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2024年12月 6日 (金)

マーティン・ヘグルンド「この生─世俗的信と精神的自由」(7)~第5章 私たちの有限な時間の価値

 世俗的な自由の概念を発展させるための最大の資源はマルクスの著作に見出すことができると著者は言う。
 マルクスの出発点は、私たちが生ある存在であることは何を意味するのかという問いにある。彼は人間と動物との異同を分析することから始めた。すべての生物は目的志向の活動をする。生きた状態を保つために、何かをする。例えば、呼吸、食事、新陳代謝。この必要の領域は、自由の可能性の条件を提供する。というのも、生物の自己維持は剰余時間を生み出すからである。生存手段を確保するのに必要とされる時間以上の生の時間を生み出すことができる生物の潜在的能力によって、マルクスが自由の領域と呼ぶものが開かれる。そこで、その剰余時間を自由な時間として自身の活動と関係を取り結ぶことのできるのは人間だけだ。人間は、自身の活動の目的をつくり変えることができる。その結果、生存を、自由な精神的生を営むという目的につながる手段として捉えることができる。それが、人間の生の活動が自由な活動と言えるようなのだ。
 そのような生の活動に自由な活動として取り組む能力を、人間の類的存在とマルクスは呼ぶ。人間の類的存在とは、人間は所与の本性や本質を持っていないということである。マルクスは、人間存在の必然的な特徴は労働であると主張しているが、マルクスにとって、労働とはあらゆる形態の目的志向活動を表わすものである。そこで、解放とは強制的に労働させられることからの自由であるばかりか、私たちにとって大事である目的に照らして働くための自由にかかわるものである。つまり、解放された社会では、強制によらず、私たちのコミットメントを基礎にして働くことができる。マルクスの言う「真に自由な労働」である。だから、私たちが本質的に労働によって規定されているというのは、私が何者であるか、私が何をすべきかが所与であるといういみではなく、それとは反対に、私たちは本質的に変化しうる歴史的・社会的実践に左右されているという意味である。
 ここでは、マルクスの生の概念や類的存在の概念を、前章までの自然的生と精神的生の区別のなかに基礎づけることをする。有限性は、精神的な生を営むための最低条件である。神のような無限の存在は何かに価値を賦与することも、精神的な生を営むこともできない。それと同じ理由で、無限の存在には、いかなる形態の経済も存在しない。経済が理解可能になるのは、他者に依存し、失われるものに価値を付与する者にとってのみだからである。『経済核批判要綱』において、価値と経済の分析は、時間の有限性に照らして理解される。いかなる活動も時間の節約にかかっている、という。これを三つの水準で分析している。第一の水準は出現の水準。あらゆる経済は何らかの形態をとって現われる。価格はそのような出現形態である。資本は資本家が払う価格であり、利潤は労働者と消費者が払う価格、金利は所有財の賃貸者が払う価格だ。経済そのものも、何かしらの価格形態をとおして出現する。生産のコストがなければ経済は理解可能にならないのであり、それはつまり、経済的取引には、両方の側に支払うべき価格が必要だということである。資本主義下では、経済関係が現われる形態は金銭であり、そのおかげで財やサービスの価格を測ることができる。だが、価格と価値とは別物である。価格から価値の大きさは分からない。価格が分かるには価値尺度を考慮する必要がある。その価値尺度が第二の水準である。価値尺度は、私たちが経済における成長をどのように算定するかを決定し、そうすることで、社会における富の総体をどのように測るかを決定するので、本質の水準と呼べる。伝統的な哲学は、本質は歴史的な変転とは無関係に同一のものであり続ける実体を指す。しかし、マルクスは、経済システムの本質である価値尺度は、歴史的に変化する。私たちは経済の本質を変えることができる。だから、経済的関係が現われる形態を変えることができる。それにもかかわらず、私たちはつねに自分自身の生を何らかの形態の時間経済へと組織しなければならない。