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2024年10月

2024年10月31日 (木)

没後30年 木下佳通代(1)

Kinoshitapos  10月の三連休は好天に恵まれて、美術館がその中にある公園は、多くの家族連れやカップルが、思い思いに散歩したり、ベンチに腰掛けたり、芝生で遊んだり、賑わっていた。ちょうど昼ごろに入った美術館のレストランは満席のようだった。しかし、企画展の展示室に入ると人影はまばらで、どちらかというと閑散としている。それだけに、静かで、他の鑑賞者を気にすることなく、じっくりと作品を鑑賞することができたし、誰はばかることなくメモを書き留めることができた。途中、他の鑑賞者と出会うこともあったが、この展示は作品の撮影が許されていたためか、絶えずスマホを掲げて撮影をしていて、撮影が終わると足早に次の作品に向かって立ち去ってしまう。そのためか、私一人が展示室に置き去りにされてしまうような感じだった。実は、この後、美術展のハシゴというか、上野に移動して東京都美術館にも行ったが、そこでは大混雑で作品の前に多数の人が列をなすような状態で、落ち着いて見ることができなかったのと好対照だった。それだけに、この展覧会は落ち着いた、とてもよい雰囲気だったと、今さら思い返して思う。
 木下佳通代という人のことを、私はよく知らないので、どういう人かなどについては、展覧会木下佳通代の主催者の挨拶を引用します。“神戸に生まれ、関西を中心に活躍した木下佳通代(1939~1994)の没後30年の節目に開かれる本展は、国内の美術館では初の古典となります。京都市立美術大学(現・京都市立芸術大学)で絵画を学んだ木下は、在学中から作家活動を開始しました。1960年代には、神戸で結成された前衛美術集団・グループ〈位〉に影響を受け、制作を通して「存在」に対する関心を掘り下げていきます。1970年代には、写真を用いて、イメージと知覚、あるいは物質との関係を考察する作品を数多く手がけました。「絶対的存在と相対的存在はありながらも、存在はひとつでしかない」という考えを明確にした写真のシリーズは、その極めて理知的なアプローチによって国内外で高く評価されます。同時代のアートの世界的潮流とも呼応し、複数の写真を並置した組作品や、幾何学図形を写した写真の上から線を描き重ねるなどの手法により、視覚と認識、1981年にはドイツのハイデルベルクで個展を開催しました。海外での初個展と時を同じくして、木下は作品そのもののコンセプトを変えずに、写真以外の手段で作品制作が可能か試行します。80年代に入ってパステルを用いた作品によって素材と表現の相性を模索した後、再び絵画の制作に回帰します。「存在そのものを自分が画面の上に作ればいい」と考えるにいたった木下は、図式的なコンセプトから脱却することに成功します。シリーズ最初の作品に「‘82-CA1」と名付けて以降、アップデートを続ける筆致とともに、画面上の「存在」はたびたびその表情を変えていきます。1990年にがんの告知を受けると、治療法を求めて何度もロサンゼルスを訪れ、現地でも絶えず制作を続けます。1994年、木下は神戸で55年の生涯に幕を下ろします。再び絵画へ立ち帰った1982年以降だけでも、700点以上の絵画、ドローイングを制作しました。本展は、活動時期をたどるように3つの章で構成しています。公開の機会があまりなかったごく初期の作品から、国内外で高く評価された写真作品、そして1982年以降ライフワークとなった絵画作品によって、その活動の全貌を探ります。木下が一貫してテーマとした「存在とは何か」という問いは、現代においても尚、色褪せずに強烈に響きます。”
それでは、作品を見ていきましょう。

 

2024年10月30日 (水)

佐々木閑、宮崎哲哉上野修「ごまかさない仏教 仏法僧から問い直す」(3)~第2章 法─釈迦の真意はどこにあるのか

 仏教と自然科学との親和性について、次のように著者は言う。自然科学の場合は観察に基づく仮説を設定し、実験、証明という人為的検証方法によって仮説を承認するといった手順を繰り返す。仏教には、そういう方法論はない。科学の仮説は新しい情報があれば更新されるが、仏教にはそれがない。仏教と自然科学を同一に扱うことはできないが、ベースとなる世界観、すなわち原因と結果の因果法則に基づく機械的世界にわれわれは存在しているという世界観を共有している。ただし、この因果性についても価額は価値中立であるのに対して仏教は悟るという目的意識が含まれている。
 この章のタイトルである「法」はサンスクリット語でダルマ、本書では釈迦の説いた教法とし、その基本的な要素として、縁起、一切皆苦、諸法無我、諸行無常の四つをあげている。これらは、いわば仏教の基本ОSにあたる。
1.縁起
 縁起というのは、この世界の物事のすべては原因と結果の関係で動いているということ。他の宗教のように、絶対的な神がいて、不可思議なパワーで世界を動かしたり、人々に何かを強制したりするとは考えない。すべては、原因となる何かがあって、その影響を受けたがゆえの結果として現われているという、ある意味では合理的で科学的な世界観と言える。
 仏教は、一切の事物を演技的に生ずると考える。一定の条件によって生起し、その条件が解除されれば消滅する。その一定の条件もまた他の条件によって在らしめられている。そこで認められているのは存在というよりも仮構という語があさわしい仮の存在にすぎない。一言で言えば、実体というものがない。しかるに、煩悩に覆われた私たちはそのことを正しく把握ではない。煩悩といっても色々あるが、おおもととなるのは「無明」つまり智慧がないこと、物事を正しく合理的に見ようとする力が欠如していることである。世界が縁起的に生清と消滅を繰り返しているという事実を知らない、あるいは認めない。人間は訓練を積まないとその変化の相を認識できない。有名な十二支縁起は無明から始まる。この十二支は、根源的な苦しみが発生してくるメカニズム。生存苦の発生機序である。仏教は生存苦を滅ぼすことが最大の目的だから、その生存苦が発生するメカニズムをつぶさに検証する必要がある。
 この「縁起」の内容として、二通りの縁起説が存在していた。ひとつは文字通りの因果としての縁起で、時間的に原因が先行し、後で結果が生じる。通時的縁起。もう一つは相互依存関係としての縁起で、藁束のように同時的に互いを規定し合うことで成り立つ共時的縁起。後者は、例えば色彩は人間の眼根が捉え得る光である可視光を分別したに過ぎない。プリズムを通した可視光は連続的なカラースペクトルを見せる。それを言葉によって仮に分節化したのが、「赤」とか「青」などといった、われわれが日常生活で多用している色彩だ。「赤」や「青」などの本質や自性があるわけではない。言語は何ものかの本質や自性を直示するものではなく、指示対象を他から区別して、あたかもそれが個物として客観的に識別できて、独在しているかのようにみせかける。言語は、他との差異を消極的に表示するシステムにすぎない。それを、われわれは、あたかもポジティブな実体や本質や自性を指し示していると錯覚してしまう。しかも言語によって分別された世界は閉じられた観念なので変滅しない。すべての言語は言語についての言語なのだ。眼前の机と呼ばれるものは、まるで永遠に変わらぬ机としての本質を持っているかのようのわれわれの前にある。確固たる存在として現前していると無意識に観念している。しかし、縁起という見方を知れば、それは現実ではなく、言葉がもたらした観念であり、虚構である。机という実体は存在しないし、実際には刻一刻と変滅し続けている。重要なのは私の自意識も言語表現による仮構にすぎないということだ。
 全ての存在は相対的ということになる。正確に言うと、言語によって識別され、あたかも実在しているかに見える世俗の諸事物が本当は相対的なのだということ。そこで、瞑想によって縁起の実相を見る、それで無明を脱する。龍樹によれば、言語こそが苦の淵源であり、無明を構成する重要な要素で、苦を滅するには言語によって仮構された世界と自己を滅ぼすしかないという。
2.苦
 「苦」とは、一般的には苦しみ、苦悩、不快のことだが、原語のドゥッカには幸せの意味もある。だから、あえていえば、無常でうつろうものの意味と考えられる。「一切皆苦」というのは、すべては生老病死という四苦の上に成り立っているというもので、その本質はわれわれが生命体であるというところにある。四苦とは生命体が生命体であるがゆえに抱え込む苦であり、けっしてそこから逃れられないものである。むこの四苦を上回る楽というのはない。仮に生老病死の後に永遠の天国というような絶対的な楽の世界が待っているのなら、四苦は克服できる。キリスト教がそれだ。ブッダはそんな絶対的な楽はどこにもないと言った。生老病死を打ち負かす楽がこの世にはないのだから、この世は一切皆苦なのだ。
 人は死を免れことはできない。しかし、日常生活では生存防御本能である「忘れる」という機能が働く。それがないと、われわれは、日常で死の恐怖におびえて過ごさなければならない。それが、大病を患ったり、年老いたりすると、防御本能によって覆い隠されてきた老病死の苦しみが浮き上がってくる。
 これに対して、キリスト教の世界観は本質的に一切皆楽と言える。今苦しんでいるのは神に試練を与えられているからであって、すべてを神に委ねれば救済されることが確定している。仏教には救済者はいない。
3.無我
 いま私が実在している、自分が「在る」という観念が「我見」だ。いま「在る」限りは、ずっと、この先私は永続するに違いない、永遠に存在し続けなくては不条理だ、という観念が「我執」と呼ばれる。この邪見と執着から渇愛が生じる。したがって解脱するには有我の見を滅ぼし、我への執着を断ずる必要がある。しかし、自分は実は「無い」などということを実感として心身に定着させるのは並大抵のことではない。そもそも、何かを思惟したり実感したりするのは、他ならぬ自己なのだから。
 仏教は事象を客観的に記述する哲学とは違う。倫理学とも無縁だ。仏教の課題はもっと切迫したもので、無我を説くのも、それなしには苦を解除できないという確信に裏付けられている。つまり、死への苦しみ、死の恐怖をはじめとする様々な苦が、我見、我執によって、言い換えれば、永遠に存在したいという欲望によって発生している。存在しなくなることへの恐怖は、そもそも存在しなくなることへの恐怖は、そもそも現在も存在となどしていないと真実を語ることで消えるのだ。自分が実在しないなら、自分の所有物もまた存在しなくなるし、自分のまわりに広がっている自分中心の世界も消えてしまいます。そうして、次々と実在を消すことによって、自動的に多くの苦も消えていく、というのが仏教の基本的な考え方だ。
4.無常
 無常とは、すべては移ろうということである。万物は時々刻々変化していき、永遠不滅のものはない。それがこの世界の真実だということ。諸行は縁起しているから無常なのであり、無常だから苦が生じるのであり、無我であることを認めれば無常を受けとめられる。つまり、この世のあらゆる物事は網の目でつながっていて、互いに影響を及ぼし合いながら不断に変化している。私も、そして、私を取り囲むまわりの世界も、すべては因果の網でつながった無常転変の存在にすぎない。何であれ、生じた事物は必ず朽ちる。それどころか諸事物は一瞬の静止も間断も滞留もなしに流動し続けている。ところがその変化の相は、通常の人間の知覚によっては感知できない。さらに、そこに言語の網が覆い被さり、変滅し続ける事物をあたかも固定的、個別な実体に見かけているので、その分、われわれの苦も深くなる。そこで、あらかじめ無常という真理を受け入れておけば、いざという時に寿命・地位・財産などに執着することもなくなるし、普段から今の一瞬を大切にして生きようという気になる。
 この一瞬というのは「在る」それを「刹那生滅」という。世界は刹那と呼ばれるきわめて短い時間単位で次々と生まれ変わっている。一つの死接待が少しずつスムーズに形態を変えながら変容していくのではなく、一刹那ごとに、今ある損さ製はすべて消え、よく似てはいるものの。まったく別の存在が出現するという考えだ。
 仏教で無常が基本として説かれる理由は、人間が、実際の時間の流れを把握できないから。時間の流れは不可知ではないが、生来の本能、あるいは言語を根源とする後天的な慣習によって形成された感覚や思考によって覆い隠されている。仏教は、その「直覚」を否定するために無常を説く。したがって無常は概念ではない。概念であるならば、同一性や不変性、不易性などの対照的概念が前提となるが、同一や不変、不易は、そもそもこの世界にはない。それで無常を直接知覚することも、そのまま理解することも困難な人間は、過去、未来、現在の設定をはじめとして、言語によって時間を概念化して把握しようとする。偽りの静止的な時間を捏造する。
 すべてが無常であり、その中に対立項としての不変などとこにもないというのが諸行無常の意味。われわれは、この無常の世界に住んでいる。

