渡邉雅子「「論理的思考」の社会的構築─フランスの思考表現スタイルと言葉の教育」
あとがきで著者は自身のアメリカ留学時の経験を述べている。論述の試験の答案には「評価不可能」と返され、その後どんなに工夫して提出しても「説明せよ」のコメントが繰り返されるばかり、それで途方に暮れていると、エッセイの書き方を教わり、その型通りに書くと、高評価を得ることができたという。つまり、形式を踏まえていないと、意味不明と門前払いされる。これが、日本の大学の場合なら、言いたいことは分かるのだが、書き方がよくないと、指導を受けるだろう。その形式というのがロジックということであり、それは考え方の筋道であるのが、それが実際に現われるのが書かれた文章というわけだ。日本語では、内容と形式について、形式は内容をうまく表わす手段で、論理的というは、その形式のひとつという捉え方が為されていると思うが、欧米の言語では内容と形式は重なるもので、形式を備えていないと内容は成立しない。そこで、西洋文化では論理的ということが同時に真理という意味を持つようになっている。その論理的ということは、日本人の私には普遍的であるように見えるが、当の西洋では、例えばフランスとアメリカでは論理的であるという基準が異なる。つまり、それぞれの社会である文章が論理的であったり、なかったりするというのだ。これには、正直いって驚いた。このことに驚くだけでも、本書を読む価値はある。
ある事柄が論理的に正しいかどうかを証明するには、形式論理の形式を踏んでいるかによる。数学の証明がその典型である。しかし、論理的であることにはもうひとつの考え方がある。それは文化的に根差した論理、社会で作られた論理であり、本書では、これについて思考表現スタイルと呼んでテーマとした。
思考表現スタイルは、社会で共有された「書く型」に現われる「考える道程」「考える手続き」を指している。つまり、書く型に現われる「思考の型」である。これは、ある社会のなかで説得しやすく納得しやすい型である。思考表現スタイルと、わざわざ表現スタイルとしていのは、個人の頭のなかで行われる主観的な認知や思考は、共有された型に沿って表現され実際に書かれることによって、観察や分析が可能な客観的なものになると同時に、他者とコミュニケート可能なもの、評価可能なものとなり、表現されることで社会的な帰納を持つ。そのスタイル、各社会で支配的な論理、その背後にある価値観や行動の原理を土台にしている。本書では、そのプロセスが端的に現われるのが学校教育だといい、とくに小論文の教育に注目する。その具体例として、フランスの論文形式であるディセルタシオンとアメリカの論文形式であるエッセイを対比的に取り上げる。
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