マーティン・ヘグルンド「この生─世俗的信と精神的自由」(6)~第4章 自然的自由と精神的自由
ここでは、生の有限性がなぜ行為能力と自由のための必要条件なのかについて考える。
本章では人間と動物の違いは、精神的自由と自然的自由の違いにあるという主張から始められる。その違いは哀悼、遊戯、勇気、苦しみ、喜びの形態を示す、さまざまな本能や忠誠個々の間に食い違いが生じた場合、どちらを選ぶかで種であることが何を意味するかについての自己理解を作り変えるのが人間に限られるということだ。つまり、人間であるとはどういうことかの理解を、変えることができる。人間には自然なあり方というものがなく、その行動原理を決定するような種としての要求はない。むしろ、何をするかとか自分自身が何者であるかとみなすかは、歴史規範の枠組みと切り離せない。
このとき、自然的自由と精神的自由の区別には上下はなく、優劣もない。それゆえ、この区別によって人間が動物を搾取することを合法化しない。
動物のような自然的自由の存在には、生存のために食べるべきといった行動を導く規範的な「すべき」はあるが、規範それ自体を疑問に付すことはできない。自然的自由は一重の「すべき」構造である。なぜなら、行為主体には、自己の指導原理を疑問に付すことも、何をすべきかを自問することもできないからである。それとは対照的に、精神的自由は二重の「すべき」構造である。精神的構造をもつ存在として、私は何をすべきかを自問できる。なぜなら、私の行動だけではなく、私の行動を導く規範的原理にたいしても応答できるからである。ここにあるのは、すべきことにかんする要求だけではない。すべきことになっていることをすべきなのかという問いもある。自分の生を用いて何をしているのかと私は自問できるし、私が何者であるかを定めているコミットメントをつくり変えることもできる。ただし、そのようなつくり変えはすべて、自身の生を営もう試みている実践的な立場からでなければ不可能だ。それゆえ、私の自己意識は、私を私の生の外部に据えることはできない。もっとも明示的な形態を取る自己省察のなかでさえ、私をそこから切り離すことはできない。私の自己意識は、私の生を維持するという実践的な活動のなかにしか、そのような活動をとおしてしか、存在しない。つまり、退却先になりうる観照的自己は存在しない。自己の生を営むという実践的な活動が、私の精神的自由の条件である。
自然的自由と精神的自由の区別をさかのぼっていったところにあるのは、生についての世俗的な概念であり、それは本書の議論の根柢にあるものである。宗教的信仰が死を終点とする生には意味がないというのに対して、生の目的は死の見込みに依拠していると本書は主張してきた。それは、生を維持するために私たちが個人として、集団として費やす労力は、私たちが死と関係を取り結んでいることの証左である。私たちが死者を憶えていることが、私たちの精神的な生の主要な特徴であるのとちょうど同じように、私たちが死後も憶えていてもらおうとすることは、私たちの精神的なナノの主要な特徴である。記憶の重要性は、忘却のリスクと切り離せない。未来の世代が私たちの記憶を保ち続けるかぎりにおいてのみ、過去の世帯は生きつづけるのだという感覚が、過去の世代に対する私たちの誠意を生きいきとしたものにしている。このような形で生き続けることを、永遠の生という宗教的観念と混同してはならない。私たちが死社の記憶をもち続けることを余儀なくされるとしたら、それは、死者は死んでいると私たちが認識しているからである。それと同じように、もし私たちが死後に忘れられないことを気にかけるとしたら、それは、自分たちがいつかは死ぬことを私たちが認識しているからである。死の見込みかなければ、自然的にものであれ、精神的なものであれ、生を維持する目的はないだろう。死のない生は、生として意味をなしえない。有限な生だけが、生として意味をなしうる。
本書の議論の出発点は、自己維持を特徴とする生の概念である。生物はただたんに在ることはできないのであり、自己の活動をとおしてみずからを維持し、再生産しなければならない。自己維持の概念は、自己再組織化するものとしての生命有機体や生命システムという定義すべての根柢にある。生きていることは、必然的に、自己関係をもつということであり、いかなる自己関係も自己維持の活動のなかにある。生きていない実体は、自己の存在を維持するために何かをしているわけではないので、いかなる形態の自己関係ももたない。それが無生物生物の範疇的な区別である。自己維持活動なしに在る物は、生きているのでも死んでいるのでもなく、生きていないものとして理解可能になる。それとは対照的に、ある実体の存在が自己を維持する自身の活動に左右されるのであれば、それは生きているものとして理解可能になる。自己維持活動が停止すれば、それはもはや、生きているのではなく、死んでいるものとして理解可能になる。