 

2024年10月29日 (火)

佐々木閑、宮崎哲哉上野修「ごまかさない仏教 仏法僧から問い直す」(2)~第1章 仏─ブッダとは何者か

 ブッダとは古代インド語の「目覚める」という動詞の過去分詞形で、目覚めた人という意味である。彼の本名はゴーダマ・シッダッタで、釈迦とは彼が生まれた一族シャーキャ族の漢語への音写に由来する。釈迦は歴史上の実在した人物で、神のように世界や人間を創造したり、救済したりする超越的な存在ではない。  釈迦という個人がどのようなひとであったかは仏伝に書かれている。しかし、そのオリジナルとされるマハーヴァッカは釈迦の一生の物語としては中途半端で、それは、この書は釈迦の一生を語るものと言うより、仏教という宗教が成立するプロセスを語るために作られたものだからだ。だから、その中心は釈迦が悟ったところから仏教という宗教団体が完成したところまでなのだ。仏伝制作当時の仏教徒は釈迦個人の人生や事績には関心がなく、彼らの関心は釈迦が残した成道に進む思想や方法、あるいは律の成立過程の正当性にあった。  釈迦の有名なエピソードである、誕生時の天上天下唯我独尊や四門出遊などは、仏教はこういう宗教だということを表わすための作り話である。四門出遊は、老と病と死という三つが人間にとって避けることのできない苦しみで、それらに出会ったら絶望するしかないとおもったら、最後に修行という道があることが示される。そこで仏教が何を目指す宗教かを示す働きをしている。仏教が解決しようとする問題は、あくまで「この私」の苦(四苦)とそれらの原因とも結果ともなり得る「この私」の存在性質をめぐる苦(八苦)であることを明らかにしている。  そして、釈迦は出家して修業を始める。この時に注意することは、釈迦は世捨人になったのではないということ。世間とのしがらみを絶って孤立無援になったのではなく、修業している人たちが森の中にはすでにいて、その人々に加わったということ。彼は、そこで先達の教えをうけて、瞑想や苦行に励んだが、うまくいかなかった。その失敗を経て、正しい修行に入る。このエピソードは、苦行は悟りの道ではないということをあきらかにしたものだ。この話を受け入れることにより、悟りへの道は苦行ではダメで、仏教しかないことを示している。  そして、釈迦はブッダガヤーにある菩提樹の根元に座って瞑想し、悟りを開いた。菩提樹の下という場所は快適で安楽な場所で、苦行とは反対に肉体的な付加を少なくし、ひたすら精神集中して自分の心に向き合うことによって悟りを開いた。しかし、出家し初めのころ先達にならって瞑想したが悟りに至らなかった。その瞑想と、このたびの瞑想とはレベルが違う。  そして、釈迦が悟った内容については経典によって解説が一定していない。本書では、いろいろな説があるが縁起の体得が重要だとしている。  その後で語られる「梵天勧請」は仏伝大きな山場だ。自己の苦しみを完全に消し去った釈迦は安楽の境地にいて、それを楽しみながら、その一方で「こういった境地は世俗の一般人にはとても到達できるものではない。いくら私が教えてもそれを理解することはできないだろう」と考えた。こうして釈迦は説法を断念しようとする。そこにバラモン教の最高神のひとり梵天が現われて説教を懇請する。しかし、釈迦はそれを断る。この時点で釈迦は利己主義者だが、彼は究極の苦しみから抜け出そうと、生きるか死ぬかギリギリのところで修行していた。そこでは世のため人のためなどと考える余裕はなく、利己的になるのは当然だったとも言える。仏教の真理というものは、世の流れに逆らう日社会的な視点であり、世の流れに乗って生きることができない人間のための教え、そういう人間の疎外感からの救済が仏教だと言える。  梵天は釈迦に断られても、諦めずに食い下がる。釈迦の教えによってこの世のあらゆる生き物が救われるということではないが、その教えによって苦しみから解放される者もいるのだから、その者たちのために教えを説いてほしいという。釈迦は、その言を聞き、仏眼をもって世間を観察し、その観察によって世人の教化を決心する。「耳ある者たちよ、不死の法門は開かれた。いままで信じていたものを棄てよ」と宣言する。  このうち「耳ある者たちよ」という呼びかけは、仏教は、教えを広めることによって、すべての人間を幸せにする義務もなければ、そのような課題も持たず、基本的に釈迦の言うことに反応する人だけを受け入れる、万人に積極的に布教することをしない、仏教に救いを求める人がいたら、そこではじめて手助けをするだけ、という基本理念を表わしている。  梵天勧請を契機として、釈迦は自分のためだけに作り上げた仏道の教えを、人々のために説き広めることを決意した。著者は、この転換を次のように解釈する。迷いの生にあっては、すべては種々様々な条件によって条件づけられて存在する。すなわち、条件に依存する。この条件を離れて、条件と無関係存在するものは一つもないという縁起説を前提とするならば、悟る自己は関係のなかにある。論理的に悟りは個では完結できない。なぜなら、自己は種々様々な条件によって条件づけられて存在しているのだから。「この私」という存在が他を前提とし、他の関係において生ずるものである以上、悟りが音図家住するのは自己とか他者とかの個ではなく、世界でなければならない。そうして自も他も世界も終わらせることができる。梵天勧請における釈迦の転回は、単なる慈悲の心だけでなく、完全なる悟りを目指すためだった。

2024年10月28日 (月)

佐々木閑、宮崎哲哉上野修「ごまかさない仏教 仏法僧から問い直す」(1)

