佐々木閑、宮崎哲哉上野修「ごまかさない仏教 仏法僧から問い直す」(3)~第2章 法─釈迦の真意はどこにあるのか
仏教と自然科学との親和性について、次のように著者は言う。自然科学の場合は観察に基づく仮説を設定し、実験、証明という人為的検証方法によって仮説を承認するといった手順を繰り返す。仏教には、そういう方法論はない。科学の仮説は新しい情報があれば更新されるが、仏教にはそれがない。仏教と自然科学を同一に扱うことはできないが、ベースとなる世界観、すなわち原因と結果の因果法則に基づく機械的世界にわれわれは存在しているという世界観を共有している。ただし、この因果性についても価額は価値中立であるのに対して仏教は悟るという目的意識が含まれている。
この章のタイトルである「法」はサンスクリット語でダルマ、本書では釈迦の説いた教法とし、その基本的な要素として、縁起、一切皆苦、諸法無我、諸行無常の四つをあげている。これらは、いわば仏教の基本ОSにあたる。
1.縁起
縁起というのは、この世界の物事のすべては原因と結果の関係で動いているということ。他の宗教のように、絶対的な神がいて、不可思議なパワーで世界を動かしたり、人々に何かを強制したりするとは考えない。すべては、原因となる何かがあって、その影響を受けたがゆえの結果として現われているという、ある意味では合理的で科学的な世界観と言える。
仏教は、一切の事物を演技的に生ずると考える。一定の条件によって生起し、その条件が解除されれば消滅する。その一定の条件もまた他の条件によって在らしめられている。そこで認められているのは存在というよりも仮構という語があさわしい仮の存在にすぎない。一言で言えば、実体というものがない。しかるに、煩悩に覆われた私たちはそのことを正しく把握ではない。煩悩といっても色々あるが、おおもととなるのは「無明」つまり智慧がないこと、物事を正しく合理的に見ようとする力が欠如していることである。世界が縁起的に生清と消滅を繰り返しているという事実を知らない、あるいは認めない。人間は訓練を積まないとその変化の相を認識できない。有名な十二支縁起は無明から始まる。この十二支は、根源的な苦しみが発生してくるメカニズム。生存苦の発生機序である。仏教は生存苦を滅ぼすことが最大の目的だから、その生存苦が発生するメカニズムをつぶさに検証する必要がある。
この「縁起」の内容として、二通りの縁起説が存在していた。ひとつは文字通りの因果としての縁起で、時間的に原因が先行し、後で結果が生じる。通時的縁起。もう一つは相互依存関係としての縁起で、藁束のように同時的に互いを規定し合うことで成り立つ共時的縁起。後者は、例えば色彩は人間の眼根が捉え得る光である可視光を分別したに過ぎない。プリズムを通した可視光は連続的なカラースペクトルを見せる。それを言葉によって仮に分節化したのが、「赤」とか「青」などといった、われわれが日常生活で多用している色彩だ。「赤」や「青」などの本質や自性があるわけではない。言語は何ものかの本質や自性を直示するものではなく、指示対象を他から区別して、あたかもそれが個物として客観的に識別できて、独在しているかのようにみせかける。言語は、他との差異を消極的に表示するシステムにすぎない。それを、われわれは、あたかもポジティブな実体や本質や自性を指し示していると錯覚してしまう。しかも言語によって分別された世界は閉じられた観念なので変滅しない。すべての言語は言語についての言語なのだ。眼前の机と呼ばれるものは、まるで永遠に変わらぬ机としての本質を持っているかのようのわれわれの前にある。確固たる存在として現前していると無意識に観念している。しかし、縁起という見方を知れば、それは現実ではなく、言葉がもたらした観念であり、虚構である。机という実体は存在しないし、実際には刻一刻と変滅し続けている。重要なのは私の自意識も言語表現による仮構にすぎないということだ。
全ての存在は相対的ということになる。正確に言うと、言語によって識別され、あたかも実在しているかに見える世俗の諸事物が本当は相対的なのだということ。そこで、瞑想によって縁起の実相を見る、それで無明を脱する。龍樹によれば、言語こそが苦の淵源であり、無明を構成する重要な要素で、苦を滅するには言語によって仮構された世界と自己を滅ぼすしかないという。
2.苦
