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2024年10月19日 (土)

田中一村展 奄美の光 魂の絵画(4)~第3章 己の道 奄美へ

 50歳となった田中は奄美大島にわたり、そこで現在の田中一村の代表作とされているような作品を次々と制作したということです。ここからは、展覧会ポスターにあるような作品たちのオンパレードです。今まで見てきた作品にあった萌芽的な要素が一気に開花したというわけです。
 ただ、展示されている個々の作品については、金太郎飴みたいな印象で、ひとつひとつの作品がどうだというのではなく、全体としてユニークという印象で、そういう捉え方をしています。
 「奄美の海に蘇鉄とアダン」(上側)という1961年の作品です。エスカレーターを上がって、第3章となる展示室に入って、これから奄美での作品が始まると思ったら、スケッチとか肖像画とか小品といった者がまず並んでいて、その人並みを避けて、次へ行こうとして、最初に目に飛び込んできたのが、この作品です。ずいぶんと横長の画面に、豪快に手を広げる蘇鉄と、艶のある黄色とオレンジ、緑のアダンが見えます。その蘇鉄の葉は細長い枝葉に分かれ、その一本一歩がうねうねしていて反復し、また棘に囲われたオレンジの葉はうねうねと曲がりながら反復しています。またそれぞれの花や実の中ではうねうねが反復している。それらが溢れてしまいそうなほど画面いっぱいに描かれています。前のところで指摘しましたが、アンリ・ルソーの「夢」(下側)の画面いっぱいに溢れる記号的な南洋植物を髣髴とさせます。ただ、田中の場合は、ルソーが裸女を配するのと違って、人物を配することなく、右下の蘇鉄とアダンの樹間の向こうに立神を配しています。これまで、田中は遠景に何か意味ありげなものを描くようなことはなかったのですが、私には、これは余計で、それまでのサバサバした画面に変な物語を持ち込んでいるように邪魔です。

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Tanakaseaside  あとは、田中本人が代表作とした二つの作品を取り上げれば、他の奄美での作品は、それで言い尽くされると思います。それで、「アダンの海辺」1969年の作品です。一村にとって奄美大島を象徴するモチーフ「アダン」の実を、きらめく波涛や砂浜を背景に大きく描いた作品です。とげのあるアダンの葉を緑色や青色を組み合わせ、重層的に見せていて、黄色の実もひときわ目を引きます。アンリ・ルソーが描く南洋植物のように゜、アダンの実はリアルで立体的ではなく平面的で、葉は実の背景のように広がっています。それは、現実というより夢のような幻想的な世界に誘うかのようです。ただし、一村が表現しようとしたのは、アダンではなかったようで、「この絵の主目的は乱立する白雲と海浜の砂礫であって、これは成功したと信じております。何ゆえ無落款で置いたか(たしかに本図には落款がない)、それは絵に全精力を費やし果て、わずか五秒とはかからぬサインをする気力さえなく、やがて気力の充実したときにと思いながら今日になってしまった次第なのです」という本人の言葉が残されているそうです。鈍く光る海面、足元の砂礫、さざ波の描写の見事さ。砂礫は一粒一粒緻密に描かれている。遠景に沸き立つ白い雲。そして、はるか遠くの金色の輝きは光の在りかを暗示するようです。それは、現世を超えて彼岸へと続く世界を暗示している。「奄美の海に蘇鉄とアダン」で立神が意味ありげに配置されていたのが、ここではあからさまに描かれています。田中のことを日本のゴーギャンと称する向きもありますが、田中も晩年のゴーギャンのように神がかっちゃったのでしょうか。そういう感傷を突き放していたのが田中の作品の特徴だったと思っていたのですが。
Tanakasotetsu  「不喰芋と蘇鐵」1973年の作品です。花芽から実が落ちるまでの不喰芋の命の円環を、南国の生命力あふれる濃密な自然の中に表現したものと言えます。その円環ということ、あるいは葉で画面が埋められて、わずかに中央に隙間があるくらいを見ていると、上下の感覚が曖昧になるような錯覚にとらわれます。それは、画面を描く際の一定の視点がなくて、細部が個々に正面の視点で描かれているからです。例えば、画面の上方を占める表と裏を見せ合う二葉の不喰芋の大葉は、ともに正面からの視点て描かれています。もし、画面全体を一つの視点描くならば、俯角で描かれるはずでする。それに限らず、画面が中位でも下位でも最下位でも正面の視点で描かれているのです。それが全体を見渡すと、細部にも全体にも緊密さが保たれているのです。そこで、上下、斜め、横方向にと自由自在に蕾や葉先を伸ばしたり垂らしたりする配置は、茎や葉に用いられた同色系の明暗の使い分けによって前景にあるように強調されます。茎頂の黄色の花穂や、異様な肉付き感を赤色で膨らました数顆の果実などの、原色を使った色彩的効果が、さらに前景感を煽っています。その効果は見る者には、感覚的には逆作用として働きかけることになり、却って、葉群れのなかに空いた隙間(画幅中央部)に引き寄せられてしまうことになります。つまり、隙間の彼方に浮かぶ海上の立神に引き寄せられることになるのです。立神は奄美の自然信仰で神が降り立つとされる海上の岩です。その立神を中心として、改めて画面を見れば、立神を取り囲むようにして、花が咲き、赤い実となって朽ちていくクワズイモ。画面右手にそそり立つソテツの黄色い雄花、そして左下のオレンジの雌花。右下は子孫繁栄の象徴ハマナタマメの花が配される、と受け取ることになります。つまり、中心は現実の向こう側、彼岸の世界なのです。
 混雑の中で、人込みを掻い潜るように作品をスポット的に覗き見ることを続けてきて、このあたりの終わり近いところでは、かなり疲れていました。現実から逃避したくなっていたかもしれません。
いろいろにところで宣伝したり、マスコミで取り上げられていたりしたようですが、田中一村は人気があるようですね。

 

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