なぜなら、自分たちの時間を使って何をすべきかをという問いがつねにあるからだ。それが第三の水準である歴史横断的な条件である。歴史を越えているのではなく、私たちが自分たちの生をどのようにして時間経済に組織するかは歴史上の各時代に特有のことだ。しかし、私たちが自分たちの生を時間経済に組織しなければならないということそれ自体はあらゆる社会形態に共通する条件である。それと同じような、私たちは自分たちの社会関係をどのように組織するか、自分たちが組織化したものとどのような関係を結ぶかは各時代に特有のことだが、私たちが社会的存在であるということは精神的生の一般的特徴である。そこからみる、最深部の問いは、なぜこれらの特徴が歴史的で精神的な生のあらゆる形態にとって必要なのかということである。この問いのベースには、生を時間経済として理解可能にするのは何かという問いが潜んでいる。
 そこで、著者はこれらに加えて第四の水準を追加する。精神的生にとっての理解可能性の条件である。この文積水淳において、精神的生が有限で、物質的身体を伴い、社会的であることを確証することができる。経済的な問いを、独立しているとみなされる特定の精神的生の領域(例えば市場)に閉じ込めることはできない。むしろ、経済的な問いは、あらゆる精神的生の核心にある。生を営むには、何をすべきか、なぜそれをすべきかをめぐって、なんらかの形態の実践的熟慮に取り組まなければならない。そのような実践的熟慮は、相異なる活動の価値を比較し、自分の時間を使ってするのに値するものは何かと自問できることを必要とする。この問いが貝可能なのは、自身の生は短いと信じる者だけである。それは、これまで述べてきた時間の有限性に関する議論がそのまま当てはまる。有限だからこそ、その脆さ、不確定さの生に不安を抱く。そういう者だけが、時間が余っていたり、足りなかったりすることがありうる。さらに、自分の生に不安を抱いている者だけが、搾取に抵抗を試み、みずからの生を営もうとすることができる。生を営むなかで、必然的に、自分の時間をどう過ごすべきか、何を優先すべきかという価値づけをめぐる問いに関わることになる。これは、自身の時間に積極的に付与していることに左右される。だから、その時間尺度になるのは、自身の有限な時間である。こで、何かに価値を付与することと、何かに価値があると信じることは別である。たとえば、医学に高い価値があると信じるとしても、医者になることは私の生の優先事項ではない。何かに価値を付与するということは、そこに自身の時間を捧げるということだ。だからこそ、有限の時間は根源的な価値尺度なのである。それがマルクス思想の鍵である。
 ここで著者はひとつの例をあげる。ある村で水を汲んでくるのに井戸まで2時間歩かなければならいとしたら、井戸まで歩いていく2時間それ自体には価値はなく、生存のための水を得るという目的にとっての手段でしかない。それで、その時間は必要な時間ということになる。この場合、水道が引けたら、この時間はなくなるだろう。反対に、その2時間を充実した生に内在する一部として楽しむなら、それは自由の領域になる。その場合、この時間をあえて短縮させようとはしないだろう。この歩くことは、意図的な活動のすべてに当てはまる。この必要の領域と自由の領域は相互に依存している。両者はコインの裏表のように分離することはできないが、区別はできる。一方は他方なしに存在できない。両者の区別には、有限の生の時間がと゜のように根源的な価値尺度であるかという問題が反映されている。私が必要の領域で何かをするときその活動に費やす時間は、私にとって「コスト」である。それは労働時間として、必要の領域で費やさなければならない時間が増えるほど、その有働の産物に私が付与する価値は高まる。水をえるために毎日2時間歩かなければならない場合、その水は自宅で蛇口をひねると得られる場合に比べて、私にとっての価値はずっと高い。労働時間と価値の間の相関関係は、必要の領域において私が生産したり入手したりする対象すべてに当てはまる。私が必要とする対象を確保するのに費やす時間は、それ自体としては価値はないが、必要とする対象の価値を決めるのは、その対象を生成し維持するのに生の時間が私にコストとしてかかるからである。