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2024年10月18日 (金)

田中一村展 奄美の光 魂の絵画(3)~第2章 千葉時代「一村」誕生

 父親を亡くし、30歳を迎えた一村は、千葉に移住し、自活し始めたといいます。貧乏な生活のなかでも絵画を描き続けた、その時期の作品です。
Tanakachibaaki  「千葉寺 麦秋」という昭和20年代末の作品です。これまで見たことがなかった風景画です。西洋の風景画にも人間を大変小さく描きこんでいる作品がありますが、この作品は、それ以上に人間が極端に小さい。その極端さは日本画としては異質ではないかと思います。そして、その他に、この作品の特徴と思えることは、輪郭が明確に描かれていないというところです。とはいっても、朦朧体のように意識して輪郭を描かないのとは違うようです。細い筆で細い線を引くという細かい作業は、この人は行わないのでしょうか。比較的太いか広い筆で線を引くと、その線の幅が、そのまま木の幹だったりしている。細い線で輪郭を描き、その輪郭で囲まれた中を着色する、というのではないのです。それは、太い(広い)筆で引いた線は木の幹だったり葉だったりという面を直接作っているというわけです。そのような線のような面で画面が構成されている、それが一村の作品の特徴となっています。
Tanakachibayuki  同じシリーズの「千葉寺 雪」という作品です。これも人物が異様に小さいし、線というより面で描かれています。例えば前面の雪の積もった地面も後景の木の枝に積もった雪も、白い面として、のっぺりしているという感じです。それが空の青い色と、積もった雪の白い面とが対照されて、日本画というより青と白の対照を生かしたイラストのようです。そこには、日本画に常套的な冬の寂しさとか静けさ寒々としたといった印象はまったくありません。そういう感傷を起こさせない、言ってみればサバサバしたところは田中の作品に一貫していると思います。
Tanakawhite  「白い花」という1947年の作品です。2曲の屏風の大きな画面全体が淡い緑と白で構成されて、明るく爽やかな色調で雰囲気が作られています。葉は遠くから見ると緑色の塊に見えて、そこに白い花が点々と散りばめられるように配置されているように映ります。しかし、緑の葉、一枚一枚描かれて、それが重なり合っているので、遠目には塊に見えるというわけです。とはいっても、細かい隙間があるので、重く、もっさりとした感じはありません。緑の葉と白い花がそれぞれがのっぺりとした面で、それぞれに反復するように重なり合ってという画面です。その平面的で葉と花がパターン化しているところから琳派的と言えるかもしれません。というより、後の奄美に渡ってからの作品で顕著に感じるのですが、アンリ・ルソーに似ている。感傷を起こさせないサバサバしたところって、記号的、装飾的でもあるからね。
Tanakaevening  「黄昏」という1948年の作品です。日本画の風情をあまり感じさせないもので、黄昏時の空の暗い色とか、家の灯りの暗いオレンジ色といった色遣いはオランダの風景画の風情を感じさせます。何度も言うようですが、田中の作品には余白がなくて、画面全部が絵の具で塗り込められています。夕暮れの寂しさ、侘しさのような風情はまったく感じられません。しかも、画面の構成には風景ではあるのに遠近感はなく平面的でのっぺりしています。日が落ちて影となった木々や家の黒と空のグレーに対して、家の灯りのオレンジ色の対照されて印象的に映える。さきほど指摘しましたが、木々の影となって黒で描かれている形が、アンリ・ルソー的に映ります。
Tanakaseason  「四季花譜図」という1948年の作品です。襖絵で、この反対の面には「松図」が描かれています。画像では分かりませんが、実際に現物を見ると、かなり大きく花が描かれています。襖の大きさを想像して、その中で描かれている花の大きさを想像してみてください。その比率から、かなり大きく描かれているのが推測できると思います。例えば、一株の花を見て下さい。茎についている葉が同じような形で反復されています。花についても、細かく見ると、花びらが反復されて重なっています。それらが、うねうねした線で構成されています。描き方は面的でのっぺりしているのですが、うねうねしているので、自然な感じが生まれています。それが、日本画の一般的な花鳥画と異質なところです。たとえば、活躍の時期が重なる福田平八郎は、同じように琳派的な反復で画面を構成させた人ですが、福田の場合はうねうね線がなくて、デザイン的な性格が強く感じられます。その分、常套的な日本画に対する異質さは稀薄です。
Tanakaume  「白梅図」という1948年の作品です。4枚ずつの襖、それぞれいっぱいに白梅の巨木が描かれています。右手に根があり、そこから太い幹が幾本ものび出しています。左へ主幹が伸び上がり、それから下方へ出ている幾つかの分枝に、2、3分咲きの白梅の花がついています。幹にはウメノキゴケがつき、ヘラ状の羊歯が垂れ下がっています。枝振りは雄大ですが、特に印象に残るような奇態な屈曲を見せているというのではなく、ぶっきらぼうに直線状に延びた枝が空間を斜め十文字に斬るという構図です。人手のかかっていない自然の梅の巨木であると思う。ただ、これだけしか描かれておらず、地表にも空にもなにも描かれていません。しかも、巨木の重厚感はなく、枝ぶりで目を惹くようなところはありません。この白梅図のポイント、左方に斜めに下垂する大枝に咲き始めた純白の梅花と鈍赤紫の莟が、画面の左上を埋めるように無数にちりばめて配置されているところです。早春の野末の梅の花の一輪一輪が互いに会話を交わしあっているような、その反復です。梅花のひとつひとつに変化が加えられ、様式化されて装飾単位になってしまわない個別性が感じられる。音楽用語でいうとロンド形式の反復ではなく変奏曲となって、反復によって世界が広がるようなふくらみがあるのです。

 

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