佐々木閑、宮崎哲哉上野修「ごまかさない仏教 仏法僧から問い直す」(2)~第1章 仏─ブッダとは何者か
ブッダとは古代インド語の「目覚める」という動詞の過去分詞形で、目覚めた人という意味である。彼の本名はゴーダマ・シッダッタで、釈迦とは彼が生まれた一族シャーキャ族の漢語への音写に由来する。釈迦は歴史上の実在した人物で、神のように世界や人間を創造したり、救済したりする超越的な存在ではない。
釈迦という個人がどのようなひとであったかは仏伝に書かれている。しかし、そのオリジナルとされるマハーヴァッカは釈迦の一生の物語としては中途半端で、それは、この書は釈迦の一生を語るものと言うより、仏教という宗教が成立するプロセスを語るために作られたものだからだ。だから、その中心は釈迦が悟ったところから仏教という宗教団体が完成したところまでなのだ。仏伝制作当時の仏教徒は釈迦個人の人生や事績には関心がなく、彼らの関心は釈迦が残した成道に進む思想や方法、あるいは律の成立過程の正当性にあった。
釈迦の有名なエピソードである、誕生時の天上天下唯我独尊や四門出遊などは、仏教はこういう宗教だということを表わすための作り話である。四門出遊は、老と病と死という三つが人間にとって避けることのできない苦しみで、それらに出会ったら絶望するしかないとおもったら、最後に修行という道があることが示される。そこで仏教が何を目指す宗教かを示す働きをしている。仏教が解決しようとする問題は、あくまで「この私」の苦(四苦)とそれらの原因とも結果ともなり得る「この私」の存在性質をめぐる苦(八苦)であることを明らかにしている。
そして、釈迦は出家して修業を始める。この時に注意することは、釈迦は世捨人になったのではないということ。世間とのしがらみを絶って孤立無援になったのではなく、修業している人たちが森の中にはすでにいて、その人々に加わったということ。彼は、そこで先達の教えをうけて、瞑想や苦行に励んだが、うまくいかなかった。その失敗を経て、正しい修行に入る。このエピソードは、苦行は悟りの道ではないということをあきらかにしたものだ。この話を受け入れることにより、悟りへの道は苦行ではダメで、仏教しかないことを示している。
そして、釈迦はブッダガヤーにある菩提樹の根元に座って瞑想し、悟りを開いた。菩提樹の下という場所は快適で安楽な場所で、苦行とは反対に肉体的な付加を少なくし、ひたすら精神集中して自分の心に向き合うことによって悟りを開いた。しかし、出家し初めのころ先達にならって瞑想したが悟りに至らなかった。その瞑想と、このたびの瞑想とはレベルが違う。
そして、釈迦が悟った内容については経典によって解説が一定していない。本書では、いろいろな説があるが縁起の体得が重要だとしている。
その後で語られる「梵天勧請」は仏伝大きな山場だ。自己の苦しみを完全に消し去った釈迦は安楽の境地にいて、それを楽しみながら、その一方で「こういった境地は世俗の一般人にはとても到達できるものではない。いくら私が教えてもそれを理解することはできないだろう」と考えた。こうして釈迦は説法を断念しようとする。そこにバラモン教の最高神のひとり梵天が現われて説教を懇請する。しかし、釈迦はそれを断る。この時点で釈迦は利己主義者だが、彼は究極の苦しみから抜け出そうと、生きるか死ぬかギリギリのところで修行していた。そこでは世のため人のためなどと考える余裕はなく、利己的になるのは当然だったとも言える。仏教の真理というものは、世の流れに逆らう日社会的な視点であり、世の流れに乗って生きることができない人間のための教え、そういう人間の疎外感からの救済が仏教だと言える。
梵天は釈迦に断られても、諦めずに食い下がる。釈迦の教えによってこの世のあらゆる生き物が救われるということではないが、その教えによって苦しみから解放される者もいるのだから、その者たちのために教えを説いてほしいという。釈迦は、その言を聞き、仏眼をもって世間を観察し、その観察によって世人の教化を決心する。「耳ある者たちよ、不死の法門は開かれた。いままで信じていたものを棄てよ」と宣言する。
このうち「耳ある者たちよ」という呼びかけは、仏教は、教えを広めることによって、すべての人間を幸せにする義務もなければ、そのような課題も持たず、基本的に釈迦の言うことに反応する人だけを受け入れる、万人に積極的に布教することをしない、仏教に救いを求める人がいたら、そこではじめて手助けをするだけ、という基本理念を表わしている。
梵天勧請を契機として、釈迦は自分のためだけに作り上げた仏道の教えを、人々のために説き広めることを決意した。著者は、この転換を次のように解釈する。迷いの生にあっては、すべては種々様々な条件によって条件づけられて存在する。すなわち、条件に依存する。この条件を離れて、条件と無関係存在するものは一つもないという縁起説を前提とするならば、悟る自己は関係のなかにある。論理的に悟りは個では完結できない。なぜなら、自己は種々様々な条件によって条件づけられて存在しているのだから。「この私」という存在が他を前提とし、他の関係において生ずるものである以上、悟りが音図家住するのは自己とか他者とかの個ではなく、世界でなければならない。そうして自も他も世界も終わらせることができる。梵天勧請における釈迦の転回は、単なる慈悲の心だけでなく、完全なる悟りを目指すためだった。
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