これをマルクスは「死んだ労働」と呼ぶ。水を汲みに行くことは毎日繰り返されることで定型化する。効率化とは、この水汲みの労働量を減らすことである。そこでの理に適った目標は、必要の領域を縮小し、自由の領域を拡大することである。時間は有限だから、目的の手段である必要の領域が縮小すれば、私にとってそれ自体が目的である活動に費やす時間が増える。自由の領域に生きることは、部分的には、生を生きるに値するものにするのは何かをめぐる私たちの考え方を発展させたり、変革させるたりするための時間をもつことである。
 このように価値尺度は自由の領域と必要の領域では異なる。自由の領域では、対象や活動の価値と、それらを生成維持するのに必要な労働時間の料との間には相関関係はない。その価値を左右するのは私のコミットメントである。だから、自由の領域で費やす時間は否定的なコストとは見なされず、かえって価値あるものと捉えられる。蓄積された死んだ労働の時間ではなく、生を営むための自由な時間を多くもつことが豊かなのだ。必要の領域における否定的な価値尺度(労働時間のコスト)は、自由の領域における肯定的な価値尺度を前提としている。必要の領域で富の尺度として機能する死んだ労働に価値があるのは、それに費やさなければならない労働時間が短縮され、私たちが自分の生を営むための時間をより多く使える限りにおいてなのだ。村の中央に井戸ができて、水汲みにいく2時間がなくなると、そこに自由な時間が増えると、暮らし向きがよくなると感じられるのである。これが、自由の領域の価値尺度と必要の領域の価値尺度がコインの裏表であるということなのだ。だから、自由の領域を増やし、必要の領域を減らすということは、理に適っていると著者は言う。近代的自由とは、ひとりひとりの精神的自由を無条件の価値として承認することだと著者は言う。だから精神的自由は無条件の価値ということになる。つまり、それまで生を営むための暗黙の条件であった精神的自由は、近代になって明示的になった。
 マルクスの思想には、そういう近代的自由は決定的なものである。マルクスによる資本主義批判が意味をもつのは、社会的個人が自身の生を営む自由へのコミットメントの視点からだからだ。そこでもっとも重要なのは、私たち一人ひとりが各々の生を営むことができるべきだという理想である。つまり、自由と平等。この場合の平等とは、各人の生がそれ自体として究極的な価値をもっているということである。ここには、私たちは有限だが、それゆえに究極の価値をもつという考え方が根底にあると著者は言う。それが自由主義の核心である。つまり、世俗的信の明示的形態と言える。ここでの個人の自由に必然的に伴う内在的批判として著者は次の三つに指摘する。第一に、法の下の平等と憲法による権利の保障である。第二に、形式的ないしは法律的観念としての自由である。そして第三に自由を担う個人という概念である。マルクスは、この三つの内在的批判をすべて追究し、これらを厳密な形で定式化した。その結果、資本主義の強いる社会組織や分業は自由を損なっている。資本主義下での価値の尺度と社会的富の尺度は、自由時間の価値と真っ向から対立する。
 マルクスに先行したヘーゲルは、自由の理念は物質的で社会的な実践とは切り離せないと主張した。そこでは、誰もが自分自身の生を営む自由を承認する制度を作り、維持することが必要になる。ヘーゲルにとっては、私たち自身の生を営む自由は、自然に持っているというよりは、社会歴史的な達成であり、そのためには制度的実践によって形成されるものなのだ。私たちは、自分自身にしても、自身の行動にしても、それらを理解するのは社会世界をとおしてのことであり、そのような社会世界によって自分自身は形成される。精神的存在として、私が自分自身が何者かである、何かをすると理解できるのは、他者に承認された実践的アイデンティティを私が持っているからである。私の行動を、私が何者であるかの表現として受け取ってもらうには、私のすることが規範に従属していなければならない。その規範は社会的に制定されたものだ。つまり、私たちの実践的アイデンティティは、私たちが所属する社会から切り離すことはできない。