生を生として理解可能にするもの。その問いのために、自己維持の形式的な特性から、生の必然的な特徴を導き出す。そこで導き出せる第一の特徴は、生は本来的に有限でなければならないということである。目的志向の自己維持活動が前提とするのは、生物の生は活動に左右されること、つまり、自己維持を行なわなければ生物は崩壊して死ぬということである。このような死の見込みがあるからこそ、自己維持の目的が理解可能になる。内在的にそなわっている死の可能性との関係においてみずからを生かし続けなければならない喪の物だけである。もし、生が失われないとしたら、自己維持活動にたいして生きるか死ぬかの関心をもつことはないであろう。
第二の特徴は、生は脆く壊れやすい物質的肉体に左右されるものでなくてはならないということである。生には特定の物質的基礎には還元できないが、自己維持が必要な物質的肉体というなにかしらの形態を必要とする。生物の物質的肉体は、崩壊や機能不全のリスクを孕んでいなければならないという意味で、脆く壊れやすいものでなければならない。もし生物が脆く壊れやすい物質的肉体に左右されることがなければ、自己維持の主体も客体も存在しないだろう。生きていることは、必然的に、生命が途絶える可能性のある物質的肉体を維持する活動に従事することである。
第三の特徴は、生あるものと生なきもののあいだには非対称の依存関係がなければならないということである。どのような形態の生命活動も、必然的に、生気のないものと関係をもっているが、逆の議論はない。生気のない物体は、存在するために、いかなる形態の生命活動も必要としない。生あるものは生なきものと関係をもたなければ存在できないが、その一方で、生なきものは生あるものと何の関係をもたなくても存在できる。だからこそ、生物が現われる前に物質的宇宙が存在できることも、あらゆる生命形態が絶滅した後に物質的宇宙が存在できることも、理解可能なのである。生はその存在自体が、脆く壊れやすい現象である。
これらのことから、自己を維持しているものとしての生という概念は、自己充足的なものとしての生という考え方とは違う。自己維持という形態は、自主独立の形態ではなく、有限性の形態である。生の概念には二つの属があり、自然的生と精神的生である。自然的生には、自然的自由の特徴を示す種のすべてが含まれる。自己維持という目的に則った活動に従事する一方で、そのような活動自体を疑問に付すことはできない。自然的自由の第一の特徴は自己再生活動である。自然的生の活動の目的は自己保存ないし種の保存である。したがって、それを示すのは自己決定という根本的な形態である。第二の特徴は、否定的な自己関係を引き受ける能力である。困難に遭遇したとき、生物は、起こることに受動的に身を任せるのではなく、自身の自己決定と歩調を合わせて、何らかの形態の能動的な抵抗に身を投じる。否定的な自己関係を引き受ける能力があればこそ、異物は、多大な困難や苦痛をともなうときでさえ、自分自身であろうと奮闘できる。生物はつねに奮闘を続けなければならないが、それはみずからを生かし続けなければならないからである。生には最終的な目標も完成もない。なぜなら、生が終着点にいたりうるとすれば、それは死をおいてほかにないからだ。生は本質的に時間内的な活動だ。否定的なものとの関係を取り除くことはできない。なぜなら、生物は絶え間ない変化をこうむるものであり、時間を通じて自身が変化していくなかで自己を維持しなければならないからである。それゆえ、否定的なものとの関係は生物それ自体の内部にあり、生物の否定的な構成の一部である。また、このことは剰余時間との関係もある。生物による自己維持の奮闘は、必然的に、生存手段を確保するのに必要な以上の生の時間をつくり出すため、あらゆる生物には少なくとも最小限の自由時間がある。
精神的生の属には、自身の時間をどのように過ごすべきかを自問する能力を本当に持ち合わせている種すべてが含まれる。精神的自由の特徴は、自然的自由の特徴の高次の形態であるということ。具体的に、第一の特徴は、生の目的が自然なものではなく、規範的なものとして扱われるということ。精神的存在として、私は、自分の生や自分の種の生を保存するためだけでなく、私が私とみなす私のために行動する。私が私とみなす私が、コミットメントに信を置き続けることを要求するからこそ、それは実践的アイデンティティなのである。私の実践的アイデンティティによって、しかじかのものが、価値があり重要であるものとして浮上してくる一方で、その他のものは、気を散らせたり、心を惑わせたりするものとして立ち現われてくる。