廣瀬淳「監督の癖から読み解く名作映画解剖図鑑」
スティーブン・スピルバーグは同じものを反復する。しかも反復する時に、同じものが大量になる。例えば、「未知との遭遇」ではピロリロリと宇宙人に音でメッセージを送る。これで十分なのに、電光パネルを光らせる。あるいは、エリック・ロメールは平凡な世界に、特別な出来事を到来させる。このような特徴を著者はクセといって、各作品で、こういうように現われていると指摘する。こういう議論は、そうでないと思う人は反証をあげて、そうじゃないと議論することができる。これだと議論が成立する。これに対して、ヒューマニズムとかセンスがいいとかフランス的だとかを特徴だというと、具体性がないので反証をあげるなど議論が成立しないし、反対意見は、主張した人の人格やセンスを云々することになってしまって、映画についての議論ができなくなる。私は、著者の言っていることに必ずしも納得しないが、(例えば、スピルバーグのクセは黒澤明のクセといった方がよりふさわしい)議論することができるので、尊重できる。軽い体裁の本だけれど、映画についての本としては、いい本だと思う。
ヒッチコックのクセとして登場人物の知らないことを観客に知らせてしまう。例えば、「ダイヤルMを廻せ」では、殺しの現場を観客に全部見せてしまう。観客は事件の前部を見て知ったあとに、登場人物による真相究明作業を見ていくことになる。映画史では、ヒッチコック以前の映画では、観客は登場人物と一緒に真相を追いかけるものだった。だから映画を見ながら、事実を発見したり、危険にハラハラしたりしたのだった。これをヒッチコックは「サプライズ」だと呼び、自身の映画はサプライズではなく「サスペンス」だと言った。観客は真実を先に知っているので、登場人物といっしょに真実を知って驚くことはない。その代わりに、登場人物が真実を知った時に、どのような反応をするのか、ということを楽しむのがサスペンスなのだ。ここに、観客に映像そのものを見る余裕が生まれた。それに応えるように、トリュフォーによるインタビュー「ヒッチコック・トリュフォー」で明かされる様々な仕掛けを工夫したのだった。この指摘には感心した。なるほどと思った。
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