佐々木閑、宮崎哲哉上野修「ごまかさない仏教 仏法僧から問い直す」(1)
はじめにユヴァル・ノア・ハラリによる仏教の要約を正しいものとして、本書は、それを証拠立てる作業だという。
“心はたとえ何を経験しようとも、渇愛をもってそれに応じ、渇愛はつねに不満を伴うというのがゴーダマの悟りだった。心は不快なものを経験すると、その不快なものを取り除くことを渇愛する。快いものを経験すると、その快さが持続し、強まることを渇愛する。したがって、心はいつも満足することを知らず、落ち着かない。痛みのような不快なものを経験したときには、これが非常に明白になる。痛みが続いているかぎり、私たちは不満で、何としてもその痛みをなくそうとする。だが、快いものを経験したときにさえ、私たちはけっして満足しない。その快さが消えはしないかと恐れたり、あるいは快さが増すことを望んだりする。人々は愛する人を見つけることについて何年も夢見るが、見つけたときに満足することは稀だ。相手が離れていきはしないか不安になる人もいれば、たいしたことのない相手でよしとしてしまったと感じ、もっと良い人を見つけられたのではないかと悔やむ人もいる。周知のとおり、不安を感じながら悔やんでもいる人さえいる。
ゴーダマはこの悪循環から脱する方法があることを発見した。心が何か快いもの、あるいは不快なものを経験したときに、物事をただあるがままに理解すれば、もはや苦しみはなくなる。人は悲しみを経験しても、悲しみが去ることを渇愛しなければ、悲しさは感じ続けるものの、それによって苦しむことはない。
ゴーダマは、渇愛することなく現実をあるがままに受け容れるように心を鍛錬する、一連の瞑想術を経験しているか?にもっぱら注意を向けさせる。このような心の状態を達成するのは難しいが、不可能ではない。”
これは、例えばキリスト教とは異質というか、考えようによってはキリスト教そのものが悪循環にはまる迷いだともいえなくもない。仏教が物事をありのままに理解するのを進めるということは、救済を期待するというのは苦しみを招く原因に他ならないことだからだ。だからというわけではないが、仏教にはキリスト教における聖書のような聖典がない。そんなものにすがって救いを求めるというのは、執着にほかならない。そんなこと自分で考えろ、と突き放すが仏教。そう考えるとゴーダマ・ブッダの思想というのは、とても分かり易い。そして、日本の仏教というのが、それとはかけ離れて、いかに特殊化されているのか。
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