私の実践的アイデンティティは、私が生をどのように営むか、私の生に起こることにどのように反応するかの両方に影響を及ぼす。しかじかの実践的アイデンティティをもつことが何を意味するのかは、私が決めてよいことではあるが、社会で共有されている規範に左右されることでもある。私はみずからの実践をとおして規範をつくり変えることができるが、そうするなかで、つねに他者への応答に開かれており、みずからを説明する資格を負っている。みずからの実践的アイデンティティに照らして、私はみずからの欲望や熱望に従属するばかりか、みずからの欲望や熱望の主体にもなる。私は私の生を生きるなかで、私の生を営んでもいる。そして、ひとりの人間が持つ複数の実践的アイデンティティのあいだの優先順位は、実存的アイデンティティと呼ばれる。
精神的自由の第二の特徴は、自己に対して否定的な関係をもつ能力である。否定的自己関係は、実存的アイデンティティの危機として表面化するが、このような関係は実存的アイデンティティのなかにいきづいている。たとえば、私が私であることに失敗しても、その痛みを経験するのは、私か生きて、自身の生を営もうとしているからである。これが、自己との否定的な関係を引き受ける私の能力である。私のアイデンティティは実践的なものであるから、失敗することもあれば、崩壊することもある。実践的アイデンティティのあいだで確立された優先順位でさえ、崩壊することがある。しかし、それらが崩壊したからといって、人格をそなえた者としての私の生が終わるわけではない。私が自分自身の生を営んでいるかぎり、私は統一性を持とうとしているのであり、たとえそれがうまくいっていないときでも、そうである。人格をそなえた者であることは、必ずしも、実践的アイデンティティの要求にもとることなく生きることの中ではなく、実践的アイデンティティを維持したり変化させたりしようと試みることのなかにある。自己に対して否定的な関係を持つ能力によって、私は、大きな個人的苦しみという代償を払わなければならないときでさえ、実践的アイデンティティや実存的アイデンティティの要求にもとらない生き方を追求することができる。
精神的自由の第三の特徴は、自分の時間を使って何をすべきかと自問する能力である。あらゆる生物は剰余時間を持っている。私が自分の時間をつかってすべきことが私にとって大事なのは、私が自分の生を有限なものと捉えているからにほかならない。自分の生は有限で、けっして長くはないという認識は、いつか死ぬということだけでなく、生を営めないかもしけないというもどかしい不安を抱いていることを含んでいる。この不安は、克服可能な、克服すべき心理状態には還元できない。むしろ不安は、自由な生を営み、情熱的にコミットするための理解可能性の条件である。私の生が私にとって大切であるかぎり、私の時間が限られているという不安は、私を活気づけるはずだ。なぜなら、私の時間が有限であればこそ、しかるべき人間になろうとし、何かをしようとしなければならないという切迫感があるからだ。その、私の生は短すぎると主張することは、規範的判断である。そこで表明されているのは、自分時間を使ってする価値があると私が考えているからだ。この判断は時間の物理的長短に関係なく、その質にかかわる。前述の通り、有限性と不安との関係は克服されるべきものではない。最終的な心の平安を達成しようと試みる代わりに、私たちは、私たちの自由に付いてまわる実存的な不安を自身のものにすべきである。もし私たちが自分時間を使ってすべきことに何の不安ももたないとしたら、私たちが私たちとみなす私たちに値する活動はどれであり、それに値しない活動はどれであるかを区別できない。これと同じ理由で、いかなる形態の精神的生も、脆く壊れやすい物質的身体に依存せざるをえない。
私の時間を使って何をすべきかをいう問いに、問いとして取り組むことができるというのが、私が精神的に自由である理由である。この問いに出来合いの答えがあるとすれば、それでは、私に精神的に自由ではないことになる。私が何者であるべきか、何をすべきかは、すでに決まっていることになるだろう。しかしながら、社会的規範であれ自然的本能であれ、それ単体では、私が何をすべきかを決定することはできない。なんらかの規範を厳守するとき、その規範を厳守しているのは、ほかならぬ私であり、自分の自然的本能であるとみなすものに従うとき、その本能に従っているのはほかならぬ私であり、私はみずからの責任でそうしているとみなすことができる。この行為を支えているのは信である。それゆえ、世俗的信と世俗的理は表裏一体である。世俗的信は、宗教的な啓示や神秘的な直観とは何の関係もないが、規範的コミットメントの構造に本来的に備わっている。私は自分のコミットメントを規範的なものと捉え、それにたいして信をもち続けなければならない。なぜなら、それが生きるのは、私のなかだけであり、私をとおしてだけだからだ。自分のコミットメントを問い質したり、つくり変えたり、裏切ったりすることもできるが、それはあくまで、私が別のコミットメントに信をもつかぎりにおいてである。