11112_20241028231801  はじめにユヴァル・ノア・ハラリによる仏教の要約を正しいものとして、本書は、それを証拠立てる作業だという。
 “心はたとえ何を経験しようとも、渇愛をもってそれに応じ、渇愛はつねに不満を伴うというのがゴーダマの悟りだった。心は不快なものを経験すると、その不快なものを取り除くことを渇愛する。快いものを経験すると、その快さが持続し、強まることを渇愛する。したがって、心はいつも満足することを知らず、落ち着かない。痛みのような不快なものを経験したときには、これが非常に明白になる。痛みが続いているかぎり、私たちは不満で、何としてもその痛みをなくそうとする。だが、快いものを経験したときにさえ、私たちはけっして満足しない。その快さが消えはしないかと恐れたり、あるいは快さが増すことを望んだりする。人々は愛する人を見つけることについて何年も夢見るが、見つけたときに満足することは稀だ。相手が離れていきはしないか不安になる人もいれば、たいしたことのない相手でよしとしてしまったと感じ、もっと良い人を見つけられたのではないかと悔やむ人もいる。周知のとおり、不安を感じながら悔やんでもいる人さえいる。
 ゴーダマはこの悪循環から脱する方法があることを発見した。心が何か快いもの、あるいは不快なものを経験したときに、物事をただあるがままに理解すれば、もはや苦しみはなくなる。人は悲しみを経験しても、悲しみが去ることを渇愛しなければ、悲しさは感じ続けるものの、それによって苦しむことはない。
 ゴーダマは、渇愛することなく現実をあるがままに受け容れるように心を鍛錬する、一連の瞑想術を経験しているか?にもっぱら注意を向けさせる。このような心の状態を達成するのは難しいが、不可能ではない。”
 これは、例えばキリスト教とは異質というか、考えようによってはキリスト教そのものが悪循環にはまる迷いだともいえなくもない。仏教が物事をありのままに理解するのを進めるということは、救済を期待するというのは苦しみを招く原因に他ならないことだからだ。だからというわけではないが、仏教にはキリスト教における聖書のような聖典がない。そんなものにすがって救いを求めるというのは、執着にほかならない。そんなこと自分で考えろ、と突き放すが仏教。そう考えるとゴーダマ・ブッダの思想というのは、とても分かり易い。そして、日本の仏教というのが、それとはかけ離れて、いかに特殊化されているのか。

 

2024年10月27日 (日)

矢田部英正「たたずまいの美学 日本人の身体技法」(6)~第5章 身体の自然性

 西洋服飾の美感は、骨格筋の均整を前面に押し出した肉体美の表現に特徴がある。その標準的な身体比率の考え方は古代ギリシャに遡る。古代ギリシャの若者の立像はオリンピアで活躍した競技者たちがモデルであり、その競技は、徒競走、投擲、戦車競技といった戦闘場面を想定した競技種目によって鍛えられたものだった。古代のオリンピアでは、戦争の絶えない地中海の都市国家たちによって行われた。その彫刻の肉体表現は直接的には戦闘で発揮される戦士の力と運動能力を意味し、それが力強い行動力をもつ肉体が人間の主体的な行動力の象徴、それが理想ということになった。
 これに対して、日本の仏像の彫像は、肉体そのものの造形には価値を置かず、立ち方、坐り方などの表情に浄土を連想させる空気が、つまり、仏の佇まいに流れている空気感は自発的に行動することによって世界に働きかけようとするギリシャ的な人間像とは別の生き方が描かれている。ギリシャ的な自分から進んで物事を自分から進んで物事を理解しようとしたり、世界を変えようとする態度は迷いなのであって、一切の存在が、そちらの方から現われてきて自己本来のあり方を気づかせてくれるのが悟りだ。
 ギリシャ彫刻に見られるような筋肉の躍動は、意図的にコントロールすることが比較的容易で、こちらは主に随意神経系のはたらきに結びついている。これに対して、佇まいの美感は身体が表出する心の内面と結びついていて、こちらの身体技術については意図的にコントロールすることができ難く、むしろ作為的な動作によらず、おのずと目的に到達するような心得が必要とされる。人間の運動能力の源を骨格筋の躍動に求めるのは常識であり、筋繊維が肥大することによって、より大きなパワーが発揮されるようになる。したがって、スポーツ選手は日頃から筋力トレーニングを欠かすことがない。ところか日本の芸道の世界では、筋力トレーニングが通用しない。強い弓を引く弓道でも鉄の刀を振り回す剣術でも、安定した足腰の強さを求められる舞踊でも、筋力のみを単独で鍛えることをしない。むしろ、できる限り筋力を使わないでより強い力発揮することに重きを置いている。そこで力の源となっているのが骨である。筋肉による力をできる限り抑制して、骨格の自然な構造に基づいて動作することを重視する。筋肉を硬直させて運動をすれば、血管を圧迫し、血流だけでなく「気」と言われる見えない体内の流れについても循環が妨げられることになる。一方、筋肉を無駄に硬直させずに、骨にその運動を任せることができれば、「気」をはじめ体内の循環を妨げることなく、合理的に運動を支える中心の業が自覚されてくるはずである。「骨をつかむ」という日本語は、この脱力状態において体感される骨の感覚に由来する。筋肉を浪費させずに動作する「コツ」をつかんだとき、それは筋力をはるかに上回る力を発揮することができる。
 ここでは、呼吸法が重要視されている。呼吸法は精神力の根源を見出すための技術であり、またその源泉から湧き出る力が四肢に注がれるようになるための技術でもある。それと同時に体内の循環機能を活性化させる働きがある。日本の伝統的な身体技法は、部分的な筋肉に意識を集中せず、骨格の自然な特性を合理的に活用することを重要視する。無駄な筋肉を使わずに、骨にその運動を任せ、動作の中心をとらえていくような技術を「型」を通して伝承してきた。骨を力の源とした身体技法は、和服の着装様式や歩行の様式とも有機的な連関を示し、それらは総じて、身体が本来備えて自然の合理性を最大限に活用するための技術によって支えられてきた。
 武術であれ、職人の仕事であれ、高度に洗練された技術を要求される専門領域では、身体部位の繊細な感覚操作が必要となる。古武術の世界では、感覚的にとらえる世界が眼に見える身体運動ではなく、見えない呼吸や、「気」の流れや、身体内部の「骨」をとらえてゆくことに向けられている。骨による動作は意識して身体を動かす以前に、実感として骨が感知できていなければならない。そこで基本となる心得は、観ること、待つことである。たとえば、日本の武芸の世界では、眼に見える運動の「型」を訓練するだけに留まらず姿勢と呼吸を正しくすることによって、身体内部の生理循環機能をも同時に整えようとする。そして外見の形と内部の動きが調和したときに、骨盤内部に身体運動を統率する中心感覚がおのずと自覚されてくる。
 身体には個人の意図からは独立した自然の秩序が存在する。骨格の構造にしても、体内の循環機能にしても、また自然体と言われる姿勢の形態にしても、それらは個人の意図からは独立した本来的秩序の上に成り立っている。体内の流れに自然な調和を保つはたらきのことを恒常性機能という。
 古来、日本人の態度として、人間の力によらないものについては敢えて意味づけをしない風習のようなものがあった。ある意味それは自然に対する畏敬の念からでもあった。つまり、人知を超えたところで働いている秩序に対して、人間に理解可能な理屈のなかだけで向き合おうとするのは不遜極まりない態度であると昔の日本人は考えたかもしれない。彼らは理屈で物事を考える前に、まずは観るということを物事と向き合う基本に饐えたのである。

2024年10月26日 (土)

