マーティン・ヘグルンド「この生─世俗的信と精神的自由」
「この生」というタイトルは「この」という指示語をつけることで一般的な人生ではなく、私たち一人ひとりの生、とりわけ有限な生(死という終わりがある)を考える。この中心的な問いは、「私たちは自分の時間を使って何をなすべきか」というものである。一見茫漠とした問いだが、この私のこの生にとって、これ以上にないほどに根本的な問いが立てられている。みずからの存在の意味を追究しようとする実存の問いといってもいい。この問いたてうることが精神的自由と著者が呼ぶものの基本条件を成している。そして、これを宗教的信仰に対する、資本主義に対する徹底した批判として展開している。これらは、精神的自由、宗教的信仰に対しては世俗的信を歪め抑えつけるものだからである。
私の偏見かもしれないが、この本を読んでいて、著者は当たり前だから考えもしないのだろうが、基本的な考え方の西洋的な思考の方向性、もっというとローカリズムの臭いのようなものを強く感じた。例えば「私たちは自分の時間を使って何をなすべきか」という基本とする問いがそうだ。とくに鼻についてのは「なす」という行為をして結果をだすということが当たり前になっているということ。本論のなかで宗教的信仰への批判を延々とおこなっているが、その基本姿勢は「天国は退屈」という認識。天国で永遠に救われてしまったら、何もなす気にならない、そんなのは生きている意味がない、というのがその批判の主な主張。これは、私にからみれば、そんなの好き好きじゃないか、ということになる。そうすると、この書は「私たちは自分の時間を使って何をなすべきか」という著者が好んでいる人生の捉え方を提示して、そうでない姿勢を批判しているという内容に見えてくる。それって、好きだからいいことだというトートロジーだよね。
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