矢田部英正「たたずまいの美学 日本人の身体技法」(6)~第5章 身体の自然性
西洋服飾の美感は、骨格筋の均整を前面に押し出した肉体美の表現に特徴がある。その標準的な身体比率の考え方は古代ギリシャに遡る。古代ギリシャの若者の立像はオリンピアで活躍した競技者たちがモデルであり、その競技は、徒競走、投擲、戦車競技といった戦闘場面を想定した競技種目によって鍛えられたものだった。古代のオリンピアでは、戦争の絶えない地中海の都市国家たちによって行われた。その彫刻の肉体表現は直接的には戦闘で発揮される戦士の力と運動能力を意味し、それが力強い行動力をもつ肉体が人間の主体的な行動力の象徴、それが理想ということになった。
これに対して、日本の仏像の彫像は、肉体そのものの造形には価値を置かず、立ち方、坐り方などの表情に浄土を連想させる空気が、つまり、仏の佇まいに流れている空気感は自発的に行動することによって世界に働きかけようとするギリシャ的な人間像とは別の生き方が描かれている。ギリシャ的な自分から進んで物事を自分から進んで物事を理解しようとしたり、世界を変えようとする態度は迷いなのであって、一切の存在が、そちらの方から現われてきて自己本来のあり方を気づかせてくれるのが悟りだ。
ギリシャ彫刻に見られるような筋肉の躍動は、意図的にコントロールすることが比較的容易で、こちらは主に随意神経系のはたらきに結びついている。これに対して、佇まいの美感は身体が表出する心の内面と結びついていて、こちらの身体技術については意図的にコントロールすることができ難く、むしろ作為的な動作によらず、おのずと目的に到達するような心得が必要とされる。人間の運動能力の源を骨格筋の躍動に求めるのは常識であり、筋繊維が肥大することによって、より大きなパワーが発揮されるようになる。したがって、スポーツ選手は日頃から筋力トレーニングを欠かすことがない。ところか日本の芸道の世界では、筋力トレーニングが通用しない。強い弓を引く弓道でも鉄の刀を振り回す剣術でも、安定した足腰の強さを求められる舞踊でも、筋力のみを単独で鍛えることをしない。むしろ、できる限り筋力を使わないでより強い力発揮することに重きを置いている。そこで力の源となっているのが骨である。筋肉による力をできる限り抑制して、骨格の自然な構造に基づいて動作することを重視する。筋肉を硬直させて運動をすれば、血管を圧迫し、血流だけでなく「気」と言われる見えない体内の流れについても循環が妨げられることになる。一方、筋肉を無駄に硬直させずに、骨にその運動を任せることができれば、「気」をはじめ体内の循環を妨げることなく、合理的に運動を支える中心の業が自覚されてくるはずである。「骨をつかむ」という日本語は、この脱力状態において体感される骨の感覚に由来する。筋肉を浪費させずに動作する「コツ」をつかんだとき、それは筋力をはるかに上回る力を発揮することができる。
ここでは、呼吸法が重要視されている。呼吸法は精神力の根源を見出すための技術であり、またその源泉から湧き出る力が四肢に注がれるようになるための技術でもある。それと同時に体内の循環機能を活性化させる働きがある。日本の伝統的な身体技法は、部分的な筋肉に意識を集中せず、骨格の自然な特性を合理的に活用することを重要視する。無駄な筋肉を使わずに、骨にその運動を任せ、動作の中心をとらえていくような技術を「型」を通して伝承してきた。骨を力の源とした身体技法は、和服の着装様式や歩行の様式とも有機的な連関を示し、それらは総じて、身体が本来備えて自然の合理性を最大限に活用するための技術によって支えられてきた。
武術であれ、職人の仕事であれ、高度に洗練された技術を要求される専門領域では、身体部位の繊細な感覚操作が必要となる。古武術の世界では、感覚的にとらえる世界が眼に見える身体運動ではなく、見えない呼吸や、「気」の流れや、身体内部の「骨」をとらえてゆくことに向けられている。骨による動作は意識して身体を動かす以前に、実感として骨が感知できていなければならない。そこで基本となる心得は、観ること、待つことである。たとえば、日本の武芸の世界では、眼に見える運動の「型」を訓練するだけに留まらず姿勢と呼吸を正しくすることによって、身体内部の生理循環機能をも同時に整えようとする。そして外見の形と内部の動きが調和したときに、骨盤内部に身体運動を統率する中心感覚がおのずと自覚されてくる。
身体には個人の意図からは独立した自然の秩序が存在する。骨格の構造にしても、体内の循環機能にしても、また自然体と言われる姿勢の形態にしても、それらは個人の意図からは独立した本来的秩序の上に成り立っている。体内の流れに自然な調和を保つはたらきのことを恒常性機能という。
古来、日本人の態度として、人間の力によらないものについては敢えて意味づけをしない風習のようなものがあった。ある意味それは自然に対する畏敬の念からでもあった。つまり、人知を超えたところで働いている秩序に対して、人間に理解可能な理屈のなかだけで向き合おうとするのは不遜極まりない態度であると昔の日本人は考えたかもしれない。彼らは理屈で物事を考える前に、まずは観るということを物事と向き合う基本に饐えたのである。
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