瑛九─まなざしのその先に(4)~Ⅲ 1957~1960
いよいよ、丸や円による抽象画の制作に没頭した晩年の作品群です。私にとって、ここで並んでいる作品こそが瑛九のイメージです。ここからは、何かを描くということがなくなり、抽象的で色彩が印象的な作品が並びます。
1957年の「みづうみ」という作品。画面全体の濃淡のプルーがとても印象的で、その深い青に、惹き込まれてしまいます。そこに、さまざまな色で塗り分けられた亀裂のような網目が被さるように全体を覆っている。その網のような細い線にほどこされた、青、赤、水色が、網目の奥の深い青の中、何かが隠されているかのように思わせる。そこに大小の丸が前後に挟み浮かんでいる。それらの色彩が響き合うように調和している。この網目は、前のところで見たフォト・デッサンの「無題」という作品で、セロファンのシートにペンで極細の線を縦横に描き込んだものを感光させて、筆では描けないような極細の線で画面全体を覆ったのを、筆による手描きでやってみたものと言えると思います。筆では極細の線は無理ですが、その代わりに多彩な色を使って異なった効果を作り出しました。そしてまた、網の目の間にのぞく深い青に濃淡がつけられて何か隠れていそうというのは、2年前の「夜の森」に通じる ものと言えます。この作品は、これまでに試してきた手法や要素を抽象的な絵画の画面に集約させた、つまり、これまでの試行を集大成して、新たに抽象画に転じたものと言えると思います。
同じ年に描かれた「籠目の青」という作品です。「みづうみ」では控えめだった編み目が前面に出て、画面を支配しています。編み目は複雑で多層的な空間をつくりだし、その編み目の四角や三角が黒い粒子のように見えてきます。この粒子の方に重点を置いて画面を見ると、編み目は背景のように見えてくる。つまり、この画面を逆転すると、この後に描かれる丸や円形を散りばめた作品のつくりになると言えます。そして、中央に黒い円が現われ、この後の丸の集まりの作品を予見するかのようです。
同じ年の「れいめい」という作品です。これぞ瑛九といってもいい作品のひとつだと思います。パッと見て、とにかく青が美しく、惹き込まれるようです。神秘的でもあります。この青という天上的な色彩こそこの作品の本質であると言えます。これまでの作品では編み目が画面を覆っていましたが、それがひび割れた格子やアメーバ状のものとなり、次第に描き込みが加わり、この作品では浮遊する円形となりました。その円形が浮遊しているような動きを感じます。真ん中に引き込まれそうでもあり、まわりに広がっていくようでもあります。真ん中はひときわ明るく、周りは暗い。この色の明度の違いが動きを感じさせていると言えます。真ん中の大きな同心円状の円により吸い込まれるような奥行きを感じさせます。これらの要素が相俟って、見る者にさまざまなイメージを引き起こすのです。
1958年の「青の中の丸」という作品は「れいめい」同じように青を基調とした作品です。画面のサイズはより大きくなって、それはスケールとして見る者に迫ってきます。また、「れいめい」では画面が全体として3つの局面によって構成されていました、すなわち同心円構造のようになって、一番外側は白黒の無彩色の世界で、その内側は青地に黒い水玉が入り込んでくるような世界、そして一番内側は薄い青から段階的に白くなっていく地の上で、青から黄色や緑色等の色の水玉が派生するように生まれてくるような世界、そういう多層的な秩序が感じられるコスモスのようでした。これに比べると「青の中の丸」では地は一面の青で、それが大きなサイズの画面一面に広がって、そこに無秩序に不定形の粒が様々に色づけされている。そこに何らかの秩序を見つけることは不可能に近い、そういう画面です。このコーナーでは、いままで3点の作品をとりあげてきていますが、だんだんと言葉で記述するのが難しい作品になってきています。私には、語ることのできる語彙が、それほど多くないので空々しく言葉を重ねるのは作品対して失礼な気がしてきます。ここでひとついえることは、これほど抽象性が高く、色彩が多岐であるにもかかわらず、それぞれの色彩が明確で、はっきりしているということです。