北村匡平「遊びと利他」(6)~第7章 学びと娯楽の環境
対象を変えて、大学の授業という学びの空間と、映像メディアの普及に伴う娯楽環境の変化について見て、このような空間・環境に利他的な可能性を見ていく。
2010年代、大学の学びの空間はメディア技術によって厳密に管理されるようになった。公正であることが重要視され、教室は透明化した。コロナ禍によりいっそう強化された。本書はそれに批判的だ。学びの空間は半透明であるべきだという。教室は大学の外の社会とは違って、ある程度の間違いが許される中間的な空間であるべき。学生は日々、間違え、極端な意見を披露し、議論を通じて学びを深めていくことができる。それが、透明化すると学内で話したことがそのまま社会、情報化により世界へと公開されるようになり、自己検閲が生まれた。それがシステムで管理されるようになる。ネットを通じた発言は記録され、絶えず再帰的なプロセスに巻き込まれ、自己検閲は強まり、間違いが許されない雰囲気が漂う。システムによる出欠管理、授業の管理は便利になったが、その一方で、授業は事前に到達目標や学習計画を定めたシラバスにしたがって進めなければならず、予測可能な予定調和なものとなり、人生を変えてしまうようなものとの出会いの機会は失われつつある。授業ではトラブルやリスクは回避され学生に不快なものは取り除かれる。既知のものは安心だが、道のものは不安で恐ろしい。そういうものが学びの場から排除されている。
また、本来、教養というものは身に着けるには膨大な時間と労力がかかるが、情報としての教養を誰よりも早く手にすることが価値を持つようになり、無駄なく簡単に身に着けるかが求められる。だから効率よく分かる体験を求める。本書では、つまらない授業が増えたという。長い目で見た教養ではなく、その場で身に着いた知識でわかる体験を与えるようになった。だが、大学は、本来、わかることばかりを積み重ねていくだけでなく、わからなさと向き合う場所でもある。そういうわからないものを知恵として涵養する場であるはず。当然だと思っていたこと、前提である知識を疑うことが重要ではないか。課題を発見し、問いを立てることが大学本来の学びであるという。
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