渡邉雅子「「論理的思考」の社会的構築─フランスの思考表現スタイルと言葉の教育」(2)~第1章 論文の構造と論理の形
論理的な正誤を厳密に判断できるのは形式論理のみである。形式論理では、形式上の正誤が論理の正誤として指摘される。他方修辞学(レトリック)では形式論理よりも人々の常識や通年をもとにしたある程度確実な推論の諸形式が説得のための証拠立ての方法として定式化されている。本書が注目するのは、語りの理論である。私たちはものを理解するときは、すべての情報を受け取っているわけではなく、重要な情報とそうでない情報を選り分け、その取捨選択の上に、ある出来事や状態を初めに考えたり、途中経過を考えたり、終わりと考えたりすることによって、つまり何らかの構造の中で捉えることによって、はじめてそれぞれの出来事に意味が与えられる。このような構造化には、多くの文化や社会に共通の普遍的な型だけでなく、文化や社会に固有の型もある。例えば、同じ物語を異なる国の被験者に聞かせてその記憶を再現させてみると、自分の文化にそぐわない部分は省略されたり、順番が入れ替わったりして、自己の文化の説明の型に合うように再解釈されてしまう。
そのような型を区分し分類する際に、ここで指標としたのが統一性と一貫性である。統一性とは、説明に必要な部分がすべて揃っていると生まれる感覚である。一貫性はそれらの必要な部分が読み手に理解可能な順番で並んでいる感覚である。これら二つを総合すると、論理的であるということは、読み手にとって必要な部分が読み手の期待する順番に並んでいることから生まれる感覚であると言える。この場合の読み手にとってというところで、読み手にとって馴染んだ型があり、それが社会的・文化的につくられたものなのだ。
本書では、その具体例として、とくにアメリカとフランスの学校で教えられる小論文の構造が違うことを取り上げる。
まず、本書はアメリカの小論文をエッセイと呼んでいる。エッセイは、主張の提示、主張の根拠、結論の三部構成で、導入部で自己の主張を述べ、次に本体で主張を根拠づける証拠を述べ、結論で主張が正しいことを繰り返す。エッセイの大きな特徴は書き手の主張を最初に述べるところにある。というのも、思考の過程は観察やデータの分析から徐々に結論に向かって推論を進めていくのに対して、エッセイは結論を先に述べて思考の過程を倒立させることになる。そのため、後に続く文章は結論に関係することだけが述べられ、主張とその論証は相互に緊密に結ばれている。そのため、読み手にとっては、スッキリしていて一貫性が強く感じられる。
これに対してフランス小論文は、本書では、ディセルタシオンと呼ばれる。ディセルタシオンは、エッセイと同じように三部構成をとるが、その中身は正-反-合の弁証法を基本構造にしている。まず、導入部分で中心になる主題を提示し、どのようにその主題を論じるかの全体構成を示す。この際に鍵となる概念を定義して、与えられた問いのどの側面について論じるのかを提起する。そして、本体となる展開部分では、主題に対する見方(正)、次にそれとは相反する見方(反)を示し、これら二つを総合する第三の見方(合)を提示し論証する。そして、結論部分は、これまでの議論の流れをまとめて結論として終わる。このようにディセルタシオンむでは、正-反の二つの視点間の矛盾の解決が目的で、それが論文構成の原理となっている。
このようにエッセイとディセルタシオンの相違点は、正-反-合の反の部分がエッセイにはないことである。必然的に合の部分もエッセイにはない。伊佐感性については、エッセイは先に結論を述べてしまうが、ディセルタシオンは結論を最後まで述べない。このような論文構成の比較から明らかなことは、論理的であることの基準が米仏の小論文では異なるということである。エッセイでは、冒頭で結論を主張し、余分な情報を排除した主張と根拠の緊密性が論理的である感じさせる根拠となる。それに対して、ディセルタシオンは、書き手の問題提起に導かれた正-反-合の議論の流れが明確に構造化されていることと、それぞれの視点が引用によって厳密に論証されていることが要件となる。
結果として、エッセイとディセルタシオンの構成が異なるというのは、同じ問いへの答え方が異なる、答えそのものが異なるということなのだ。エッセイでは、問いに対してイエスかノーかのいずれかが主張として提示され、論証され、結論となる。これに対して、ディセルタシオンは、イエスノーの二元論を超える答えを求めている。二つの面から正-反は、イエスでありノーでもある第三の道を導く。このようなディセルタシオンに対して、アメリカ社会では問われた質問に答えていない、つまり論理的でないと見なされてしまう。
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