をするための作業仮説を共有するということだ。この作業仮説とはおおまかなシナリオといってもいい。それにより、各役者を一気に自己規定させ、むそれによって自己表現させる。ひとつの拘束条件である。「無」からの想像には拘束条件が必要なのだ。この拘束条件を場の状況に合わせて柔軟に自由自在に創り出す働きが「転」なのである。ここで、演技を始める各役者がそれぞれの心に持っているストーリーが、即興劇のシナリオになるとは限らない。それはドラマの中で役者全体によって作られる。劇場という場では役者だけではなく観客も、その創出に参加する。されは、即興劇が観客に受け入れられなければ成立しないからだ。本書では、西田幾多郎に倣って、即興劇のリアルタイムの創出知が創出される劇場を「場所」と呼ぶ。この場所で即興劇を演じるシナリオが作られるためには、場所全体を見渡すことができる観点に、役者が立つ必要がある。だから、場所というのは見渡すことのできる範囲のことであると言える。場所全体を見るということは、その場所には自分もいるわけなので、場所を見る観点とは、自己をその周囲の場所を見渡すことのできる観点ということができる。その場合の自己は二重構造を持っている。一つは自己中心的にものを見たり、決定をしたりする自己で、もうひとつは、その自己を場所の中に置いて、場所と自他分離をしない状態で超越的に見ている自己である。即興劇では、場所中心的自己がドラマのシナリオを作り、自己中心的な自己がシナリオに沿った演技をする。
この自己というものは、その内部から見なければ分からない。それと同時に自己が存在している場所の状況から分離して語ることはできない。それゆえ、自己について語ろうとすると、この二つの面、すなわち自己中心的観点と墓所中心的観点の二つの観点から記述していくことになる。したがって、自己が自己を表現することは、場所の中で行われている即興的なドラマに身を置いて、そのシナリオに合わせ自己表現をすることになる。すなわち、自己言及とは自己が劇団の一部として即興的なドラマを演じていくことと言える。具体的に言うと、新しい出来事に遭遇したときに、その出来事と自己との関係を知ることが、複雑で無限定な環境の中で生きていくために必要だ。それはその出来事を自己の中に位置付けるということであり、正確に言えば自己の歴史的世界の中に位置付けるということだ。したがって、自己は自己の歴史的世界の中に立って自己の周囲の環境を見ていることになるから、このことを内的観点に立つど言う。自己は自己の歴史的せかいをつくりながら、その世界の中に現在の自己を位置づけながら自己評価している。この自己を自己の中に位置付けることを自己言及という。これは、自己を自己の内部に位置づけるということだ。自己を自己の歴史的世界の中に位置付けながら、その自己を歴史的世界の中に組み込んでいくということが自己の基本的な働きである。その組み込みのために自己の歴史的世界が変化すると、再び自己をその新しい歴史的世界の中に位置付けて組み込んでいく作業を繰り返し続けている。その繰り返しのたびに見えない身体が無限定な状態になって、その無限定な状態の中に新しい自己を受け入れていく。これは雪だるまをつくるときに、表面の雪が一時的に溶けてそこに新しい雪が融合していくのに擬えることができる。生命的要素は、自己言及サイクルによって自己を歴史的な自己の中に絶えず位置づけながら、他方でその歴史的な自己を刻々と形成していく。即興劇では幾人かの役者が互いにまったく同じ役を演じることはできない。各役者が自己を大切にしようとするかぎり、各自の自己言及サイクルの間に相互に拒絶反応が働く。他方で、各役者の自己言及サイクルが全く無関係に回っているわけではない。一緒にドラマを演じている役者の演技は互いに間が合っている。それは自己言及サイクルの間に同調現象が起こっていることだ。
柳生新陰流の合撃という技は、相手が斬り下げてくる太刀を打ち載せて自分の中心線を斬り通す、そしてそのことによって相手を確実に斬るという技だ。この技の非施妙な間合いによるタイミングの差で確実に太刀を振るうことができるためには、その瞬間に彼我の意識のサイクルが同調している人ようがある。これは相手の動きを自由に許して、そしてその動きのタイミングに自分の意識のサイクルを合わせて太刀を振るうという方法を生む。その意味で合撃は即興劇に重なる。