矢田部英正「たたずまいの美学 日本人の身体技法」(5)~第4章 日本人の坐り方

 和服と洋服の形は、それぞれ異なる立ち居のスタイルを求める。たとえば、洋服が似合う身体には、ヨーロッパ社会で理想とされる身体像が描かれており、それにもとづく振る舞いの姿が、一着の衣服のなかに縫い込まれていることさえ少なくない。日本の伝統服においても同様のことが言える。ある社会で広く共有される道具の様式に眼を凝らすと、物質文化のデザインには、それを生み出した社会が求める人間像についての多大な情報の刻まれていることがわかる。
 洋服は床に坐るといことが想定されていない、男性用のスラックスにほどこされている前後の折り畳み線は、足をまっすぐに見せるためのデザイン的な配慮であり、正坐や胡坐で坐ったとしたら、脚線に皺が寄ってスラックス本来の造形的特色が失われてしまう。あるいは女性のタイトスカートなどが床坐に適さないことは説明するまでもない。こうした服飾デザインは直立姿勢を中心に組み立てられてきたヨーロッパの生活様式にもとづいて様式化されたものである。ヨーロッパ社会で坐るという行為には椅子やベンチなどが用いられ、その姿勢は休息や寛ぎ、手工業の作業姿勢や食卓における親密な情景をあらわす。しかし床坐の生活スタイルを伝統的に定めてきた日本では、衣服の形や食事の仕方、人との接触や対話の作法まで、床に坐ることが前提とされてきた。それぞれの社会が歴史的に採用してきた身体技法のなかでもとくに生活上の基本姿勢をどのような形に定めるか、という問題は、その周辺に広がる物質文化の様式を、根本のところで方向付けていることが考えられる。
 日本における床坐の作法は、実に多様な坐り方の種類がある。その分け方については、正坐、胡坐、立膝といった坐り方の種類と同じ坐り方でも坐相が整うや乱れると分けられるという坐の質的特性の二つの次元がある。さらに「腰を入れる」という表現があるが、この技術は正坐でも胡坐でも、どんな坐り方でも成り立つ。また立ち姿勢や中腰姿勢でも成立する。その技術内容をせ対するためには身体の質的な習熟へと視点を広げる必要がある。つまり、坐の形態からその坐り方がどのような運動構造をもち、どの身体部位の柔軟性を必要とし、呼吸法をどのように駆使し、そのことによってどのように変化するのか、といった事柄を細かく検討する時に、腰を入れるという技術の実質に迫ることができる。
坐る種類は多様で、それぞれは見て分かる。しかし、その姿勢がどの程度完成されているかという習熟度は質的特性の視点がないと見分けられない。その習熟には身体を鍛えるという意味合いが含まれる。ただし、身体を鍛えるというのは、現代の筋力トレーニングとは違い、それは、呼吸や瞑想を駆使しながら、身体の形を錬成させて、姿勢の形態を質的に洗練させてゆくことである。
 運動においても姿勢・動作の形態的な洗練は、筋力の浪費を少なくし、骨格の自然な構造にもとづいて動くための基礎をつくる。身体運動の洗練によって無駄に筋力を使わなくなる時に、骨で動く感覚があらわれたり、体軸や中心点といった身体を統率する感覚的な基点があらわれる。その習熟段階に到達するまでの過程には、筋力の訓練だけでなく、呼吸やイメージ、身体感覚などの訓練をしながら、身体の形を練ることが必要となる。このように形を練るということを姿勢・動作の質的な洗練とすると、呼吸や循環の健康を快復することと、機能的かつ美的な動作を獲得することとは、じつは一つの自然体へと収斂する。
 坐り方のひとつの到達点のひとつに坐禅のかたちがある。それは日本的なものかもしれない。というのも、仏教の仏像を見てみると、ガンダーラ仏像はギリシャ彫刻のような均整の身体で、ヨーロッパの立ち姿が基本の生活姿勢のものだ。これに対して日本の仏像はなで肩で腰回りが太く、下半身も広がりのある安定感のある体型で、日本に古来伝承されてきた身体技法、身体能力の沿ったものとなっている。
 腰を入れるという言葉が、日常動作の基本として、あるいは芸道の身構えとして、古来重んじられてきたことは、多くの人々が知るところだ。この言葉についての積極的なニュアンスは坐姿勢のみに限らず、身体運動のあらゆる側面に及んでいる。本腰を入れるという風に。物事に取り組む心構えについての積極的なイメージに結びついてもいる。この腰を入れるという言葉について、具体的な身体状況についての明確な定義は見つけにくい。身体の姿勢は精神の状態と密接な関係があると言われてきたが、それが精神論に傾き、腰を入れるを分かりにくくしている。
 著者は坐った姿勢において、腰を入れるを次のように説明する。上半身をリラックスさせることと、骨盤を前傾させることとを同時に実現させた姿勢である。肩から胸にかけては力を抜き、腰部湾曲のピークが骨盤の上縁より下に位置している。このことは姿勢・動作を支える視点が骨盤内部に収まっていることを判断する指標となる。したがってこの姿勢では、上半身の重さが骨盤の全体で受け止められていて。他の二つの姿勢に比べて耐久性が高く、骨格の自然に適った姿勢となっている。ここに見られるような上半身の脱力にともなう胸部の後彎曲と、腰部前彎のピークが腰骨上縁より下に位置する骨盤の立ち加減は、自然体を判断する一つの指標となりえる。この状態を保ちながら運動を行なおうとする時に、運動上の負荷は骨盤内部の仙骨へと収まり、椎間板へのストレスは大幅に軽減されることができる。
 このような腰の入ったという身体技法と服飾様式との関係を見る。衣服を形づくる造形の基準について、ヨーロッパの服飾様式が肩を規準に上半身の立体的な造形を服そのものが表現してきた伝統を持つのに対して、日本の着物は骨盤を中心に帯を幾重にも重ねも平面的に構成された着物に独特の造形美を与えようとする。このゆとり量の多い服飾造形の技法によって、着物は着る者の肉体を完全に覆い隠す。さらに帯を幾重にも重ねて腰まわりは重厚に締められているが、上半身を圧迫するものは何もない。上半身をリラックスさせ下半身を充実させる「上虚下実」という坐禅の姿勢は武道にも流用されているが、その体系は服飾様式にも関係しているといえる。
 これらのことから、腰を入れるという骨盤操作の技術は、生活上の作業や作法から、諸芸道の身構えに至るまで、日本文化広く見られる。日本人の身体技法に一連の秩序を与えてきた基層文化として位置付いていた。それは近代以降の文化とは異なるものだ。

2024年10月25日 (金)

矢田部英正「たたずまいの美学 日本人の身体技法」(4)~第3章 和装の身体技法

 衣服の形というのは、通常、皮膚から一定のゆとり量を保ちつつ、服が必要とする機能と美観を備えながら成型される。言い換えれば、布によって、着る人の身体を再構築するデフォルマシオンの技術であると言える。したがって、衣服の形に一定の集合的な特色が認められた場合、そこには社会に特有の身体観がおのずと縫い込まれることになる。
 洋服と表記される西洋服飾の伝統では概して上半身の形に沿っても肉体の造形を再現するように、布地を立体的に構成する特色がある。つまり、西洋服飾の伝統は、衣服によって肉体の形を忠実に再現させようとする努力の集積であると言える。これに対して、日本の伝統服飾の場合、直線的に構成された着物の前身頃を腹部のところを帯で留める形式になっている。着物には身体と布との間にゆとり量が多く、肉体の形をほぼ完全に覆い隠してしまう。そこには眼に見える肉体の形を、衣服の形へ反映しようとする発想そのものが存在しない。和服と洋服の基本的な成型手法を比較すると、後者は肩を基準として胸まわりの立体を強調する立体裁断の方法が特徴的であり、前者は着付けの技術を駆使しながら、平坦な布から身体の立体的な造形を再構成しようとする特色がみられる。
 現代では和服は窮屈なものとイメージされているが明治以前は普段着や労働着として着られていたもので、それは和服そのものの問題ではなく着付け方が変化したことによる。つまり、むかしはゆったりとした着付け方をしていた。もともと、腰ひもや角帯が巻かれるのは腰骨と呼ばれる腸骨の上端部分であり、ここを締め付けても内蔵の生理に悪影響を及ぼすことはない。それに対して、腹部つまりウェストを帯で圧迫すると内蔵の働きに悪影響を及ぼす。現代の着付けは、ここを広い帯で締め付けるかに窮屈になる。昔の着付けでは帯揚げによって胸郭を締め付け息が上がってきた理、胸や肩を力ませることを抑制する働きをし、腰ひもは内袷を留めると同時に骨盤まわりを引き締め、上体の重みを支える中心感覚を自然と自覚させる働きを担っていた。そして腹部にやわらかく巻かれた帯は体幹の姿勢維持を助けると同時に、女性の母胎を暖かく保護する役割を担っていた。このような特色を備えた和服の特色も、背筋を伸ばし、胸を張って着用した場合には、帯揚げが鳩尾に食い込んで、自律神経機能に支障をきたしかねない。現代女性の着物の着付けは、内側から詰め物によって帯の形を整え、その結果、鳩尾が胸よりも出っ張り、上体から下体にかけてのやわらかな曲線の起伏は失われるという、古来の和服の着姿とは異なるものになっている。ここに外観的な形の実を月郎とする人工的な造形と生活の必然から生まれた自然な様式美との違いが現われている。このことは装いの観念ということと密接にかかわっている。つまり、身体という自然物を衣服という人工物によってどのように加工し、再構築するのか、という社会思想が、衣服の形を通して無意識の内にからだの中に刷り込まれ、日本人が古来持っていた感覚を忘れさせてきたことをしる。つまり、私たち日本人は洋装化によって伝統的な着こなしを忘れだけでなく。古来培われてきた身体の処し方も忘れてしまったのである。そしてまた、洋服とぢかって和服は着こなしによって身体との関係が変わってくる。
 日本の伝統服には、衣服によって女性の肉体を変形させる、という発想そのものが存在しない。和装における女性の美感とは肉体の輪郭を覆い隠したとしても、その美的な存在感が失われることのない姿やしぐさから表出するものであり、これを著者は佇まいと呼ぶ。それは肉体の均整にもとづく美感ではなく、姿勢・動作から表出される存在の印象である。これを形づくる身体的な根拠というのは、たとえば一片のしぐさが伝えるところの心の細やかさであったり、坐っている後ろから無言の内に放たれる存在の重みであったり、歩く姿や挨拶の仕方からにじみ出てくる慎ましい態度や忠実な思いなどである。
 日本の姿勢・動作の中から無言の内に表出される佇まいの美感は、茶の湯や礼法といった格式の高い場においてさらに高度な様式化がすすんでいる。日本の正式な社交の場において、女性の肌を露出したり、肉体の起伏を直接強調する美意識は入り込む余地はなく、そこではむしろ欲望や感情を意図的に抑制する「型」によって、独特の対話空間が形成されている。「型」とは、様式化された一定の技術を習得することを前提として、たとえば空間のしつらえや道具の配置、一挙手一投足の繊細な動作によって、言葉によらない印象世界を確実に相手の心に残していく技法によって構成されている。つまり日本人の伝統的なコミュニケーションにおいて重要なことは、言葉そのものにあるのではなく、言葉で語り尽くせない「こころ」の深層領域にあり、作法は時として抑制された形式を持つゆえにこそ、真実のより強い印象を残すことができる。いわば書かれた言葉の行間の意味であり、日本画における空白の余韻である。日本人にとっての文化の継承は、文字や言語による思想の伝達ということの他に、「型」という媒体を通して感覚を伝承していく身体技法の体系が多くを担ってきた。それゆえ物的な文化資本についても、その様式化された意匠の背景には、身体技法の型が明確に描かれている。たとえば、服飾表現上の美感については、肉体そのものを造形するよりは、むしろ衣服の形式に則った動作を通して、人間の真実の姿を浮かび上がらせようとする。つまり、人間の動作は身体の運動であると同時に、その扱い方の美感を追求する限りにおいては、目に見えない意識や感覚や感情を表出するものとなる。このような動作の表情が秘めている美的な印象世界は、肉体の生理的な衰えに左右されることなく、人の内面の美感を「居ずまい」「佇まい」として、奥ゆかしく開示し続けるだろう。
衣服の構成技法というのは、布を媒介とする身体造形の技法である。つまり、このなかには身体に対する思想と素材に対する思想の両方が描かれている。素材と身体は、どちらも自然物である。それゆえ、素材に対する扱い方にしても、布地の構成によって表現される身体の見せ方についても、どちらも素材と身体に関する自然観をありのままに伝える資料として扱うことができる。
 この点についても、和裁と洋裁の裁断技法の間には、素材に対する考え方の違いが際立っている。基本的に和服は直線裁断によって平面的に構成されているのに対して、西洋服飾の多くは曲線裁断によって立体的に構成されている。こうした構成の技法の基本的な相違は、生地を織り上げる段階から素材の構成方法を大きく左右している。
 つまり、西洋服飾の構成は、一般的に人体の形に沿って裁断された布が立体的に構成されているために縫合部分にかかる負担が偏在的で、とりわけ袖付けや腰まわりの縫い合わせの消耗というのは大きい。こうしたことから洋服の布地は縦糸と横糸が同じ太さ、同じ強度で密に織られていなければならず、どちらの方向から布地に圧力がかかっても布地が損傷しないだけの強度を備えていなければならない。一方、和服の生地というのは、縦糸に対して横糸が太く織られている。この織り方の特性は和服の特色を理解する上でのいくつかの重要な視点を提示する。まず和服の布地は縫合部のほとんどが直線的に縫合しているために布地にかかる圧力が均等になる。この直線的な裁断と構成によって和服は布施にかかるストレスが少なく、耐久性に優れた特性を持つ。次に横糸の連なりは、地面に対して垂直方向に一定の重さを与える役割があり、とりわけ着丈の長い和服は、立ち姿の垂直なシルエットをより鮮明にさせる効果を与えている。洋服でもコートやワンピースのような丈の長い衣服では、布地の重さが重要視されるが、和服の場合は横糸を太くすることによって、すでに生地を織る段階でこの問題を解決している。さらに横糸に対する縦糸の細さは和服の収納面で一つの効果を発揮している。和服を構成するそれぞれの布地は、基本的に長方形の平面で構成されているために、収納時にも一定のスケールの長方形に畳み込むことができる。この畳むという和服の機能において、、縦糸が細いことは、畳みやすさ、あるいは畳んだ際の収まりのよさを助けている。布の繊維は太いものよりも細いものの方が畳みやすいのは明らかで、縦糸の細さ縦方向に折りたたむ和服の収納面でも合理的なのだ。そして、長方形を基本とした和服の直線的な構成は、袖や裾が摩耗してきたときに、布の上下を反転して再構成することを可能にする。④和服は寸法的にもゆとりが多いために、消耗した縫合部分を切断して上下を入れ替えても、もとの原型を大きく崩さずに再構成することができる。そして着物として利用が困難なほど傷みが進んだ場合には、今度は布団の生地として使用し、さらに消耗した時には座布団に作り変えるなど、きわめて使いまわしに便利だ。
 和服の大きなゆとり量は、布地の消耗が少ない直線裁断により構成され、姿勢動作のくつろぎを確保し、さらに湿度の高い日本の風土のなかで、衣服の内部を常に風通しよく保つ役割を果たしている。その高度に様式化された服飾形態は、人間が一定の作法に従うことを要求するけれども、その着装と動作の技法を身に着けたときには、布と身体の自然本来の特性がともに機能する仕組みになっている。つまり、日本の服飾様式は素材と身体とが自然という共通の基礎に立って、相互の自然性を活かす形で様式化されており、この点において、和裁と洋裁とでは対極的な自然観に基づいた被服構成の技法であることが示される。

