矢田部英正「たたずまいの美学 日本人の身体技法」(3)~第2章 履物と歩行様式
歩行様式と履物とは密接な関係にある。日本人に特徴的な爪先重心の歩き方は、日本の履物の様式と密接に結びついている。日本人の歩行の特徴は、爪先に体重を傾けて、腰を曲げ、踵を引きずって歩く傾向があり、それらはおよそ体幹の前方に体軸をもつ姿勢から派生した歩行様式です。それは芸事や生活の諸作法などに共通する身体文化でもありました。ヨーロッパでは、踵から勢いよく着足する歩行様式に対応するようにして、踵部分をときに補強した靴が生まれたのに対して、日本の履物は総じて爪先に鼻緒をつっかけ、爪先に体重を傾けて歩くことを要求する。
例えば、下駄はヨーロッパの歩行様式では歩きにくい。下駄は、歯の段差を利用して、爪先の方へ体重を移動すると、自然と下駄は前に傾く、その瞬間に地面すれすれに足を出す。つまり、下駄は、自ら意識して足を前に出そうとして歩くのではなく、身体を前に傾けると、足は後から連れられるようにして、自然と前へでる仕組みになっていて、そうすると鼻緒に負担がかからず、足指に食い込むことはない。下駄は、あるくだけでなく日常の作業で地面に腰を下ろすことの多く、踵の上に坐って作業をする際に足への負担を軽減する役割を果たしてもいた。踵に尻を乗せ、爪先を深く屈曲させた状態で全体重を支える。土間や井戸端で長時間、この姿勢を保つことができる。そんなことから、実際に日本人の日常のなかでもっとも広く普及した履物であり、日本独自のものである。
※ハイヒールを履いた場合には、下腿関節の構造的な理由から腰が後ろに引けて、女性の臀部の輪郭が強調される。窄められた爪先と踵の不安定な靴底で歩こうとすると、自然と腰が左右に振られるので、それが男性への性的な触発の格好の道具となる。このハイヒールを着用した出尻鳩胸の姿勢は、コルセットやバッスルという女性の肉体的な起伏を大きく強調する服飾様式と密接に関係している。足先やウェストを極度に締め付ける服飾様式の流行によって、ヨーロッパ女性は身体の自然をひどく歪められてきた。これに対して、日本の媚態表現は人間の体型を歪めることをしない。むしろ肉体の形を覆い隠す。日本女性の歩行様式における媚態は、覆い隠すことと見せることの均衡のずれ、技法的な意味では整えることと崩すことの均衡のズレを生じさせる身体技法にある。例えば、ハイヒールに似た高下駄を履く花魁の足先は足袋が装着されていない。摺り足の基本から横に外れて伸びた花魁の足は化粧を施された素足である。体軸の正中線から大きく外側に弧を描き、緩やかに蛇行する花魁の足運びには、抑制された動作のなかから日常の均衡を崩そうとする高度な身体技法がある。それは女性の肉体を装身具によって造形しようとする西洋の手法とは対照的に、着物の裾からわずかにのぞく素足とその足運びによって、花魁の棲む世界で繰り広げられる非日常的な媚態の感覚を、観る者に想起させる歩行の技術なのである。
« 矢田部英正「たたずまいの美学 日本人の身体技法」(2)~第1章 立居振舞いの論理 | トップページ | 矢田部英正「たたずまいの美学 日本人の身体技法」(4)~第3章 和装の身体技法 »
「書籍・雑誌」カテゴリの記事
- 今井むつみ「学力喪失─認知科学による回復への道筋」(3)~第2章 大人たちの誤った認識(2025.01.15)
- 今井むつみ「学力喪失─認知科学による回復への道筋」(2)~第1章 小学生と中学生は算数文章題をどう解いているか(2025.01.14)
- 今井むつみ「学力喪失─認知科学による回復への道筋」(2025.01.13)
- 佐々木閑「ゴータマは、いかにしてブッダとなったのか」(4)~第3時限目 サンガとは何か(2025.01.12)
- 佐々木閑「ゴータマは、いかにしてブッダとなったのか」(3)~第2時限目 釈迦の生涯(2025.01.12)
« 矢田部英正「たたずまいの美学 日本人の身体技法」(2)~第1章 立居振舞いの論理 | トップページ | 矢田部英正「たたずまいの美学 日本人の身体技法」(4)~第3章 和装の身体技法 »
コメント