新しい場所に一歩踏み込んだときに、その場所の詳細を認識する前にまず感じられる場所全体の印象が場の情報である。これは漠然とした認識で自他非分離の状態で得られる場所の認識である。したがってこれは、超越的な観点から場所を見ることによって得られた情報と言える。このような情報は具体的な個物(主語的情報)を包摂する情報で、個物という主語の場所における状態を記述する述語的な情報である。この述語的情報は自己を場所の中に置いて観察する関係的情報である。このような場の情報は包括的な述語情報で、そこからは具体的な個物(主語)は出てこない。4これは、述語的情報が場所の中に自己を置いて観察する関係的情報だから。このような対象化できない情報は自覚というかたちでしかとらえることができない。そのため情報の起源を捉えようとすれば自己の内側を見るしかない。それは自己の身体を内側から見るということで、それゆえ、自覚される場所とは内観される自己の身体ということである。
そして、場の情報がいったん得られると、場所の中の様々な個物が場所とどのような関係にあるかに目が移る。場所のありようを認識していくことは、その場所の様々な個物意味的なかかわりを見出していく。そこで、新しく様々な個物が゜意識されてくる。このとき、その新しい個物に関する情報が新たに入ってくる。その新しい個物を意味づけようとすると場の情報にフィードバックし、更新される。このような場の情報と、場所の中のさまざまな個物の意味が互いに辻褄の合って関係している整合的な状態が生まれてる。それがリアルタイムの創出が行われたということなのだ。
このとき、個別は普遍から直接生まれたのではなく、また、普遍も個別から直接出現するものでもない。主語的(個物的)および述語的(場的)情報がそれぞれ存在する自己中心的敵自己および場所中心的自己の無限定な状態から出発して、両者が協調的な働きによって、それぞれ整合的な個別と普遍として創出されてくる。例えば、即興劇のシナリオの生成は劇の進行とともに次々と進む。これは劇の進行とともに場が変化していくから。役者の主語的表現から見れば、誘導合致する相手(場)の状態が変化してしていくために、その場に刻々と誘導されて次々と新しい表現をしていくことになる、その新しい表現が劇を進行させる。リアルタイムの創造は、現在存在していないものを時々刻々と創り出していくということで、それは必然的にすぐそー先の未来の場所を創るということになる。即興劇では、役者は常にこの先にどのような表現をしていくかということを、過去だけでなく未来に目を向けて、そこから現在の表現を考えていくことが必要となる。
ところで、生命の自己表現には型があるが、その表現は型にはまっていない。型があるの「型」と型にはまらないの「型」は意味が違う。前者の型は普遍的な意味での型のことで、後者の型は個別的な型という意味だ。したがって、生命の特徴は普遍的な型はむもっているが、個別的な型には縛られていないということになる。柳生新陰流の特徴として「転」という原理を重んじるが、具体的な型にとらわれないところにある。日本の伝統文化の特徴は、リアルタイムの創造の原理の上に立って、独自の理と術を創ってきたところにある。その理と術の大部分が各人の内的な自覚の形で捉えられだけであったために、創造の原理そのものが論理的に捉えにくかった。リアルタイムの創造という自他非分離の原理を自他分離的認識を前提にした近代科学の方法と論理では解明できない。したがって、学問知識のように学習により習得できるものではない。それを本書では脱学習と呼んでいる。日本の伝統文化の習得では、まず一生懸命に型を学習する。それが基本で、次にその型にとらわれないことが必要とされる。それが学習という拘束からの解放、すなわち脱学習という。これは単に学習したことを忘れるということではない。これは、学習の個別性に拘束されている状態を抜けて、自由自在な想像を可能にする普遍性を獲得する。個別的な知識から、普遍的な立場を踏まえて、場所の状況に応じて適切な情報を自由自在に生成することに飛躍するリアルタイムの創造とは、現在まだ存在していない情報をつくるということだから、情報が創造された時には必ず未来になっている。つまり、その情報は未来に使われるものとして創造される。したがって、無限定な場所におけるリアルタイムの創造には、その場所における未来に関する仮説を立てることが必要になる。この仮説を立てるというのは、生き物のもっている重要な働き現在から未来への場所の変化を予想することが基礎となる。天敵のライオンを見た時に、この場所は危ないという未来を予測するのはひとつの仮説だ。この場所というのは自己と分離できないから、場所の未来には自己の未来も含まれている。だから、未来の場の聖性には自分自身が主体的に関わり合っている。つまり、自他非分離的に自己の未来を直感し、未来の生成に主体的に関わり合うのだ。