2024年10月24日 (木)

矢田部英正「たたずまいの美学 日本人の身体技法」(3)~第2章 履物と歩行様式

 歩行様式と履物とは密接な関係にある。日本人に特徴的な爪先重心の歩き方は、日本の履物の様式と密接に結びついている。日本人の歩行の特徴は、爪先に体重を傾けて、腰を曲げ、踵を引きずって歩く傾向があり、それらはおよそ体幹の前方に体軸をもつ姿勢から派生した歩行様式です。それは芸事や生活の諸作法などに共通する身体文化でもありました。ヨーロッパでは、踵から勢いよく着足する歩行様式に対応するようにして、踵部分をときに補強した靴が生まれたのに対して、日本の履物は総じて爪先に鼻緒をつっかけ、爪先に体重を傾けて歩くことを要求する。
 例えば、下駄はヨーロッパの歩行様式では歩きにくい。下駄は、歯の段差を利用して、爪先の方へ体重を移動すると、自然と下駄は前に傾く、その瞬間に地面すれすれに足を出す。つまり、下駄は、自ら意識して足を前に出そうとして歩くのではなく、身体を前に傾けると、足は後から連れられるようにして、自然と前へでる仕組みになっていて、そうすると鼻緒に負担がかからず、足指に食い込むことはない。下駄は、あるくだけでなく日常の作業で地面に腰を下ろすことの多く、踵の上に坐って作業をする際に足への負担を軽減する役割を果たしてもいた。踵に尻を乗せ、爪先を深く屈曲させた状態で全体重を支える。土間や井戸端で長時間、この姿勢を保つことができる。そんなことから、実際に日本人の日常のなかでもっとも広く普及した履物であり、日本独自のものである。

※ハイヒールを履いた場合には、下腿関節の構造的な理由から腰が後ろに引けて、女性の臀部の輪郭が強調される。窄められた爪先と踵の不安定な靴底で歩こうとすると、自然と腰が左右に振られるので、それが男性への性的な触発の格好の道具となる。このハイヒールを着用した出尻鳩胸の姿勢は、コルセットやバッスルという女性の肉体的な起伏を大きく強調する服飾様式と密接に関係している。足先やウェストを極度に締め付ける服飾様式の流行によって、ヨーロッパ女性は身体の自然をひどく歪められてきた。これに対して、日本の媚態表現は人間の体型を歪めることをしない。むしろ肉体の形を覆い隠す。日本女性の歩行様式における媚態は、覆い隠すことと見せることの均衡のずれ、技法的な意味では整えることと崩すことの均衡のズレを生じさせる身体技法にある。例えば、ハイヒールに似た高下駄を履く花魁の足先は足袋が装着されていない。摺り足の基本から横に外れて伸びた花魁の足は化粧を施された素足である。体軸の正中線から大きく外側に弧を描き、緩やかに蛇行する花魁の足運びには、抑制された動作のなかから日常の均衡を崩そうとする高度な身体技法がある。それは女性の肉体を装身具によって造形しようとする西洋の手法とは対照的に、着物の裾からわずかにのぞく素足とその足運びによって、花魁の棲む世界で繰り広げられる非日常的な媚態の感覚を、観る者に想起させる歩行の技術なのである。

2024年10月23日 (水)