表面的には自然なものに見える私たちの利己主義は、それ自体が社会形成にかかわるものである。そこで、ヘーゲルにとって、現実的な自由社会とは、共通善に対する私たちのコミットメントを、私たち自身の自由の可能性として認識できる社会である。国家の法を押しつけられたもの、私たちの自由を制限するものと見るのではなく、私たちが自由な生を営むことにコミットしているがゆえに、国家の法に縛られるとみなす。このような国家と個人の相互承認が現実的な自由の条件である。そこで、制度による自由の形成は、従順な市民をつくり出すために、外在的動機によって作られた法律や規制を主体に押し付けることにかかわるものではない。それとは反対に、制度による自由の形成とは、自身が従属する規範を、自分で自分を縛りつけた規範として理解できる市民になること、つまり、自身の行動は内在的動機によるものであり、自身がなすことを、自分自身にたいしても、他者に対しても正当化できる市民になることを可能にするのを提供することにかかわるものである。私の行動を、私が何者であるかの表現として受け取ってもらうには、私のすることが規範に従属していなければならない。そのような規範とは社会的に制定されたもので、私が成功したり失敗することがありうるのは、それとの関係においてのことである。利己主義者であることは、自然的事実ではなく、私が維持しなければならない実践的アイデンティティなのである。自由の理念は偶発的な歴史的達成であり、私たちが維持するコミットメントに左右される。それは自由の理念は、私たちが自分たちの実践を通して維持する限りにおいてしか存在しないからである。
 マルクスは、それなら近代国家と近代国家が依拠する市場経済が現実な自由社会と両立するのかどうかを問うた。しかし、著者はマルクスのヘーゲル批判は中途半端であるという。著者によれば、ヘーゲルのいう自由社会の制度的合理性は富の生産が、目的それ自体ではなく、市民一人ひとりの幸福のためのものであることを要求する。個々人の生計と福祉の保障が権利として扱われ、現実化される。この福祉とは、自分自身がそして自身が承認する他者が尊厳あるものだと認識できる自由な生を営む社会的可能性を持っていることにかかわるものである。しかしながら、福祉と尊厳に対する市民一人ひとりのコミットメントは、資本主義においては社会的富を生産する条件である賃金労働の力学と矛盾する。市民社会の市場経済は貧困と失業の問題に対して二つの解決策しか提示できないし、それらの解決は根本的ではない。貧困層は賃金労働の創出により暮らしていくことはできるが、尊厳つまり自由を得られるわけではない。富の過剰にもかかわらず、市民社会は富んでいない。それを過剰生産の問題とヘーゲルは指摘しているという。ヘーゲルは、マルクスが資本主義的な富の生産における根本的な矛盾として分析するものに通じる道を示している。この過剰生産は賃金労働に依拠している。
 マルクスの資本主義批判は、資本主義の条件そのものからの批判である。平等と自由についての自由主義の理念は、資本主義を克服することをとおして成就されるということの一方で、そのような理念さのものの歴史的な出現は資本主義的な生産様式と切り離すことはできない。さこでは、資本主義の二つの特徴はとくに重要である。第一に、資本主義社会では社会秩序は宗教的教義や貴族的血統の訴えでは正当化されない。先行する社会では宗教的権威や自然権によって権力のヒエラルキーが正当化されていた。だからこそ、支配と搾取の根本にある経済階級の利害が隠されていた。それとは対照的に、資本主義下では、経済的権力が社会的不平等の源泉であることが明示的に認められている。資本主義下では、原理的には、人は皆、平等である。権力のヒエラルキーは、買い手と売り手、資本家と労働者の関係をとおして確立される。どの買い手も、財力があれば財産を所有する権利があり、売り手も、付け値を拒んだり受け入れたりする権利がある。第二に、資本主義下では経済関係に参加する者は誰であれ自由であることが、形式的には承認されている。以前の奴隷制や農奴制とは違って、原理的には他人のために働くことを強いられることなく、各人が自分の生を所有することを認めることができる。