一方で、これは不安定である。私たちがすべきことも、私たちがなるべきものも、あらかじめ与えられてはいないため、ここには、誰に対して、何に対して信をもち続けるべきかという問いが常にあるからだ。これらの問いは、私たちの精神的自由にかかわるものである。これらは、自分自身が有限であることを理解している存在にとってのみ生きた問いでありうる。これらは、私が大切にしているものに関わる問いである。この問いに答えることは、私の生のなかで切実なもの、優先すべきものを決定することである。何か重要なことがある場合、それを「いずれ」ではなく「すぐ」にやることが大事である。すぐといずれの区別は相対的である。三人称的に客観的に区別することはできない。その区別からは一人称の見地からのみ可能である。つまり、私の切迫感が境い目となる。何をする場合でも、私はみずからを未来に投企しているのであり、そうすることが経験を可能にする条件である。何者かになること、何かをすることは、私が維持しなければならない可能性のなかにみずからを投げ込むことである。しかしながら、私の死を予測することは、私の生のすべてを構造化する唯一無二の形態である。私の死は、私が経験できるようなものではない。なぜなら、私自身についてのあらゆる経験は、私か生きていることを前提としているからだ。むしろ、私の死は、私の生の乗り越え不可能な限界の投影であり、それがあればこそ私の生における「すぐに」と「いずれ」を区別できるのである。私の精神的自由、つまり、何を優先すべきかという問いに取り組む能力は、私の死の投影に依拠している。私の死の地平は、自分の生を用いて何をすべきかという問い答えを与えはしないが、その問いが私にとってどのように重要なのかを理解可能にしている。
自然的生は、自身の死との関係のなかで行動している。しかし、種の生命を維持するという目的それ自体は、個体にとって問題になっていない。個体は、つねにこの目的に照らして行動しており、それゆえ、自然的自由の形態に制限されている。これに対して、私たちは、私たちの生の目的それ自体が問題になっている。自分がしていることや、自分が自分であると見なしている自分に、完全没頭しているときでさえ、私たちの根本的なコミットメントは疑問に付されうる。私たちのすることが私たちにとって意味をなさなくなることはありうる。このような実存的不安の形態は、私たちのコミットメントを変容させ、新たな活力を吹き込むこともありうる。実存的不安は私たちの精神的自由のしるしである。私たちの根本的なコミットメントは所与のものではないからこそ、私たちは自然の目的ではなく、理想に、みずからを縛り付けることができるのである。私たちの根本的コミットメントは震えおののくものであり、バラバラになってしまうかもしれないものだからこそ、私たちは自分たちの生を用いて何をすべきかという問いに取り組むことさえできるのである。
精神的自由の概念によって、私たちは、世俗的信と宗教的信仰の最深部にある差異を測ることができる。永遠の救済という宗教的理想は、自由で有限な生を営むということを軽視する。肉体は朽ちることから逃れられないという理由で、軽蔑の対象となる。個人的な行為能力は克服されるべき幻想と考えられる。
著者は、この理想は空虚であり、奮闘して目指すに値しないと主張する。私たちの熱望がその内奥まで成就されるときでさえ、かならず自由の不安に震えおののいている。その不安の形態をすべて根絶しようという、その理想は、徹頭徹尾、心得違いだ。それは、精神的生それ自体を根絶しようとするものだからである。この理想が目指すのは、有限の生からの解放である。それゆえ、救済という宗教的理想は、自由という世俗的理想と両立しない。宗教では、自由な生を営むことは、目的それ自体ではない。そうではなく、私たちの自由は、神に仕え、神によって救われるという目的に向かう手段である。宗教的救済の目標は、私たちの有限の生を解放することではなく、私たちの自由の条件である有限性から私たちを救うことである。開放が目標になるやいなや、私たちは気づかいの実践を、宗教的なものから世俗的なものに移行させているのであり、そこで私たちが追求するのは、有限の生から解放されることではなく、むし有限の生を解放することである。
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