また、最初に型を学習するところに戻ると、自己無限定性というのは何もない状態ではないということだ。普遍的な型を持っていて、それは表現ルールを生成するルールを持っているということだ。そのルールを使って場を作り出し、個別的ルールを生成する。この典型が遺伝子だという。
前にもふれたように、場の情報を直感的に得るのであるが、例えば、即興劇では、それにより内部の即興劇場に場を生成する。つまり、ある対象を場所的に掴む、すなわちそれは、その場所的関係を自他非分離的に掴むことで、それはその場所の中の個物(役者)に自分自身を含めて、場所的関係全体を眺めるように超越的に掴むことだ。そのことは場所を内部劇場の場の中で捉えることである。それは情報を受け取った役者がそのままでは自己規定不可能な状態にあるので、次のどのように働けばよいのかきめてストーリーを部縫いの上で作っていく。そのために、認識には、「もの」や「こと」を中心とする主語的な対象信号と、それらが存在する場所の状況に関する述語的な場の信号という二系統の情報が必要であるということ。このときのストーリーというのは、各役者の演技をも劇全体の進行を方向づける働きを持っている。これは各薬種の演技をその場に合わせるように拘束する条件でもあり、述語的な操作情報である。ここでの各役者の表現は、個別的すなわち主語的なものだから、その役者の表現を指示する情報も具体的で個別的、すなわち無主語的な操作情報である。他方、劇の中の役者の演技の意味は、劇全体との関係で術語される。ストーリーは、各役者の演技をその場に合わせる述語的な操作情報である。この二つの操作情報の同時生成の鍵となるのが、主語的操作と術個的操作の誘導合致を伴って起きる自己言及サイクルという機構だ。即興劇における表現では、各役者のシナリオ生成が共通のストーリーの生成を伴って次々と進むことが必要かつ十分な条件なのだ。
このような二つの側面による拘束条件をつくる働きが生物的な創造知(リアルタイム創出知)の核心となる。剣士が無心に振る太刀の一振りが自己の内部の表現であるのは当たり前だが、それと同時に相手の心の動き、つまり相手の内部の状態と整合しているからこそ、後は相手を斬り倒す技術を理詰めで工夫してその技術を活用することができる。それは、無限定な状態からの出発、対象と場所的情報に関する二重情報、自己中心的自己と場所中心的自己という自己の二活動中心による受容、そして場所中心的自己による場の生成、その場と主語的表現の誘導合致によって生成される拘束条件と、それによって創出される両中心の整合的な状態の生成、すなわち間の合った空間的関係を伴った自己表現の創出というパターンは生き物の活動に共通している。
無限定ということは、何もないということではない、それは生みだす能力があるが、まだ生み出していない状態、いわば生みだす前の状態である。生き物が、この状態を内部にもつことを自己不完結性と呼んでいる。次に、生き物はこの状態を内部から限定する働きによって、新しい状態をつくり出す。これが拘束条件の自己生成による創出だ。つまり、自分の行為を限定する拘束条件(ストーリー)を自分自身でつくる。これは、自己言及世界をつくり、その世界の関係のなかに自己を位置付けると言い換えることができる。この場合、自己はそのなかに世界を位置づけるものであると同時に、その世界の中に位置付けられるものでもある。世界を自分のなかに位置づける自己は主語的自己、自己中心的自己に相当し、世界のなかに位置づけられる自己は述語的自己、場所中心的自己に相当する。この二つの自己は互いに常に整合的になるように相互に拘束受けて働いている自己中心的自己は他者を個と個の関係において捉える働きをもっていて、場所中心的自己は世界を超越的な視点から全体的に捉えるので、この二つの死せ個によって無捉えられる世界は、それぞれ一つの世界の二面であって、世界が同一であるかぎり、それらの二面は整合的でなければならない。
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