ただし、自分の望む相手に自身の労働力を売るのは自由である。私の生の時間は、どこまでいっても私のものであり、賃金と引き換えに私の労働力を他人に売るとき、わたしは必然的に自分自身の生を売っている。私の時間は私の生と切り離せないのであり、私の時間に価値があることが、資本主義下では明示的に認められている。この二つの特徴からも分かるように、資本主義の経済関係をとおして出現する平等と自由の概念は、内在的批判に通じている。私たちが平等であることが形式的には認められている者の、以前として最初から不平等である。そのことを正当化するのは、宗教でも血統でも身分でもなく、経済関係である。
マルクスは、これがどう機能するのを見るために商品という概念かに入っていく。商品の一般的形態は資本主義に特有というわけでもなく、使用価値と交換価値の両方を持つ。商品の使用価値は、商品の使用目的である。水1ガロンの使用価値は飲むことであり、洗うこと、植物を育てることなど。また、交換価値は他の商品の価値との比較で決まる。交換価値の等価性は、貨幣という形態で表現される。これらは資本主義に先行する。この交換価値はどのように決まるかを最初に考えたのは、アリストテレスであるという。水1ガロンと靴1足とを交換する場合、両者をそのまま比較することはできない。そこで価値尺度を設定する。それが実際的必要に対する緊急措置であるという。これに対して、マルクスは価値尺度は労働時間であるという。すべての商品の生産には労働時間というコストがかかっている。実は、それ以前も労働時間は暗黙の価値尺度ではあった。しかし、奴隷制では労働時間はコストにならない。資本主義では、各人が平等であると承認され、自身の時間を自由に過ごしている認識される。そのことを前提にしてはじめて労働時間をコストとして理解することができるのである。資本主義下では、自由時間への一般的権利を承認する社会形態は、賃金労働である。賃金労働制度が認められるのは、生きていく糧を得るために働く時、私の必要の領域で働くことで、否定的なコストと見なされ、その埋め合わせが賃金ということになる。これと同じ理由で賃金労働が認めるのは、それが労働時間の彼方に開かれる自由の領域で私の生を営むという目的のための手段であることである。私の賃金は、生きていく糧を手に入れる手段であり、それが、私にとって重要な企図やコミットメントを追求するための自由な時間を私に与えるものになっている。しかし、マルクスは、賃金労働を媒介とした自由の約束は、賃金労働という社会形態それ自体によって裏切られる、と言う。
 賃金労働という社会形態は、経済全体のなかに大量の剰余価値を作りだす能力がある。そのように価値を成長させる能力は、資本主義を称揚する理由である。利潤とは仕入と売上の差額である。それは境内全体ではゼロサムゲームになる。ある人が儲けるということは、別の人が損をするということだからである。したがって、経済全体は価値が増加することにはならない。そこで、生きた労働の活動で説明しようとする。私たちは自分を生かし続けながら消費する必要のある以上の生の時間を生産している。それが自由時間だ。だからこそ、私たちには搾取される可能性がある。賃金労働は私たちの生の時間の剰余を、利潤のために、資本を成長させるために、剰余価値に転換する。例えば、私が資本家として井戸を所有しているとする。井戸は村から1時間のところにある。水に対する需要は高いので、私は500人の労働者に毎日8時間、週6日、井戸まで歩かせて水を汲んで来させている。水1ガロンの価値は、平均的な労働者が水を汲んでくる時間(労働時間)の長さである2時間となる。マルクスは、これを社会的に必要な労働時間と呼ぶ。この社会に必要な労働時間は、平均的生産手段に左右される。水1ガロンを汲んでくる、水の運搬の使用する道具がそれにあたる。労働市場で資本家の私が購入する労働力の価値は、その労働力を作り出すコストによって決まる。資本家が購入するのは労働力であって労働者ではない。しかし、それをどう区別するのか。労働力は生きている人間の能力だから労働者を切り離すことはできないからだ。労働力を生産するコストは、労働者の生を再生産するコストから切り離せない。