矢田部英正「たたずまいの美学 日本人の身体技法」(2)~第1章 立居振舞いの論理

 最初に日本人と西洋人とでは歩き方が異なる、という視点を提示する。日本人は膝から下が外側に湾曲したらО脚が多い。しかし、それを伝統芸能から見ると、そのおかげで板の間でも脛が当たらずに長時間座っていることができる。
 その身体の違いは生活から作られる。牧畜、農耕、狩猟、採集、漁労など、それぞれの労働は異なる運動形態をもっている。獲物を追い、牛や馬を放牧するための労働と、水田に稲を植え、収穫する労働とでは必要とされる身体が異なる。牧畜向きの身体は、手足が長く、四肢の骨格が発達し、高い土踏まずをもつ。その特徴は獲物や家畜を追いかける俊敏性である。これに対して稲作に適した身体は上半身と比べて腰回りが太く、脚は短く、土踏まずは扁平に近く、足の甲は横幅が大きく広がっていて、どっしりと安定している。
 人の身振りには社会性があり、そこに一般化できるような法則性があると、マルセル・モースは主張した。人間が世界に対して働きかけていくときに、身体は最も根源的な道具として一定の技法を形づくる。その能力をさらに拡大させようとする時に、人間は、行動目的に従った道具を、さまざまな形で生み出してきた。道具とは元来、身体の延長物として作られ、それを扱う技術のあり方についても、本来は身体の延長にあったはずのものである。
 しかし、その身体技法の研究は、未だ活字化されていない生きた現象に踏み込んで、その内奥に潜む運動の構成原理を掴み取ってこなければならない。そのための方法が明確に語られたことがなかったため、活字に対する信頼が強い学者ほど容易な既存の分野に逃げてしまった。
 身体技法は社会的に形成され、それぞれの民族に固有の文化的特徴を示す。例えば、日本の芸道における「型」について考えてみると、そこには一定の目的のなかで、高い合理性をもつ「動き」や「構え」が集成されていて、完成度が高くなるほど、一時代的な変化によっては変更の利かない強い普遍性を持つことがある。具体的に言うならば、坐の技法については、日本国内でも千年を超えて持続する強い技術があり、それを支える呼吸や内観といった技法については古代中国やインドにつながる。
 本書における主な関心は、日本人の身体技法にあり、とくに日本古来の衣服や履物、過程における起居様式が、どのような身体技法に基づいて成り立っているかということにある。日々繰り返される習慣の中で身につけられた身体技法は、当たり前のこととして無意識の底に深く沈み込んでいて、当事者の自覚されることは稀である。
 最初の歩き方の違いは、歩き方だけの問題ではなく、生まれ育った社会の、長年にわたって培われてきた生活文化を広く映し出す形で、日本人の歩き方がつくられている。
 川田の分析によれば西アフリカや欧州の歩行様式は背筋を伸ばして、足先を外側に開き、膝を伸ばして歩く特徴があり、足を大きくけり出すので、安定性は高くない。これに対して、日本人は上体を前傾させ、膝を軽く屈曲させ、いわゆる腰の入った膝歩行が特徴的で、地面に対して高い安定性を備えている。この違いを身体の軸という面から解釈すると、次のようになる。人間は直立姿勢を保つようになってから、脚骨や脊椎骨を地面に対して垂直に積み上げるようにして立っている。膝は太腿の重さを支え、骨盤は上半身の重量を支えている。このように身体の縦に連なる部位と部位の力感は、体幹の中心辺りに一定のまとまりのある感覚を生じさせ、これが姿勢・動作を統率する体軸として機能する。そこで体幹の後方(背中側)に体軸が位置している場合、足の裏にかかる体重の配分は踵側の比重が大きく、これを後方軸と呼ぶ。一方、体幹の前方(腹側)に体軸が位置している場合、足裏の体重配分は爪先側に比重が大きくなり、これを前方軸と呼ぶ。西アフリカや欧州は後方軸の姿勢が基本で、日本は前方軸の姿勢が基本となっている。
 欧州の歩行は、前足が大きく前に蹴り出され、上体が後からついてくる特徴がある。そのため体軸には捻じれが生じ、上体と下体の捻じれを調整するために左右の手を交互に振る必要が生じる。このような歩行様式において、踏み出した足がおのずと踵から接地するため、靴は踵の部分に厚みのあるヒールが施され、靴の縫製においても踵の部分を補強する。このことは前足を大きく蹴り出し、踵から勢いよく着足する、彼らの歩行様式と深く関係している。
日本人の歩行は、歩幅が狭く、上体を前景気味に、踵を引きずりながら、膝から下を小刻みに動かす特徴がある。この条他の前傾した前方軸の歩行は、和服を着用したときには、ごく自然な様式美を醸す。この歩き方を、洋装のヒールの高い靴で行なえば、滑稽になる。
 基本姿勢の体軸が、体幹のどの位置にあるかが、歩行や前屈等の動きに基本的な制約を与える。立ち姿勢は足の裏に前身の体重がかかるが、この足裏の体重配分が爪先側と踵側のどちら側に傾くかによって、動作の仕方が質的に異なってくる。後方軸の立ち姿勢は、運動構造上の特質として、「前身」と「上昇」の運動に対しては自然と身体が反応するが、腰の「沈み」や上体の「反り」のような動作には工夫が必要だ。つまり、爪先を正面に向けたまま、腰を曲げて「沈み」をしようとすると、後ろへ引っ繰り返ってしまう。そこで、爪先を外側に向け、同時に股関節から脚骨全体を外に開くことによって、骨盤の前面が外側に開き、その裏側の仙骨一体に緊張が起こり、この部分が身体の動きを安定される基点として機能する。これを様式化したのが、バレエのバーレッスンの沈み動作だ。これに対して、前方軸は、腰の柔らかな屈曲が必須条件となる。爪先に体重を傾けた前方軸の姿勢では、両足を並行に揃えて腰を伸ばしたままでいると、足を前に出すことはできない。膝裏の筋群に強い緊張をもたらしている。日本人の歩行に見られる膝の屈曲は、地面から身体に伝わる衝撃を吸収するサスペンションの機能を果たしている。前方軸の基本姿勢では、やわらかい腰の屈曲を上手に用いると、上下動の少ない摺り足の歩行となる。この基本姿勢は、膝に軽い屈曲がある限りにおいては、前後左右上下のどちらの方向からも対応の利く姿勢である。ところが膝を伸ばしたままで前景動作を行うと、膝裏の筋肉に強い緊張をもたらし、前屈では転倒を避けられない。この場合、深い屈曲を必要とする。この姿勢は田植えの作業姿勢と酷似している。田植えや稲刈りなど、日本人の農作業に不可欠な、この姿勢は足腰を酷使する。この労働から腰を守るために、帯を幾重にも巻く着物の形式や、爪先に体重をかけながら膝を屈曲させて歩くような、独特の歩行様式が生み出されたと言える。
 このように習慣的に伝承される記述というのは、それを行っている当事者にとっては意識的にコントロールすることがしにくいために、同一社会内に長期にわたって存在し続け、身体技法を構成する基層の部分に内在化される。それゆえ、基本姿勢における体軸の位置というのは、異文化の流入や一時的な社会変化によっては、用意には変更することができない恒常的な性質をつくり、歩行時の足運びや作業時の前屈姿勢など、立居振舞の全体に、社会で広く共有される集合的な傾向を特徴づけるようになる。

2024年10月22日 (火)

矢田部英正「たたずまいの美学 日本人の身体技法」

11112_20241022231501  同じ洋服を着ているのに、日本人と西洋人の歩き方が違う。ヨーロッパは狩猟、牧畜社会で獲物を追い、牛や馬を放牧するための身体が形づくられ、歩き方もその一環として背筋を伸ばして、足を蹴り出すようにして大股で歩く。これに対して、日本は農耕、稲作社会で、水田の不安定な地面で腰を曲げて田植えや稲刈りをする。それに適した身体は、半身と比べて腰回りが太く、脚は短く、土踏まずは扁平に近く、足の甲は横幅が大きく広がっていて、どっしりと安定している。その身体では前屈みの姿勢で小股でちょこちょこ歩く。著者は人間はそれぞれの社会で日常の無意識的な反復により身についた動きを身体技法と呼ぶ。それは、歩き方だけでなく、坐り方や立ち姿勢にも及ぶ。日本では、それを洗練させたものが、武道や芸道の「型」といえる。このさまざまな日本の「型」に共通して根柢に「腰を入れる」という動きがあるという。身体の姿勢で言うと、上半身をリラックスさせて、骨盤を前傾させることで、身体の重心を腰で支えるという形である。これは、直立姿勢の西洋人とは異なるもので、和服という衣服や下駄・草履などの履物といった身体の一部となるようなものも、この姿勢に適した形をとっている。このような身体の姿勢は、日本人の生活の基盤となっているだけでなく、和服の形は織物や和裁といった素材や技術から美意識まで及んで強く影響を受けている。
 例えばヨーロッパの近代思想が、デカルトの心身二元論で精神が身体をコントロールするといったものに対して、本書の内容を敷衍すれば、日常生活で形成される身体のあり方が、実は精神的なものを形づくっているという。例えば、日本の仏教思想は、「腰を入れる」という状態の力を抜く姿勢と不即不離で、西洋の主体の考え方を肩をいからせた身体の格好のような煩悩と見なす、というのには納得してしまった。禅のそうだし武道や芸道の修業でも、真実は理屈により言葉で話されるものではなく、身体で感じるものだというのは、そういうとこから来ている。

 

2024年10月19日 (土)

田中一村展 奄美の光 魂の絵画(4)~第3章 己の道 奄美へ

 50歳となった田中は奄美大島にわたり、そこで現在の田中一村の代表作とされているような作品を次々と制作したということです。ここからは、展覧会ポスターにあるような作品たちのオンパレードです。今まで見てきた作品にあった萌芽的な要素が一気に開花したというわけです。
 ただ、展示されている個々の作品については、金太郎飴みたいな印象で、ひとつひとつの作品がどうだというのではなく、全体としてユニークという印象で、そういう捉え方をしています。
 「奄美の海に蘇鉄とアダン」(上側)という1961年の作品です。エスカレーターを上がって、第3章となる展示室に入って、これから奄美での作品が始まると思ったら、スケッチとか肖像画とか小品といった者がまず並んでいて、その人並みを避けて、次へ行こうとして、最初に目に飛び込んできたのが、この作品です。ずいぶんと横長の画面に、豪快に手を広げる蘇鉄と、艶のある黄色とオレンジ、緑のアダンが見えます。その蘇鉄の葉は細長い枝葉に分かれ、その一本一歩がうねうねしていて反復し、また棘に囲われたオレンジの葉はうねうねと曲がりながら反復しています。またそれぞれの花や実の中ではうねうねが反復している。それらが溢れてしまいそうなほど画面いっぱいに描かれています。前のところで指摘しましたが、アンリ・ルソーの「夢」(下側)の画面いっぱいに溢れる記号的な南洋植物を髣髴とさせます。ただ、田中の場合は、ルソーが裸女を配するのと違って、人物を配することなく、右下の蘇鉄とアダンの樹間の向こうに立神を配しています。これまで、田中は遠景に何か意味ありげなものを描くようなことはなかったのですが、私には、これは余計で、それまでのサバサバした画面に変な物語を持ち込んでいるように邪魔です。

