没後30年 木下佳通代(1)
10月の三連休は好天に恵まれて、美術館がその中にある公園は、多くの家族連れやカップルが、思い思いに散歩したり、ベンチに腰掛けたり、芝生で遊んだり、賑わっていた。ちょうど昼ごろに入った美術館のレストランは満席のようだった。しかし、企画展の展示室に入ると人影はまばらで、どちらかというと閑散としている。それだけに、静かで、他の鑑賞者を気にすることなく、じっくりと作品を鑑賞することができたし、誰はばかることなくメモを書き留めることができた。途中、他の鑑賞者と出会うこともあったが、この展示は作品の撮影が許されていたためか、絶えずスマホを掲げて撮影をしていて、撮影が終わると足早に次の作品に向かって立ち去ってしまう。そのためか、私一人が展示室に置き去りにされてしまうような感じだった。実は、この後、美術展のハシゴというか、上野に移動して東京都美術館にも行ったが、そこでは大混雑で作品の前に多数の人が列をなすような状態で、落ち着いて見ることができなかったのと好対照だった。それだけに、この展覧会は落ち着いた、とてもよい雰囲気だったと、今さら思い返して思う。
木下佳通代という人のことを、私はよく知らないので、どういう人かなどについては、展覧会木下佳通代の主催者の挨拶を引用します。“神戸に生まれ、関西を中心に活躍した木下佳通代(1939~1994)の没後30年の節目に開かれる本展は、国内の美術館では初の古典となります。京都市立美術大学(現・京都市立芸術大学)で絵画を学んだ木下は、在学中から作家活動を開始しました。1960年代には、神戸で結成された前衛美術集団・グループ〈位〉に影響を受け、制作を通して「存在」に対する関心を掘り下げていきます。1970年代には、写真を用いて、イメージと知覚、あるいは物質との関係を考察する作品を数多く手がけました。「絶対的存在と相対的存在はありながらも、存在はひとつでしかない」という考えを明確にした写真のシリーズは、その極めて理知的なアプローチによって国内外で高く評価されます。同時代のアートの世界的潮流とも呼応し、複数の写真を並置した組作品や、幾何学図形を写した写真の上から線を描き重ねるなどの手法により、視覚と認識、1981年にはドイツのハイデルベルクで個展を開催しました。海外での初個展と時を同じくして、木下は作品そのもののコンセプトを変えずに、写真以外の手段で作品制作が可能か試行します。80年代に入ってパステルを用いた作品によって素材と表現の相性を模索した後、再び絵画の制作に回帰します。「存在そのものを自分が画面の上に作ればいい」と考えるにいたった木下は、図式的なコンセプトから脱却することに成功します。シリーズ最初の作品に「‘82-CA1」と名付けて以降、アップデートを続ける筆致とともに、画面上の「存在」はたびたびその表情を変えていきます。1990年にがんの告知を受けると、治療法を求めて何度もロサンゼルスを訪れ、現地でも絶えず制作を続けます。1994年、木下は神戸で55年の生涯に幕を下ろします。再び絵画へ立ち帰った1982年以降だけでも、700点以上の絵画、ドローイングを制作しました。本展は、活動時期をたどるように3つの章で構成しています。公開の機会があまりなかったごく初期の作品から、国内外で高く評価された写真作品、そして1982年以降ライフワークとなった絵画作品によって、その活動の全貌を探ります。木下が一貫してテーマとした「存在とは何か」という問いは、現代においても尚、色褪せずに強烈に響きます。”
それでは、作品を見ていきましょう。
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