それは、十分な食事、睡眠、その他の労働者が生き続けるのに必要なコストだ。だから、賃金率と、ある社会のある時点での生存手段の平均コストとは相関している。労働力への投資は総じて利潤を生む投資である。それは自己を維持するためにかかる以上の時間を生み出すからである。これが剰余価値の起源である。平均的な労働者が1時間の労働で生み出すことのできる価値は、平均的な労働者の生を1時間の労働のために維持するのにかかるコストよりも大きい。資本主義経済で、富が増加しうるには、労働によって作り出された価値が労働コストより大きいという状態が必要である。
 一方、資本家である私にとって、個々の労働者に投資することが利益につながるかどうかは不確かである。そこで、私は雇った労働者ができるだけ一生懸命に働くように仕向ける。ある労働者が、村まで水1ガロンを運ぶのに1時間以上かけたとしても、それだ、その水1ガロンの価値が明かるわけではない。そこで、私は、資本主義を奉じる雇用者として、雇った労働者からより多くの労働を引き出すために圧をかけるように駆り立てられる。その理由は第一に、搾取の力学は資本主義という社会形態それ自体に内在する。資本主義を奉じる雇用主として雇った労働者から剰余価値を搾り取らなければ、ビジネスが立ち行かなくなる。
 例えば、村人は時給10ドルで水汲み労働に雇用されている。週給は480ドルになる。この賃金は村で暮らす個人の平均的な生活費との関係で設定されている。つまり、この賃金で十分に生を維持できる。しかしながら、1時間の労働で生産する水1ガロンを20ドルで売ることができるとすると、諸経費をひいたあとでも1ガロンにつき5ドルの利益が雇用主の手許に残る。これが、増大する資本に転化する。その利潤を増やすために、資本家は労働者にもっと懸命に、もっと長時間働く圧力をかけ始める。これにより、近隣の資本家たちは以前より安価で水を汲むことができるようになり、市場を奪うことができる。それに対抗するために、そうでない資本家も労働者に圧力をかけざるを得ない。しかし、労働者は、それでは身体を壊してしまうと、抗議に出て、組合を結成する。その結果、規制が実施され、利潤は制限されることになる。そこで技術革新による効率アップを図る。マルクスは、労働者に圧力をかけて得る剰余価値を絶対的剰余価値、技術革新により労働時間を増やさずに増やせる剰余価値を相対的剰余価値と呼んだ。技術革新(発展)は、以前より少ない時間で以前より多くの価値を労働者に生産させることができる。それはさらに、賃金を下げることもできる。例えば、新しい技術によって、労働者たちが1ガロンの水を2倍の速度で生産できると、水1ガロンの価値は半分になる。その結果、村では水1ガロンの購入価格が下がる。それは労働者の平均的な生活費が下がることになり、賃金を下げる。その結果、相対的剰余価値が上昇する。そして、その利潤が資本に転化され、生産効率はさらに向上すると、必要となる労働者の数は減り、失業者が現われることになる。このような剰余人口が増えると自己との取り合いとなり、食つなぐために低賃金でも職を得るための競争が生じる。一方、失業が増加すると、購買力が落ちて利潤が上がらなくなる。このように資本主義的な生産様式には矛盾が内包されている。それで、資本主義は相対的剰余価値を搾り取ることでしか維持できないことになる。そして、相対的剰余価値を搾り取るかどうかを左右するのは労働時間を継続的に減らしていけるかであり、それを可能にするのは技術の進歩である。この場合、労働時間が減れば、自由時間が増える可能性がある。しかし、資本主義下では、剰余時間は剰余価値に転化されねばならないので、その可能性は叶えられない。つまり、過剰生産という危機が資本主義には、つねにつきまとう。その危機を食い止めるには、その仕事が本当に必要かを関係なく人を雇う。商品が本当に必要かに関係なく、消費させなければならない。資本主義下では、私たちは何を必要としているか、何を欲しているかという問いのすべては、何が利潤を生むかという問題に従属させられなければならなくなっている。