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Tanakaseaside  あとは、田中本人が代表作とした二つの作品を取り上げれば、他の奄美での作品は、それで言い尽くされると思います。それで、「アダンの海辺」1969年の作品です。一村にとって奄美大島を象徴するモチーフ「アダン」の実を、きらめく波涛や砂浜を背景に大きく描いた作品です。とげのあるアダンの葉を緑色や青色を組み合わせ、重層的に見せていて、黄色の実もひときわ目を引きます。アンリ・ルソーが描く南洋植物のように゜、アダンの実はリアルで立体的ではなく平面的で、葉は実の背景のように広がっています。それは、現実というより夢のような幻想的な世界に誘うかのようです。ただし、一村が表現しようとしたのは、アダンではなかったようで、「この絵の主目的は乱立する白雲と海浜の砂礫であって、これは成功したと信じております。何ゆえ無落款で置いたか(たしかに本図には落款がない)、それは絵に全精力を費やし果て、わずか五秒とはかからぬサインをする気力さえなく、やがて気力の充実したときにと思いながら今日になってしまった次第なのです」という本人の言葉が残されているそうです。鈍く光る海面、足元の砂礫、さざ波の描写の見事さ。砂礫は一粒一粒緻密に描かれている。遠景に沸き立つ白い雲。そして、はるか遠くの金色の輝きは光の在りかを暗示するようです。それは、現世を超えて彼岸へと続く世界を暗示している。「奄美の海に蘇鉄とアダン」で立神が意味ありげに配置されていたのが、ここではあからさまに描かれています。田中のことを日本のゴーギャンと称する向きもありますが、田中も晩年のゴーギャンのように神がかっちゃったのでしょうか。そういう感傷を突き放していたのが田中の作品の特徴だったと思っていたのですが。
Tanakasotetsu  「不喰芋と蘇鐵」1973年の作品です。花芽から実が落ちるまでの不喰芋の命の円環を、南国の生命力あふれる濃密な自然の中に表現したものと言えます。その円環ということ、あるいは葉で画面が埋められて、わずかに中央に隙間があるくらいを見ていると、上下の感覚が曖昧になるような錯覚にとらわれます。それは、画面を描く際の一定の視点がなくて、細部が個々に正面の視点で描かれているからです。例えば、画面の上方を占める表と裏を見せ合う二葉の不喰芋の大葉は、ともに正面からの視点て描かれています。もし、画面全体を一つの視点描くならば、俯角で描かれるはずでする。それに限らず、画面が中位でも下位でも最下位でも正面の視点で描かれているのです。それが全体を見渡すと、細部にも全体にも緊密さが保たれているのです。そこで、上下、斜め、横方向にと自由自在に蕾や葉先を伸ばしたり垂らしたりする配置は、茎や葉に用いられた同色系の明暗の使い分けによって前景にあるように強調されます。茎頂の黄色の花穂や、異様な肉付き感を赤色で膨らました数顆の果実などの、原色を使った色彩的効果が、さらに前景感を煽っています。その効果は見る者には、感覚的には逆作用として働きかけることになり、却って、葉群れのなかに空いた隙間(画幅中央部)に引き寄せられてしまうことになります。つまり、隙間の彼方に浮かぶ海上の立神に引き寄せられることになるのです。立神は奄美の自然信仰で神が降り立つとされる海上の岩です。その立神を中心として、改めて画面を見れば、立神を取り囲むようにして、花が咲き、赤い実となって朽ちていくクワズイモ。画面右手にそそり立つソテツの黄色い雄花、そして左下のオレンジの雌花。右下は子孫繁栄の象徴ハマナタマメの花が配される、と受け取ることになります。つまり、中心は現実の向こう側、彼岸の世界なのです。
 混雑の中で、人込みを掻い潜るように作品をスポット的に覗き見ることを続けてきて、このあたりの終わり近いところでは、かなり疲れていました。現実から逃避したくなっていたかもしれません。
いろいろにところで宣伝したり、マスコミで取り上げられていたりしたようですが、田中一村は人気があるようですね。

 

2024年10月18日 (金)

田中一村展 奄美の光 魂の絵画(3)~第2章 千葉時代「一村」誕生

 父親を亡くし、30歳を迎えた一村は、千葉に移住し、自活し始めたといいます。貧乏な生活のなかでも絵画を描き続けた、その時期の作品です。
Tanakachibaaki  「千葉寺 麦秋」という昭和20年代末の作品です。これまで見たことがなかった風景画です。西洋の風景画にも人間を大変小さく描きこんでいる作品がありますが、この作品は、それ以上に人間が極端に小さい。その極端さは日本画としては異質ではないかと思います。そして、その他に、この作品の特徴と思えることは、輪郭が明確に描かれていないというところです。とはいっても、朦朧体のように意識して輪郭を描かないのとは違うようです。細い筆で細い線を引くという細かい作業は、この人は行わないのでしょうか。比較的太いか広い筆で線を引くと、その線の幅が、そのまま木の幹だったりしている。細い線で輪郭を描き、その輪郭で囲まれた中を着色する、というのではないのです。それは、太い(広い)筆で引いた線は木の幹だったり葉だったりという面を直接作っているというわけです。そのような線のような面で画面が構成されている、それが一村の作品の特徴となっています。
Tanakachibayuki  同じシリーズの「千葉寺 雪」という作品です。これも人物が異様に小さいし、線というより面で描かれています。例えば前面の雪の積もった地面も後景の木の枝に積もった雪も、白い面として、のっぺりしているという感じです。それが空の青い色と、積もった雪の白い面とが対照されて、日本画というより青と白の対照を生かしたイラストのようです。そこには、日本画に常套的な冬の寂しさとか静けさ寒々としたといった印象はまったくありません。そういう感傷を起こさせない、言ってみればサバサバしたところは田中の作品に一貫していると思います。
Tanakawhite  「白い花」という1947年の作品です。2曲の屏風の大きな画面全体が淡い緑と白で構成されて、明るく爽やかな色調で雰囲気が作られています。葉は遠くから見ると緑色の塊に見えて、そこに白い花が点々と散りばめられるように配置されているように映ります。しかし、緑の葉、一枚一枚描かれて、それが重なり合っているので、遠目には塊に見えるというわけです。とはいっても、細かい隙間があるので、重く、もっさりとした感じはありません。緑の葉と白い花がそれぞれがのっぺりとした面で、それぞれに反復するように重なり合ってという画面です。その平面的で葉と花がパターン化しているところから琳派的と言えるかもしれません。というより、後の奄美に渡ってからの作品で顕著に感じるのですが、アンリ・ルソーに似ている。感傷を起こさせないサバサバしたところって、記号的、装飾的でもあるからね。
Tanakaevening  「黄昏」という1948年の作品です。日本画の風情をあまり感じさせないもので、黄昏時の空の暗い色とか、家の灯りの暗いオレンジ色といった色遣いはオランダの風景画の風情を感じさせます。何度も言うようですが、田中の作品には余白がなくて、画面全部が絵の具で塗り込められています。夕暮れの寂しさ、侘しさのような風情はまったく感じられません。しかも、画面の構成には風景ではあるのに遠近感はなく平面的でのっぺりしています。日が落ちて影となった木々や家の黒と空のグレーに対して、家の灯りのオレンジ色の対照されて印象的に映える。さきほど指摘しましたが、木々の影となって黒で描かれている形が、アンリ・ルソー的に映ります。
Tanakaseason  「四季花譜図」という1948年の作品です。襖絵で、この反対の面には「松図」が描かれています。画像では分かりませんが、実際に現物を見ると、かなり大きく花が描かれています。襖の大きさを想像して、その中で描かれている花の大きさを想像してみてください。その比率から、かなり大きく描かれているのが推測できると思います。例えば、一株の花を見て下さい。茎についている葉が同じような形で反復されています。花についても、細かく見ると、花びらが反復されて重なっています。それらが、うねうねした線で構成されています。描き方は面的でのっぺりしているのですが、うねうねしているので、自然な感じが生まれています。それが、日本画の一般的な花鳥画と異質なところです。たとえば、活躍の時期が重なる福田平八郎は、同じように琳派的な反復で画面を構成させた人ですが、福田の場合はうねうね線がなくて、デザイン的な性格が強く感じられます。その分、常套的な日本画に対する異質さは稀薄です。
Tanakaume  「白梅図」という1948年の作品です。4枚ずつの襖、それぞれいっぱいに白梅の巨木が描かれています。右手に根があり、そこから太い幹が幾本ものび出しています。左へ主幹が伸び上がり、それから下方へ出ている幾つかの分枝に、2、3分咲きの白梅の花がついています。幹にはウメノキゴケがつき、ヘラ状の羊歯が垂れ下がっています。枝振りは雄大ですが、特に印象に残るような奇態な屈曲を見せているというのではなく、ぶっきらぼうに直線状に延びた枝が空間を斜め十文字に斬るという構図です。人手のかかっていない自然の梅の巨木であると思う。ただ、これだけしか描かれておらず、地表にも空にもなにも描かれていません。しかも、巨木の重厚感はなく、枝ぶりで目を惹くようなところはありません。この白梅図のポイント、左方に斜めに下垂する大枝に咲き始めた純白の梅花と鈍赤紫の莟が、画面の左上を埋めるように無数にちりばめて配置されているところです。早春の野末の梅の花の一輪一輪が互いに会話を交わしあっているような、その反復です。梅花のひとつひとつに変化が加えられ、様式化されて装飾単位になってしまわない個別性が感じられる。音楽用語でいうとロンド形式の反復ではなく変奏曲となって、反復によって世界が広がるようなふくらみがあるのです。