「苦」とは、一般的には苦しみ、苦悩、不快のことだが、原語のドゥッカには幸せの意味もある。だから、あえていえば、無常でうつろうものの意味と考えられる。「一切皆苦」というのは、すべては生老病死という四苦の上に成り立っているというもので、その本質はわれわれが生命体であるというところにある。四苦とは生命体が生命体であるがゆえに抱え込む苦であり、けっしてそこから逃れられないものである。むこの四苦を上回る楽というのはない。仮に生老病死の後に永遠の天国というような絶対的な楽の世界が待っているのなら、四苦は克服できる。キリスト教がそれだ。ブッダはそんな絶対的な楽はどこにもないと言った。生老病死を打ち負かす楽がこの世にはないのだから、この世は一切皆苦なのだ。
人は死を免れことはできない。しかし、日常生活では生存防御本能である「忘れる」という機能が働く。それがないと、われわれは、日常で死の恐怖におびえて過ごさなければならない。それが、大病を患ったり、年老いたりすると、防御本能によって覆い隠されてきた老病死の苦しみが浮き上がってくる。
これに対して、キリスト教の世界観は本質的に一切皆楽と言える。今苦しんでいるのは神に試練を与えられているからであって、すべてを神に委ねれば救済されることが確定している。仏教には救済者はいない。
3.無我
いま私が実在している、自分が「在る」という観念が「我見」だ。いま「在る」限りは、ずっと、この先私は永続するに違いない、永遠に存在し続けなくては不条理だ、という観念が「我執」と呼ばれる。この邪見と執着から渇愛が生じる。したがって解脱するには有我の見を滅ぼし、我への執着を断ずる必要がある。しかし、自分は実は「無い」などということを実感として心身に定着させるのは並大抵のことではない。そもそも、何かを思惟したり実感したりするのは、他ならぬ自己なのだから。
仏教は事象を客観的に記述する哲学とは違う。倫理学とも無縁だ。仏教の課題はもっと切迫したもので、無我を説くのも、それなしには苦を解除できないという確信に裏付けられている。つまり、死への苦しみ、死の恐怖をはじめとする様々な苦が、我見、我執によって、言い換えれば、永遠に存在したいという欲望によって発生している。存在しなくなることへの恐怖は、そもそも存在しなくなることへの恐怖は、そもそも現在も存在となどしていないと真実を語ることで消えるのだ。自分が実在しないなら、自分の所有物もまた存在しなくなるし、自分のまわりに広がっている自分中心の世界も消えてしまいます。そうして、次々と実在を消すことによって、自動的に多くの苦も消えていく、というのが仏教の基本的な考え方だ。
4.無常
無常とは、すべては移ろうということである。万物は時々刻々変化していき、永遠不滅のものはない。それがこの世界の真実だということ。諸行は縁起しているから無常なのであり、無常だから苦が生じるのであり、無我であることを認めれば無常を受けとめられる。つまり、この世のあらゆる物事は網の目でつながっていて、互いに影響を及ぼし合いながら不断に変化している。私も、そして、私を取り囲むまわりの世界も、すべては因果の網でつながった無常転変の存在にすぎない。何であれ、生じた事物は必ず朽ちる。それどころか諸事物は一瞬の静止も間断も滞留もなしに流動し続けている。ところがその変化の相は、通常の人間の知覚によっては感知できない。さらに、そこに言語の網が覆い被さり、変滅し続ける事物をあたかも固定的、個別な実体に見かけているので、その分、われわれの苦も深くなる。そこで、あらかじめ無常という真理を受け入れておけば、いざという時に寿命・地位・財産などに執着することもなくなるし、普段から今の一瞬を大切にして生きようという気になる。
この一瞬というのは「在る」それを「刹那生滅」という。世界は刹那と呼ばれるきわめて短い時間単位で次々と生まれ変わっている。一つの死接待が少しずつスムーズに形態を変えながら変容していくのではなく、一刹那ごとに、今ある損さ製はすべて消え、よく似てはいるものの。まったく別の存在が出現するという考えだ。
仏教で無常が基本として説かれる理由は、人間が、実際の時間の流れを把握できないから。時間の流れは不可知ではないが、生来の本能、あるいは言語を根源とする後天的な慣習によって形成された感覚や思考によって覆い隠されている。仏教は、その「直覚」を否定するために無常を説く。したがって無常は概念ではない。概念であるならば、同一性や不変性、不易性などの対照的概念が前提となるが、同一や不変、不易は、そもそもこの世界にはない。それで無常を直接知覚することも、そのまま理解することも困難な人間は、過去、未来、現在の設定をはじめとして、言語によって時間を概念化して把握しようとする。偽りの静止的な時間を捏造する。
すべてが無常であり、その中に対立項としての不変などとこにもないというのが諸行無常の意味。われわれは、この無常の世界に住んでいる。
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