 価値の年間成長を生みだす比率で利潤を生む投資の機会を見つけるために、自然資源ばかりか、私たちの生の諸側面をも商品化せざるをえなくなる。商品化される自然資源が増えれば増えるほど、そこから産出可能な利益も増える。それと同じように、売買できるものに作り変えることのできる私たちの活動が増えれば増えるほど、私たちが手にする利益の源泉は増える。このような、自然資源や生にかかわる活動の商品化は、資本主義の維持には必要不可欠である。資本主義にコミットしているかぎり、私たちの生の諸側面を商品化することにもコミットすることになる。
 マルクスに従えば、資本主義とは、賃金労働を社会的富の基礎とする、歴史的な生の形態と定義することができる。マルクスは、賃金労働に依拠する価値尺度を批判した。価値尺度によって、どのように経済成長を計算するかが決まり、またそれによってどう社会的富を測るかも決まる。資本主義下で富の生産が依拠するのは労働時間であり、生きた労働時間は剰余価値の源泉である。剰余価値は利潤に転化され、資本の成長を生む。
 ここで、マルクスが一般労働価値説を受け入れていると誤解されていると、著者は指摘する。一般労働価値説は労働があらゆる社会的富の必然的な源泉である。マルクスは、これに対して価値尺度としての社会的に必要な労働時間は商品形態に特有のものであり、それが価値の本質となりうるのは、資本主義的生産様式のみです。価値尺度としての労働時間は歴史横断的な必然ではなく、資本主義の時代特有の本質であり、この本質は矛盾しており、克服可能だ。これがマルクスの資本主義批判、つまり価値概念の分析による批判だ。
 新古典派経済学は、商品の価値を、労働時間ではなく、需要と供給の観点から説明しようとするが、それはマルクスによる体系的な資本主義分析を避けるためのアリバイとして機能している。むしろ、マルクスを暗黙のうちら追認することで成り立っている。受容と供給、あるいは稀少性といったカテゴリーは社会的労働によって価値尺度という観点で捉えないと理解できない。商品の価格はさまざまな要因によって変動するが、その価値は社会的に必要な労働時間のコストによって測られる。つまり、限界効用は社会的に必要な労働時間言う意味での価値尺度を前提しているからである。
 私たちは生きた存在として、自分たちを生かすためにコストとしてかかる時間よりも多くの生活時間を生産している。だから、私たちは労働力というかたちで売ることができる剰余時間をもっている。もし私たちが生の剰余時間を生み出していなければ、私たちは売却できる労働力がないことになり、私たちを雇うことによって得られるものは何もないだろう。反対に、私たちが剰余時間をたえず生み出しているからこそ、資本主義を奉じる雇用者は、原理的には、賃金と引き換えに私たちの労働力を購入し、剰余時間を搾り取ることができるのである。しかしながら、私たちの労働の剰余価値が利潤に転化されるには、私たちは、商品を生産するだけではなく、消費しなければならないし、自分たちの労働力を売却するだけではなく、生産に要する以上のコストを払って労働の産物を購入しなければならない、資本主義を奉じる雇用者が最終的に手にする利潤が、資本の成長の源泉である。このように、賃金労働の力学はあらゆる形態の資本主義を定義している。なぜなら、利潤のための賃金労働が、資本の成長を生み出す可能性の条件だからである。商品の生産と購入の両方を行う生きた存在を雇用することによってのみ、経済のなかに剰余価値が生まれる可能性がでてくる。だからこそ、生きた労働時間は資本主義経済におれる価値の源泉なのであり、だからこそ、社会的に必要な労働時間が商品の価値尺度なのである。
 だから、ハイエクのような売却と購入、供給と需要といった空間的な流通過程から価格の決定では、そもそも、もともとの商品に価値がある根拠が示されていない。