 

田中一村展 奄美の光 魂の絵画(2)~第1章 若き南画家「田中米邨」東京時代

Tanakakiku  神童といわれた少年時代からの修業時代と自身の個性を発見していった時期です。
 「菊図」という八歳のころに描いたものが展示してありますが、八歳の子供が描いたものとは思えない、日本画の作品となっています。父親が彫刻家だったというのですが、一種の英才教育を受けていたのでしょう。これを描いたのも凄いですが、それ以上に、それを作品として残していたとうのはもっと凄い。おそらく、何かのお手本があって、“たいへんよくできました”と描いたものでしょうか。なぞったというわけでもないでしょうが、サラサラと筆が流れるように描いたような感じがして、止まっていないとうか、ひっかかりがない感じがします。筆に力(気)が入っていない。それは。後々まで、この人の作品の性格に在りつづけたと思います。
Tanakashiraume_20241017234801 Tanakafuji Tanakafujihana  「白梅図」(右側)という、また15歳で描いたという作品ですが、梅の枝が無秩序に絡み合うような筆跡は抽象画のようでもあります。しかし、それは梅を描いたというよりは、筆が無秩序に進んでしまったという印象です。筆に弄ばれたといった方がいいかもしれません。しかし、画面には讃の漢が所狭しとばかりにびっしりと右半分を埋め尽くすように書き込まれ、それに対抗すように左半分は木の枝を描く線で溢れています。画面を描写で溢れかえるという彼の特徴の萌芽的なものを、ここで見つけることができるというのは、少し早いでしょうか。それは同じ1924年に描かれた「藤図」(真ん中)で萌芽的だったのが2年後の「藤花図」(左側)ではっきり現われるので、よく分かります。
Tanakakikumari  「艶鞠図」という1928年の作品です。これまでの作品にはなかった色彩のバリエーションが加わって、多彩になり、一気に派手になります。それ以上に、大輪の菊の花の一枚一枚の花弁がビラビラで、それらが、いわば反復するように重なっていて、その反復が画面を占めるようになるという、パターンが生まれている。それは、菊の花を描くとか、花鳥画の日本画を制作するというより、この反復を筆をもって繰り返すことを優先し、そのための題材として、菊の花を花鳥画として制作するようにした、と思えてくるようなのです。それは、生き生きとした生命感とか、菊の花を写実的に描くというのは違って、筆から生み出される、うねうねと曲がりくねる線の運動を反復することによって、画面に波動のようなリズムが生まれる。この作品では、数個描かれている菊の花ごとに、それぞれリズムがあって、それらが異なる色という色分けもあって、各個に波動を生んでいる。その無秩序さが、一見、菊の花を描いた花鳥画のなかで蠢いているのです。
 「蘭竹図/富貴図衝立」は、1929年の作品で、片面金地に水墨のみの蘭竹図、もう片面には鮮やかな色彩で「富貴図」(下側)が描かれた両面の衝立です。展示室の真ん中にガラスケースに入った衝立がドーンと置かれて、裏表の両方から眺められるようになっていました。人だかりがして、人の隙間から窺うようにして見ることしかできませんでした。「蘭竹図」(上側)は金地の上に墨一色で、竹の葉が何十枚、何百枚と重なるように描かれていて、その下方には生い茂る下草の細長い葉の線が余白を埋めるように描かれています。これを見ていると、一般的な日本画のお行儀よく並ぶような配置された木や草とは違う描き方になっているのが分かります。何よりも、いわゆる日本画の余白を生かして余韻とか風情を感じさせるという要素が、ここには全くありません。そのあたりが、東京美術学校を入学して数か月で退学してしまったことなどから、アカデミックな型にはまった日本画の教育を免れたことも、その原因のひとつかもしれないと思います。それが、田中の特徴を形成させひとつの原因かもしれません。そして、裏面は対照的に極彩色に彩られた花々が描かれています。その花の花弁は、表面の竹のうねうねした線が重ねられて、花のなかで蠢いています。これらは、そういううねうねした線が埋め尽くされているようなのが、力強い線と捉えられるのでしょうか。私には、一本一本の線には、それほど力、あるいは気力が込められているようには見えません。それより、スゥーッと流れるように引かれているという印象が強いです。


Tanakarantake Tanakafuyu
 「椿図屏風」(下側)という1931年の作品です。絹本金地着色、二曲一双の金屏風。左隻(させき)は金無地、右隻(うせき)には画面を覆い尽くすように椿の花と葉が描かれており、さらに隙間を埋めるように白梅が描かれています。一隻は無地でもう一隻はこれでもかと盛られた椿の花、花、花。極端な構図が醸し出す迫力は異質でさえあります。無地は余白ですらなく無です。この対象は厳しい緊張感を生み出しています。描かれた椿は2種類。一つは、八重の牡丹咲きで絞り模様のツバキ。多数の花数で画面の多くを占めています。もう一つは、赤い一重のツバキ。花弁は平たく全開して、黄色い雄しべは丸く円を書いています。花糸は白いので真っ赤な花弁とのコントラストが美しい。椿の二種類の花が反復するように、リズム感を生み、その鮮やかな花を点とすると、暗い緑色の葉がのたうつ線のように反復され、鮮やかな花である点と対照され、緊張感を生んでいます。これは、普通の日本画の余韻といったものとは異質です。例えば、同じ題材を扱った速水御舟の「名樹散椿」(上側)と比べてみると、咲き誇る花を押しつぶすかのように濃緑の葉が密生する「椿図屏風」は余白とのバランスを計算しパターン化され、より装飾的な「名樹散椿」とは緊張感まったく違います。

Tanakaautumn  「秋色」という昭和10年代の作品です。これまでなかったグラデーションが加わります。それが秋の枯れた感じを生み出す。様々な色に紅葉した様々な形の葉を、まるで抽象画のように配置している。紅葉の葉を反復するように重ねて配置しているが、紅葉の程度を黄色のグラデーションをつけることで、反復の変奏をするように変化を作り出しています。中でも赤い色を中央に流れるように配置していながら、木の幹や蔓はまた違う動きを出して、しかも落ち着いた茶色を配置することで対照を作り出している。それらにより、画面の平面的な動きに時間的な動きの要素が新たに加えられたのではないかと思います。

 

2024年10月16日 (水)

田中一村展 奄美の光 魂の絵画(1)

Tanakapos  10月の3連休は全国的に好天に恵まれ絶好の行楽日和。13日はその中日。上野の駅を降りて公園口の改札をでたら、駅前の広場は大混雑。外国人旅行者の姿も目立つが、多くは家族連れやカップル。上野動物園の入り口は長蛇の列。私が、上野駅に着いたのは午後2時半ごろなんだが、いま並んでいて動物園に入って、そんなに過ごす時間があるのだろうかと、他人事ながら心配になる。混雑は動物園だけはなく、途中、前を通った西洋美術館ではモネのスイレン展をやっていて、美術館の前には長蛇の列が美術館の敷地の外にまで伸びている。あれは、どれぐらい待たされるのだろうか、と見ているだけでも、うんざりする。これから向かう、東京都美術館は混雑しているのだろうかと心配になる。行ってみたら、玄関で係員が大声で交通整理している。当日券売り場では、10人近く並んでいる。モネ展ほどではないが、列ができている。私が行くような展覧会では、こんなことは、めったにない。入場券を買うと、3時の入場です、と時刻指定をうける。これは初めてのこと。かなり混雑しているのかと、心配になったが、その心配は的中した。3時に入場を許されると、交通整理に誘導されて会場に入ると、人でいっぱい。ひとつの作品には、常に数人が群がっている。重版待ちしないと作品の前に立てない。それを見て、係員が、列をつくってはいけない。他人の邪魔をしないように心掛けて鑑賞して下さいと、怒鳴っている。作品の前で立ち止まって、じっくり見ることはできそうにない。人の流の空いたとこをみつけては、そこにピンポイントで行って、つまみ食いするように作品の前に立つという対し方。落ち着いて見るということはできなかった。印象に残った作品をメモしておいて、後で、これを書きながら、その作品を思い出して、あらためて反芻している。会場で、落ち着きなく、うろうろしているようだったので、途中で疲れてしまった。会場の椅子は空いてなくて、後半は追い立てられるように、そそくさと通り過ぎ、美術館を出て、電車にのって、車内で座ることができて、ようやく一息つくことができた。
 この展覧会と田中一村については、主催者あいさつにあるので引用します。“本展は、一村の神童と称された幼年期から、終焉の地である奄美大島で描かれた最晩年の作品まで、その全貌をご紹介する大回顧展です。世俗的な栄達とは無縁な中で、全身全霊をかけて「描くこと」に取り組んだ一村の生涯は、「不屈の情熱の軌跡」といえるものでした。自然を主題とする澄んだ光にあふれた絵画は、その情熱の結晶であり、静かで落ち着いた雰囲気のなかに、消えることのない、彼の魂の輝きをも宿しているかのようです。本展は、奄美の田中一村記念美術館の所蔵品をはじめ、代表作を網羅する決定版であり、近年発見された資料を多数含む構成により、この稀にみる画家の真髄に迫り、「生きる糧」としての芸術の深みにふれていただこうとする試みです。”

 

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