そして、画面上の粒のひとつひとつが浮き上がるようにハッキリしている。それが目にちゃんと映るということです。何か当たり前のように思えるかもしれませんが、このように無秩序のような画面で同じような粒が無数にあると、ふつうはひとつひとつがぼんやりと認識されるようになるはずなのです。それに伴うように、粒の色彩が混じってしまうような、全体としてぼんやりとした靄のような印象になってしまいがちなのです。ところが、この作品では、ひとつひとつが隅に至るまで、はっきりと見えてしまう。これは、明らかに意図的に、そのように画面が作られているということです。そのために画家は、画面構成もそうですし、実際に描いているときも、色を塗ることや、筆遣いなどで、こんな大画面にもかかわらず、かなり細かくて注意力を要する作業を強いられたのではないかと思います。それは、抽象的な作品であり ながら、曖昧になってムードのように捉えられてしまうことを、瑛九という人は潔しとしなかったのではないかと思えるわけです。あくまで視覚的に明確であるということ、視覚以外のものに安易によりかかるような妥協をせずに、作品を見るということだけで、そこにイメージをつくりあげるという方向、それが、瑛九という人の姿勢ではないかと思えるのです。
同じく1958年の「丸2」は、散りばめられた丸が丁寧に色彩を重ね筆触を残してあると、平面的な丸ではなく、平面から盛り上がるような立体感があるように見えてきます。その反作用で背景のオレンジ色の部分がへこんでしまったような。それは、あたかもオレンジ色の壁に円形のタイルをはめ込んだような不思議な立体感を感じさせる作品です。
同じ年の「午後(虫の不在)」という作品。画面において、密度を高めていった丸は、流動性をもった短い筆触へと置き換わる。「丸2」で丸に筆触を残して立体感を生じされていたのが、さらにハッキリと筆触を顕わにしたことで、丸に動感を生んでいます。そして、筆触に統一的な方向を持たせたことで、丸の群れがひとつの方向に動いているような印象を与えます。
同じ年の「激流」は、大きな画面で、これぞ点描という作品です。「激流」というタイトルですが、少し距離をおいて全体を眺めると、そんな、激しいという印象を受けることはありません。むしろ、静謐な印象です。し かし、作品に近寄ってよく見ると表面に見えている点描の下に、さらに無数の点描が描かれていて、その点描のひとつひとつは必ずしも丸い点ではなく筆触があらわになって、それぞれの点描の筆触の方向が集まって、大きな流れとなっています。それが画面に動きを作り出しています。全体として静謐なのに、動きがそこに生まれているという不思議な世界です。話は変わりますが、日本の作家で点描をウリにしている作家に草間彌生がいます。草間の点描と比べると瑛九の点描の特徴が際立つと思います。草間は水玉がトレードマークですが、点描の点も水玉で、点のひとつひとつが自立完結し、集まった全体が動き出すような草間の点描に対して、瑛九の点描は筆触が残っていたり、ひとつひとつの点が流れるようなところがあって完結していない。ある意味、草間の点の強靭さに対して、瑛九は弱いと言えるかもしれませんが、何かを探り求めるような、成長しつづけるような開かれた動きを感じさせるところがあります。
最後に絶筆となった大作「つばさ」です。2.6m×1.8mという壁を見上げるような大作です。その大きさにも圧倒されますが、この大画面にひとつひとつ点描を描いていたというのですから、しかも、その膨大な点の数と、配置や大きさ、色づかいなどを計算しながらその一つ一つの点を丁寧に描いていた画家の姿を想像すると鬼気迫るものを感じます。とはいえ、重量感とか圧迫感はありません。全体の色彩が淡いせいもあるかもしれません。透明感というか、静かで、いつまでも、この作品の前で眺めていたいと思わせる作品です。ずっと眺めていても、飽きることはなく、かといって疲れるようなことはない。
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