 本当の価値尺度は、私たちがした労働の量でもなければ、私たちがすべき労働の量でもない。私たち自身にとって大切なことを追求し、探求することのできる自由な時間の長さである。自由時間という観点での社会的富の尺度は、労働時間という観点での社会的富の尺度にたいする外在的な代替案として私が押しつける理想ではない。それとは反対に、自由の領域で時間をもつことの価値は、必要の領域における労働時間の価値や尺度に対して内在的であるがゆえに、富の本当の尺度である。必要の領域における労働時間の価値をそれ自体として理解できるのは、ひとえに、私たちがすでに自由時間の価値にコミットしているからである。だが、社会的富の資本主義的尺度は、これとは違うことを私たちに信じさせようとする。資本主義下で生きているかぎり、村の近くに井戸を掘っても、私たちにはいかなる価値を生み出されることはない。私たちが井戸から価値を搾り取るためには、生計を立てるために井戸を稼働させなければならない人から剰余価値を搾り取ることである。それが労働時間という観点で価値を測ることの帰結である。だから、資本主義下での価値の計測それ自体が、自由の現実化に反していることになる。資本主は必要の領域で稼働している価値尺度を採用し、それをまるで自由の尺度であるかのように扱う。それゆえ、資本主義は必要の領域を増大させ、自由の領域を縮小させることになる。なぜなら、資本主義の富の原理は、自由な生を営むための手段としてではなく、目的それ自体として富を用いることを求めるからである。資本本主義下での富の要点は、さらに富を蓄積することであって、有意義な目的のための手段として使用することではない。死んだ労働の蓄積が、私たちが価値と呼ぶものであり、死んだ労働を蓄積すればするほど、私たちはますます豊かになる。資本主義下では、生きたろ労働のために詩だろロ労働が役立てられるのではなく、死んだ労働をさらに蓄積していくために生きた労働か役立てられている。したがって、必要の領域にある労働の目的は個本的なところで歪められており、それ自体の目的を達成することを妨げられている。手段としての労働が目的それ自体になっており、自由の領域で生を営むための手段として機能していない。
 それゆえ、資本主義批判の鍵となるのは、価値の価値転換である。資本主義の基礎は社会的に必要な労働時間という観点からの富の尺度である。それとは対照的に、資本主義の克服が要求するのは、私たちの富を、私が社会的に利用可能な自由時間と呼ぶものの観点から測ることである。社会的に必要な労働時間が私たちの富の尺度であるかぎり、機械技術を運用することで私たちにとって何らかの価値が作り出されることはあり得ない。技術は私たちの生を営むための時間を増やしてくれるという目的ではなく、人間労働を搾取するために使われてしまうからだ。
 そして、価値の価値転換は資本主義の内在的批判である。価値転換は、資本主義が用いる社会的富の尺度に対立する新たな価値を提案するのではない。むしろ、価値転換は、資本主義用いる社会的富の尺度はそれ自体としては意味をなさないこと、そして資本主義は自身が否定している自由時間という価値を前提としていることを立証する。つまり、資本主義は価値と社会的富の意味を歪めているのだ。
 価値の価値転換が目指すのは、自由時間にたいするコミットを反映するように社会的富の捉え方をつくり変えることである。私たちの富の度合とは、自分たちの生を用いて何をすべきかという問いに取り組むために私たちがもっている資源の度合である。これを左右するのは社会的に利用可能な自由時間の量である。これは、義務や責任を免れることとは違う。実践に取り組むための自由である。これが価値の価値転換の要点である。このようなマルクスの議論の基礎は、おおむね見過ごされてきた。それは、彼が価値という言葉を、労働時間の量としての価値という資本主義の捉え方に限定して使っていたためだ。しかし、『経済学批判要綱』のノートには技術的発展が労働者の自由の領域の拡大につながらず、労働者から相対的剰余価値を搾り取るための搾取方法を強化するという矛盾の指摘が記されている。それと同時に、このような矛盾は、その内部に介抱のポテンシャルを秘めている。しかし、著者は、マルクスの社会変革には、私たちの方で積極的に価値を価値転換することが求められていることまでは明示していない、という。
 次章の内容となるが、資本主義は現実的な民主主義とは両立しない。民主主義が、民主主義的な自由と平等の概念に忠実であるためには、資本主義が克服されねばならない。

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