没後30年 木下佳通代(4)~第3章 1982~1994
写真による表現を離れ、パステルを用いた表現で捉えようとした線と色の関係性から、油彩による表現につながっていった。それまでの制作での不自由さから脱け出すべく、身体的な方法として、描いては塗りつぶすことを繰り返すという方法に傾いていった。「存在」をめぐる概念や理論を理知的に作品に盛り込むのではなく、「存在そのもの」を画面の上に作ればいい、と図式的なコンセプトを取り去っていった。と説明されています。でも、コンセプトを取り去って、とっかかりがなくなったというのが、全体の私の印象です。この人は、方法を変えるたびに、何かを削っていくのですが、それは減点していくようなもので、加点がないのではないか、そんな感じです。
「’82-CA1」という作品。「存在そのもの」を描き出せばいいと思い至り、画面に塗り込まれた絵具を布で拭き取るという手法を通じて、カンヴァスの持つ平面と、絵具による色面とを等価に扱う表現に辿り着いた記念碑的作品と展示に説明が付されていました。暗青色の油絵具をたっぷり含んだ平筆で、カンヴァス地を粗く塗り残した色面の中央部を、布で拭き取ったということなのか、カンヴァス白い部分が現われて説明にあるように二項対立的になっています。これは、前に見たコンパスで描かれた円の写真とフェルトペンで描いた正円との二項対立を表わしていた作品とコンセプトは一貫しているように見えます。ただし、この作品は二項の区分が曖昧になって分割不可能なものとしてひとつになっていると言った方がいいかもしれません。それまの作品に見られていた幾何形態や平行線は姿を消し、線が飽和しながら、画面全体に塗り込められるかのような色面があり、その中央部の絵具の濃度は周縁部に比べて薄くなっています。それはカンヴァスの上に絵具を置いたのちに拭い取られたもので、この手の痕跡は線から溢れ出しながら現れ る面に対して、斜め方向に走る空間を作り出しています。この中央に穿たれた空洞のような、絵具が拭き取られることによる空間は、これまでに見たイメージと幾何形態との重ね合わせによる二重化を感じさせないこともない。しかし、それとは似て非なるものです。筆で描かれた色面と、その上から拭われた空間はシームレスに繋がっていて、これまでに見られたような二元性とは異なる、より分割不可能な個体性が感じられます。だから、「存在」をめぐる概念や理論を作品に盛り込むという性格は残っていて、そういうコンセプトによる頭でっかちの印象を拭い取ることはできないんです。塗りと拭いとが等価に相乗して何かをもたらすというのは、ゲルハルト・リヒターの筆やナイフで絵の具を塗り、拭き取ったり削ったりした作品を想わせるところがあります。この第3章の作品を見ていると、どれも○○風というように思ってしまうんです。
「’85-CA257」と「’85-CA261」という1985年の作品。拭き取りによる表現が線のような効果を持ち始め、塗り込みと拭き取りの関係性が逆転し始める。瀑布を思わせるようなストロークが強調されるようになっています。黒であったり赤であったりといった単色とカンヴァスの白との濃淡のグラデーションが目立つようになって、二項対立の曖昧さは、さらに進んできている。このような黒とか赤という単色でストロークを強調して、その濃淡のグラデーションというと白髪一雄のアクションペインティングを想うのですが、この作品には、白髪の作品に感じられるストロークの力強さとか、勢いとか、そういう力動感は感じられません。白髪の作品は、ストロークの生み出す陰影が見ているうちに変化するように感じられて、ずっと見ていても飽きることがなく、時折、ハットするような美しさに息を呑むことがあるのですが、この作品には、そういうとこがなく、展示されて いる前を通って、「そういうものだね」と理解できてしまうと、「では、次」と通り過ぎてしまう印象でした。そうすると、木下の場合、一連のシリーズのコンセプトと方法が理解できると、個々の作品はその例示というわけで、それぞれの作品を個々にとりあげて、それぞれに見て味わうというものではないような気がします。だから、この作品にとくに魅かれるということは、あまり考えられません。誤解を恐れずにいうと、工業製品に近いと言えるのではないでしょうか。
「’93-CA793」(左側)と「’93-CA799」(右側)という1993年の作品。前の作品でストロークに勢いがないことに物足りなさを覚えましたが、これらの作品では、それが意図的であったことが分かります。それは、同時期にロサンゼルスで制作された「LA’92-CA681」のような゜、アクリル絵具を用いて比較的短い時間で描かれたという作品と比べてみることでも明らかです。「LA’92-CA681」は、筆触の運動性や絵具の垂れを残すことで、キャンバスの前で制作する身体の運動性を、そして速さを直接的に感じさせるのです。それに対して、「’93-CA793」と「’93-CA799」は、筆勢を持って描きつけられた荒々しい筆跡の際を丁寧にやすりがけするかのように、そのストロークの外縁は白の領域へとシームレスに繋がっています。それと同時に白の側もまた青や赤の領域へと浸食しながら、双方向の力がせめぎ合っているようなのです。画面全体では、離散的に広がった青や赤の領域と、それを受け止める白の領域の双方が画面の中でせめぎ合う均衡の只中にあります。そこで、あえて勢いを抑えたストロークはどこか不自然で、ひと つの方向に進む単線ではなく、たゆたうように複数の方向に向かおうとするのです、色面のようなストロークのような何ものかで、しかもそれは、前進色の白色に交錯しながら浮き上がるのです。これは、まず青や赤を塗ったところを布で致を拭い取って沈め、影のようにした上からさらに描いていくプロセスで、初めに色を塗られるところと互いの関係性は、拭い取られる前のまま保存されながら、白色の背景に影のように沈められることで、透明度を獲得して浮遊力を備える。その上層にあえて白ともうひとつの色が重ねられることで、前後関係を超えた、いくつかの質を備えた重層的な動きが生み出されるわけです。その結果として生じるストロークは、それぞれの長さ、互いの近さ、方向、精細な重なり、それぞれの関係性がきわめて緻密にコントロールされ熟慮されている。だから不自然なぎこちなさがあるわけです。木下の作品は、どこか頭でっかちのコンセプトとか理念のようなものがあって、それを表わす手段とか道具であるという枠から抜けきれない感じがします。しかし、この作品では、そういう不自然さが、作品自身の存在にブーメランのように還ってきている。つまり、「存在」をめぐる概念や理論を理知的に作品に盛り込むのではなく、「存在そのもの」を画面の上に作ればいいとして制作された絵画ですが、その絵画自身の「存在」はどうなっているのか、ということが、初めて問われたのではないか。それが領域の区分の曖昧さを突き詰めた上での塗りの重層性だったりするわけです。このことから、見えてくる「存在」とは、確固たる土台の上で描かれる力強いそれではなく、複数の要素がひしめき合う不安定な場にその足場を持つ、不安定に揺れている。ここに、最初に掲げられた「存在の一義性に対してその認識は常に複数ある」という借り物のような理念が揺らぎ始める。これは、とても面白いと思います。
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