矢田部英正「たたずまいの美学 日本人の身体技法」(2)~第1章 立居振舞いの論理
最初に日本人と西洋人とでは歩き方が異なる、という視点を提示する。日本人は膝から下が外側に湾曲したらО脚が多い。しかし、それを伝統芸能から見ると、そのおかげで板の間でも脛が当たらずに長時間座っていることができる。
その身体の違いは生活から作られる。牧畜、農耕、狩猟、採集、漁労など、それぞれの労働は異なる運動形態をもっている。獲物を追い、牛や馬を放牧するための労働と、水田に稲を植え、収穫する労働とでは必要とされる身体が異なる。牧畜向きの身体は、手足が長く、四肢の骨格が発達し、高い土踏まずをもつ。その特徴は獲物や家畜を追いかける俊敏性である。これに対して稲作に適した身体は上半身と比べて腰回りが太く、脚は短く、土踏まずは扁平に近く、足の甲は横幅が大きく広がっていて、どっしりと安定している。
人の身振りには社会性があり、そこに一般化できるような法則性があると、マルセル・モースは主張した。人間が世界に対して働きかけていくときに、身体は最も根源的な道具として一定の技法を形づくる。その能力をさらに拡大させようとする時に、人間は、行動目的に従った道具を、さまざまな形で生み出してきた。道具とは元来、身体の延長物として作られ、それを扱う技術のあり方についても、本来は身体の延長にあったはずのものである。
しかし、その身体技法の研究は、未だ活字化されていない生きた現象に踏み込んで、その内奥に潜む運動の構成原理を掴み取ってこなければならない。そのための方法が明確に語られたことがなかったため、活字に対する信頼が強い学者ほど容易な既存の分野に逃げてしまった。
身体技法は社会的に形成され、それぞれの民族に固有の文化的特徴を示す。例えば、日本の芸道における「型」について考えてみると、そこには一定の目的のなかで、高い合理性をもつ「動き」や「構え」が集成されていて、完成度が高くなるほど、一時代的な変化によっては変更の利かない強い普遍性を持つことがある。具体的に言うならば、坐の技法については、日本国内でも千年を超えて持続する強い技術があり、それを支える呼吸や内観といった技法については古代中国やインドにつながる。
本書における主な関心は、日本人の身体技法にあり、とくに日本古来の衣服や履物、過程における起居様式が、どのような身体技法に基づいて成り立っているかということにある。日々繰り返される習慣の中で身につけられた身体技法は、当たり前のこととして無意識の底に深く沈み込んでいて、当事者の自覚されることは稀である。
最初の歩き方の違いは、歩き方だけの問題ではなく、生まれ育った社会の、長年にわたって培われてきた生活文化を広く映し出す形で、日本人の歩き方がつくられている。
川田の分析によれば西アフリカや欧州の歩行様式は背筋を伸ばして、足先を外側に開き、膝を伸ばして歩く特徴があり、足を大きくけり出すので、安定性は高くない。これに対して、日本人は上体を前傾させ、膝を軽く屈曲させ、いわゆる腰の入った膝歩行が特徴的で、地面に対して高い安定性を備えている。この違いを身体の軸という面から解釈すると、次のようになる。人間は直立姿勢を保つようになってから、脚骨や脊椎骨を地面に対して垂直に積み上げるようにして立っている。膝は太腿の重さを支え、骨盤は上半身の重量を支えている。このように身体の縦に連なる部位と部位の力感は、体幹の中心辺りに一定のまとまりのある感覚を生じさせ、これが姿勢・動作を統率する体軸として機能する。そこで体幹の後方(背中側)に体軸が位置している場合、足の裏にかかる体重の配分は踵側の比重が大きく、これを後方軸と呼ぶ。一方、体幹の前方(腹側)に体軸が位置している場合、足裏の体重配分は爪先側に比重が大きくなり、これを前方軸と呼ぶ。西アフリカや欧州は後方軸の姿勢が基本で、日本は前方軸の姿勢が基本となっている。
欧州の歩行は、前足が大きく前に蹴り出され、上体が後からついてくる特徴がある。そのため体軸には捻じれが生じ、上体と下体の捻じれを調整するために左右の手を交互に振る必要が生じる。このような歩行様式において、踏み出した足がおのずと踵から接地するため、靴は踵の部分に厚みのあるヒールが施され、靴の縫製においても踵の部分を補強する。このことは前足を大きく蹴り出し、踵から勢いよく着足する、彼らの歩行様式と深く関係している。
日本人の歩行は、歩幅が狭く、上体を前景気味に、踵を引きずりながら、膝から下を小刻みに動かす特徴がある。この条他の前傾した前方軸の歩行は、和服を着用したときには、ごく自然な様式美を醸す。この歩き方を、洋装のヒールの高い靴で行なえば、滑稽になる。
基本姿勢の体軸が、体幹のどの位置にあるかが、歩行や前屈等の動きに基本的な制約を与える。立ち姿勢は足の裏に前身の体重がかかるが、この足裏の体重配分が爪先側と踵側のどちら側に傾くかによって、動作の仕方が質的に異なってくる。後方軸の立ち姿勢は、運動構造上の特質として、「前身」と「上昇」の運動に対しては自然と身体が反応するが、腰の「沈み」や上体の「反り」のような動作には工夫が必要だ。つまり、爪先を正面に向けたまま、腰を曲げて「沈み」をしようとすると、後ろへ引っ繰り返ってしまう。そこで、爪先を外側に向け、同時に股関節から脚骨全体を外に開くことによって、骨盤の前面が外側に開き、その裏側の仙骨一体に緊張が起こり、この部分が身体の動きを安定される基点として機能する。これを様式化したのが、バレエのバーレッスンの沈み動作だ。これに対して、前方軸は、腰の柔らかな屈曲が必須条件となる。爪先に体重を傾けた前方軸の姿勢では、両足を並行に揃えて腰を伸ばしたままでいると、足を前に出すことはできない。膝裏の筋群に強い緊張をもたらしている。日本人の歩行に見られる膝の屈曲は、地面から身体に伝わる衝撃を吸収するサスペンションの機能を果たしている。前方軸の基本姿勢では、やわらかい腰の屈曲を上手に用いると、上下動の少ない摺り足の歩行となる。この基本姿勢は、膝に軽い屈曲がある限りにおいては、前後左右上下のどちらの方向からも対応の利く姿勢である。ところが膝を伸ばしたままで前景動作を行うと、膝裏の筋肉に強い緊張をもたらし、前屈では転倒を避けられない。この場合、深い屈曲を必要とする。この姿勢は田植えの作業姿勢と酷似している。田植えや稲刈りなど、日本人の農作業に不可欠な、この姿勢は足腰を酷使する。この労働から腰を守るために、帯を幾重にも巻く着物の形式や、爪先に体重をかけながら膝を屈曲させて歩くような、独特の歩行様式が生み出されたと言える。
このように習慣的に伝承される記述というのは、それを行っている当事者にとっては意識的にコントロールすることがしにくいために、同一社会内に長期にわたって存在し続け、身体技法を構成する基層の部分に内在化される。それゆえ、基本姿勢における体軸の位置というのは、異文化の流入や一時的な社会変化によっては、用意には変更することができない恒常的な性質をつくり、歩行時の足運びや作業時の前屈姿勢など、立居振舞の全体に、社会で広く共有される集合的な傾向を特徴づけるようになる。
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